三月になって未だ雪解けを待つ北方に、ロゼッタ王国は位置する。今はスィンセシスと名乗らねばならないその北国で、リディア公爵令嬢イヴェールは、鉄格子のはまった窓から白い外を見下ろし、うんざりと溜め息を吐いた。
 ロゼッタがスィンセシスに陥落されてかれこれ一週間。それと全く同じ期間をイヴェールは鉄格子のある部屋に閉じ込められていた。

「イヴェールさま。お茶でもいかがですか?」

 可愛らしい、おっとりとした声に首を巡らせる。暖炉の前で円陣を組む、似たような年頃の五人の娘たちは、美味しいお茶とお菓子と談笑を楽しんでいた。その内の一人、薄緑のドレスを着た小柄な少女が、カップを持って慎ましく笑っている。彼女は確か、ユーディック伯爵家の末娘だったはず。

「ありがとう。でも、結構ですから」

 微笑を浮かべて断ると、ユーディック伯爵令嬢は何を思ったか立ち上がってこちらに向かってきた。その茶色の瞳が心配そうに光っている。

「イヴェールさま……どうか、お気をしっかりお持ちになって。ロゼッタが陥落したのは大変悲しい事ですけれど、それはイヴェールさまの所為ではありませんわ」

 イヴェールは青い目を瞬かせる。
 どうやら彼女は、イヴェールの憂鬱が国が攻め滅ぼされた為だと思っているらしい。
 確かに、リディア公爵家はロゼッタ王家と血縁関係があり、その為に父も母も攻め入られた時に亡くなったが、別にそんな事を憂いていたわけではない。娘を残して自害など無責任だと思いはしたけれど。

 イヴェールはただ外に出たいだけなのだ。誰も足跡を付けない雪原を歩いて、ばたりと倒れ込んで白い空を見上げる。動きだした水の冷たさに春の訪れを感じ、ひっそりと咲き始める春告げ花を探す。それがイヴェールの望みなのだ。生き残った令嬢たちのように、お茶とお菓子と談笑で満足など出来ない。

 そんなイヴェールの思いも知らずに、ユーディック伯爵令嬢は握り拳で語った。

「わたくしたちは何とか生きておりますわ。ですから、精一杯できることをして生きましょう。いつかロゼッタに帰ってくる為に。例えそれが敵国の者との政略結婚であっても」

 そう。こうして有力貴族の令嬢たちが集められ、軟禁させられているのは、もうすぐやって来るスィンセシスの王に、愛妾として引き渡されるのを待っている為なのだ。
 自害すれば捕虜も国民も全て死ぬ事になるから覚悟しておけ、と最初に言われ、令嬢たちは唇を噛み締めて従った。これまでスィンセシスに攻め入られた国には、国土を完全に焼かれた国もあったからだ。中にはやはり自害しようと言った者がいたが、イヴェールは何もせずに死ぬ気などさらさらなかったし、目の前で死なれても気分が悪いので、この中で最も位が高い事を利用して、『誇り高いロゼッタの貴族として、民を危険に曝すわけにはいきません』と皆を言いくるめたりしていた。

「――それにしても、スィンセシスの方々はまだやって来ませんのね。いい加減、気が滅入ってくるというものですわ」

 伯爵令嬢が、イヴェールと同じ窓の外を見ながら呟いた。

 ああ、また雪が降ってきた。今年の春の訪れは遅そうだ。
 小さく笑う少女たちの声を聴きながら、イヴェールはまた溜め息を吐いた。





   ***





 スィンセシス王の一行が到着したのは、それから三日経ってからだった。
 王は大勢を引き連れてやって来た。令嬢たちの世話をする侍女は、一人は絶対付いた。その為に到着が遅れたのだろうと安易に推測出来る。

 スィンセシス王は『ひひ爺』らしい。もちろん令嬢はこんな言い方はしない。イヴェールを除いて。王は年老いた好色な老人。攻め落とした国の要人の娘を何人も妾にし、更に自国に幾人の王妃を持っている。そんな男の妾になるなどぞっとしない。

 だが、娘たちの興味は別にあった。
 スィンセシス王の側には女がたくさんいる。もちろん子供も。その内の一人の王子の名前は、戦時中にも良く耳にしていた。雪の中、全身に黒を纏い、返り血に更に衣装を黒く染めながら駆け抜けた不敗の王子。戦神とまで呼ばれた男の名前。
 令嬢たちの興奮した声を思い出す。

(……どうして敵国の相手でも顔が良いと、みんなはしゃぐのかしらね)

 いくら美形でも故郷を攻め落とした敵、と令嬢たちは笑いながら申し訳程度に言っていた。
 まあその王子もここに来たわけだ。娘たちはその目に留まらぬかと期待している。ひひ爺より美形の方がやはり良いというのは分かる。分かるけれど、スィンセシスはロゼッタを滅ぼしたのだ。

 鏡に映った顔が歪んでいく。王との対面の為に飾り立てられた顔が。薄青の、雪の結晶が透かして見えるドレスを着せられたロゼッタの女が。念入りに梳かされた白金の髪が波打ち、宝石が付いていない銀細工の冠を乗せられる。全て敵国の王の為だ。膝の上に置いた手が震えた。

 鏡に映った侍女が、退室間際に頭を下げて言った。

「宴までご自由に歩いて良いと陛下からのお達しで御座います。城の外にはお出になりませぬよう」

 一人残されて、イヴェールはじっと鏡を見つめていた。何だ一体。情けのつもりだろうか。着飾った女の唇の片方が皮肉げに持ち上がる。誰だろうこの女は。私じゃない。ロゼッタのイヴェールではない。
 観音開きの鏡台の扉を閉めて、イヴェールは立ち上がった。

 このままじっとしているのも癪なので、白いガウンを羽織って外に出る。勝手知ったる城の中だから、すぐに目的の場所に着く事が出来た。奥庭である。そこはすっかり雪に覆われており、手入れもされず、植木もアーチも雪を被っていた。葉のない木が寒々しく立っている。

 ただ、そこでイヴェールは顔を顰めた。

「失敗した……この靴じゃ歩けないわ」

 踝までしかない踵の高い靴。雪は足首より少し上くらいまでに積もっているから、埋もれて身動きが取れなくなるだろう。しかも今は長く重いドレスとガウンを着ている。
 暫く考えて、イヴェールは覚悟を決めた。一応、誰も見ていない事を確認してから、ひょいっとドレスの裾を持ち上げた。他の令嬢が見たら真っ青になるかはしたないと眉をひそめるかどちらかだろう。イヴェールは雪を蹴り上げながら歩き進んだ。
 だが、やはり雪は大層冷たかった。あっという間に覚悟がくじけて、イヴェールは足を引き抜くと靴を脱ぎ捨て、身体を雪の中に放り出した。

 ぽす、と雪が音を吸い込んだ。まだ冷たい空気を吸えば肺がちりと痛み、吐けば白く浮かんで消えた。
 見上げた空は、薄く雲がかかっている。けれど明るいから、雪は降らないはずだ。

 ゆっくりと眼を閉じる。静かで、音は何も聞こえてこない。現実が遠ざかる。世界が遮断されていく。雪原で散った命も、両親が死んだ事も、敗北した自国も、敵国王の妾になる事も、全て嘘のように思えてくる。
 嘘であれば良かったのにと思う。全ては雪の反射が見せた幻だと。
 密かに思いを寄せていた幼馴染みは、他の兵士たちと同じように雪原を赤く染めた。両親は自ら死を選び、二度と『お淑やかになさい』と小言をいう事はない。故国を滅ぼした男によって自分は敵国に連れて行かれ、二度と故郷の雪を見ないだろう。

 ――イヴェールの美しい故郷(ロゼッタ)は滅んだのだ。



 風はゆっくりと雲を払い、太陽が雪を照りつけた。緩くなった雪が落ちる音が響いて、消えた。
 白の中に濃く影が落ちる。影は雪の中に放り出された白い靴を見つけた。そして、雪の中に埋もれる娘も。
 娘は、まるで寝台の上にいるように眼を閉じていた。雪に広がる金の糸が光を弾き返す。白い肌は寒気に触れて薄く色付き、薄桃の唇から静かな吐息が洩れていた。真っ青なドレスが白の中で際立つ。

(はたまた、雪の化身か、冬の女王の娘か……)

 思いながら、その顔を覗き込んだ。

 突然瞼の裏が陰った事を不思議に思ったのだろう。娘は髪と同じ色の睫毛を持ち上げる。ドレスよりももっと鮮やかな青い瞳が、逆さまに覗き込んだ眼を見て、不審そうに細められた。

「……だれ……?」

 逆光で辛うじて見えたのは、胸の紋章の縫い取りだった。ロゼッタの物ではない。

「……あなた、スィンセシスの騎士ね」

「そう言うあなたは、旧ロゼッタの令嬢とお見受けしますが?」

 身体を起こそうとすると手が差し出されたが、イヴェールは無視する。
 目の前にいたのは、黒い髪に紫の眼をした青年だった。灰色の衣装に黒いマントを付けており、汚れた感じがしないことから、到着したばかりだと分かった。

「そうよ。スィンセシスでは女性の顔を反対から覗き込むのが礼儀なのかしら」

 眼を閉じている間は儚げに見えたのに、口を開けばかなり気の強い娘だ。思わず浮かぶ笑みを堪えきれず、青年は靴を持ち上げる。

「あなたの物ですね? ロゼッタの靴はひとりでに飛んでいくのですか?」

 言うと、彼女は眉をひそめて黙り込んだ。それにくすくすと笑って前に跪く。ドレスから覗く足は白く小さかった。

「失礼」

「っ!? 何をするの無礼者!」

 突然足に触れられ、思わず叫んだ。暖かな手が、冷たさに痺れる肌に触れて妙な感覚を覚える。それに介さず男はイヴェールの足に靴を収めると、顔を上げてにこりと笑った。邪気のない笑顔に詰まってしまう。

「――スィンセシスの騎士は大層お優しいのね」

 辛うじて言えたのはそれで、しかし青年は笑って返した。

「男というのは基本的にそうですよ、きっと」

「あなたが変わり者なのだわ。敵国の女にこんな事をして」

「それはあなたもでしょう。貴族の令嬢が、雪の上に靴を放り出して寝転がるなんて聞いた事もない」

 イヴェールは、自分が変わった令嬢であると取りあえず自覚はしていた。自覚はしていたが、他人に言われるとこれ以上ないくらい腹が立つ。ムッと顔をしかめたら、彼がまた楽しそうに笑ったので更に腹が立った。
 ずり落ちたガウンを羽織り直すと、イヴェールは立ち上がった。

「おや、どちらへ」

「帰るの」

「そうですか。またお逢いしましょう」

「私は二度と会いたくないわ」

 背後でくすくすと笑う声が届いて、怒りで足が速くなる。水を含んで衣服が重い。それを気付かれてはならないと、努めて軽やかに城の中へ入った。
 最後まで笑っていた青年は、雪の上に残された光を見つける。簡素な銀の冠。それを手の中で転がして、娘が消えていった方向を見つめ、また楽しそうに笑った。





   ***





 イヴェールの機嫌は、最高に悪かった。
 教え込まれてきた無表情の裏で考える。意味の解らないスィンセシスの騎士。この自分が表情を取り繕う事も忘れてしまった。あの男、調子が狂う。腹の中に何かむかむかする物があって苛立つ。
 流石に濡れたドレスは脱がされ、今度は肩を出した白の簡素なドレスに着替えさせられた。光に当たると、雪の様に光を弾いて煌めく布地のドレスだ。同じく飾り立てられたロゼッタの貴族令嬢たちは、不安そうな顔で広間で固まっていた。飲み物にも食べ物にも手を出さない。イヴェールは、スィンセシス王が座る玉座――ほんの少し前まではロゼッタ王が座っていたそれを、真正面から見つめていた。

 その椅子に、とうとう座る者が現れた。イヴェールは喉の奥で声を呑み込み、眼を吊り上げる。
 娘たちの噂話はかなり正確だった。似合っていない宝石でごてごてと飾り付けられたでっぷりとした体型。脂ぎった顔。濁り澱んだ眼。そこにいるだけで別の意味で圧倒される醜悪さ。
 目の当たりにすると、酷く頭の奥が焼け付いた。眼の奥に赤い光がちらつく。

(――これがロゼッタを奪った男……私から故郷を奪う男……!)

 濁った眼は令嬢たちを舐め回すように動いた。娘たちは身を寄せ合う。イヴェールは顔が歪まないようにするのに精一杯だった。
 王が手を挙げると、兵たちは令嬢たちを玉座の前まで追い立てる。並べられた怯えて後退る娘たちを見て王はにたりと笑った。背中がぞっとした。この男、女を置物か玩具にしか見えていない。
 そして王は不意に、ある名前を呼んだ。

「ローリエン」

 娘たちの空気が若干軽くなったのを感じ、誰の名前だとイヴェールは内心首を傾げる。

「これまでの戦、不敗であるのもそちのおかげじゃ。好きな者を取れ」

 その時、その名が不敗の王子の物である事に気付く。
 玉座の影に立っていた男が動く。黒い服に黒いマント。紅く染め上げる為の装束。腰には剣。命を刈り取ってきた物。
 一歩進み出て光を浴びた王子を睨み付けていたイヴェールの瞳が、円へとゆっくり形を変えていく。青に映るのは黒い髪、紫の瞳。冷たい、眼。重い声。全く動かない頬の筋肉。

「……ありがとうございます。陛下」

 ――けれどそれは確かに、宴の前に遭ったあの妙な騎士である事に間違いはなく。

 ローリエンはくるりと娘たちに向き直り、一人一人の顔を見つめた。瞳が冷たい光を放っている。だがイヴェールと視線が合うと微妙に綻んだ、気がした。

「……あの娘を」

 視線を注がれていたのはイヴェールだった。表情を取り繕うのを忘れて、イヴェールは眼を見開いて固まっていた。
 王は頷くと、兵を使って令嬢たちを連れ出させた。向かうのは私室に決まっている。王は満足そうにいやらしく笑いながら退室した。

 残った直立不動の数人の兵士に、ローリエンは言った。

「各自警備に付け。私の事は構わなくて良い」

 その口調、声質共に指揮官のそれで。目の前の男は戦神と呼ばれた者なのだと、思い知らされるようだった。
 そうして残されたのは二人だけ。薄く開いたイヴェールの唇が震え、吐息のような呟きを洩らす。

「……信じられない」

「……何が?」

「あなたが不敗の王子? 戦神と呼ばれる? この国を滅ぼした?」

 納得してローリエンはああと呟く。

「そうだね。この国を攻めたのは僕だ」

 淡々と事実を述べただけのその口調に、かっと一瞬にして血が上った。
 めまぐるしく浮かび上がるのは、幸福だった頃の世界。愛すべき故郷。そしてそれが消えた時、腕は衝動的に持ち上がっていた。

「このっ……!」

 乾いた音が鳴り響く。
 イヴェールは一瞬目を見張り、だがキッと強い目で睨み付けた。

「……どうして抵抗しないの!」

「抵抗する理由がないからだ。あなたたちロゼッタ人は、僕を責める理由がある」

 至極穏やかな表情と声音でローリエンは言った。
 反対にイヴェールの顔が痛々しく歪んだ。堪えようとした涙が一気に溢れ出す。
 戦神と呼ばれる男がもっと残忍なら良かったのに。変わり者だという事も、あんな無邪気に笑う顔も知らなければ良かったのに。

「哀れまないで! 誇り高く死んでいったと思っている人たちが可哀想だわ……っ」

 違う、と心が叫ぶ。自分だ。誇り高いロゼッタの民だと言っているのは自分なのだ。哀れまれるのを否定しているのは、憎しみをぶつける相手を無くしたくないからだ。
 そうしなければ苦しい。悲しみに呑み込まれてしまうから。
 唇を強く噛み締めても洩れる嗚咽に、いっそう情けなくなる。

 ローリエンが震えるイヴェールを見つめる。白く細い肩に手を伸ばそうとして、躊躇われて降ろされる。
 だから代わりに言葉が来る。

「――もし……僕が憎いのなら……一緒に来ると良い」

 イヴェールが顔を上げる。

「そうすれば君は僕を殺す事が出来る。いつでも」

 今度は青い目が驚きに見開かれた。この男は何を言うのだろう。寝首を掻けと言っているのか。殺されたがる戦神。滑稽すぎて笑いが込み上げてくる。

「あなたを殺しても、何もならない」

 唇はそう言葉を紡いでいた。

「あなたを殺しても故郷は戻らない」

 奪ったのは彼らだ。けれど、彼が故郷をその手にしたわけではない。彼は『王』ではないから。
 イヴェールは笑った。細めた青い目が剣呑な光を宿す。

「――もっと、上にいる」

 その言葉が含む意味に気付いて、ローリエンはぎくりと身を強ばらせた。
 それは、つまり、自分の上に位置する者の事で。

「あなたと、一緒に、行くわ」

 戦神を見つめる人の娘の青い眼は、恐ろしいほど暗い。それは彼が幾つもの戦場で見てきた瞳。戦う者、生きる者の底知れぬ貪欲さを秘めたもの。



 戦神の花嫁となる娘は、やはり戦士だった。





戦 神 の 花 嫁 候 補

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