己の生涯が閉じようとしているのを、彼女は寝台に横たわりながら感じていた。

 吐いた息がどうも重く、全身がゆっくりと絡み取られていくようでありながら、感覚が妙に冴えている。
 平均寿命と比較すれば、なかなか長く生きたと思う。やっと訪れたかと安堵する自分と、もう少しだけと生にしがみつく自分がいて、何だか笑いたくなるような気分だった。
 素肌に触れる夜の気配は、静かに世界を包んでいた。月と星の光だけを明かりに、彼女は己の手を掲げてみる。皺だらけで骨や節が目立つようになった老人の手が、視力の衰えた眼に映る。筋力は落ちて、足は思うように動かなくなり、楽器は弾けなくなった。数年前に弟子の一人に譲ったから、相棒(楽器)がくすんでいくのを案じなくて済んでいるのだけれど。

 この眼で世界を見た。平和も戦争も見た。愛も憎しみも、悲しみも怒りも、喜びも見てきた。
 この足は続く限りの大地を渡り、道を残してきた。
 この手は相棒を抱いて音楽を奏で、様々な物に触れた。
 この唇は様々な物語を歌い、祝福を授けながら、呪いの言葉を紡いだ事もあった。
 世界の美しさも醜さも知り、愛も憎しみも抱き、迷いながら生きた。世界を想う心は変わらず、いつも泣きたいような笑いたいような気持ちがあった。
 間違いもあった人生だった。けれど後悔はしていない。これは私の物語だったと胸を張って笑う事が出来る。間違いを知らずに正しさを示す事は出来ない。痛みを知らずに優しくある事は出来ない。苦しみを知らずに強くある事は出来ない。歩んできた過ちも正しさも、全て今の自分を作り上げる為のものだったのだ、と。

 自分が自分であると模索しながら進んでいくことを、彼女は『物語』と呼んでいた。それはまたの名を『人生』と言う。様々なそれを語りながら、聞いていく人々の道標になれる事を願っていた。新しい彼ら自身の物語として、いつか再び出会える事を信じて。



 そこでふと思い出したのは、先の大戦、神と人との戦いの事。

 この世界では、女神により、世界に平和をもたらす者である聖女が幾人か選ばれていた。しかし、世界に魔と争いを呼んでいたのが女神自身だったという事実に気付いたある聖女は、仲間と共に女神の元へ赴き、その手で母なる者を討った。

 そうして戦いの最中に伝え聞いた聖女の名前が、遙か昔に出会った少女だったと知った時の驚きと言ったら。

 出会った時、彼女は聖女に認定されたばかりで、まだ十二の、けれど不思議な少女だった。真白の髪と銀色の瞳は、清らかなのか異質なのか判断が付きかねるものだったのだ。
 少女は村の人々に敬われながら、少しばかり沈鬱な表情をしていた。『聖女』と呼ばれる事による周囲の変化は、十二歳の子供の心に細かい傷を残していたのだ。いつも親しく接してくれていた人が、ある日を境に一歩退いた所で頭を下げるのだ。戸惑いと不安と悲しみは、美しい少女に暗い影を与えていた。
 だからなのか。流れ歩く旅人に心の中を打ち明けるような事を言ったのは。

『私は聖女ではないの』と大人びた横顔で少女は小さく言った。

『私の好きな人と嫌いな人が争っていたら、好きな人の方を援護したくなるわ。両親を殺した人たちの事を忘れた事はないし、私の好きな人たちを殺そうとするなら、それを決して許す事は出来ない。――聖女なんてどこにもいない。私には、聖女なんて呼ばれる資格なんてない』

 彼女が自分と比べているのは、最初の聖女ユーテリシア。戦乱の世に現れ、光の神から授かった不思議な力を用いて戦争を収め、慈悲の心を持って敵を許し、平等を持って世界を平和に導いた女性。その心は人というより、何か魔法のような気がしないでもない。
『聖女』という大任を負わされ、彼女は迷っていたのだろう。聖女は幾人か選ばれるが、その全てが間違わず、ユーテリシアのように人々を救えるとは限らないのだから。
 話を聞いて暫く考えた後、自分は聖女ではないから、だから自分の思う事を話した。

『間違わずに生きていける人間なんて何処にもいないわ。同じ人間なんていないのだから、何が正しくて何が間違っているのかは決められないでしょう? ユーテリシアもたくさん間違ったと思うわ。ただ、今を生きる私たちにはその話は伝わっていないだけで』

 じっと見つめてくる、不思議な色の瞳。光を弾いて銀色に光る。
 大人びて見えても、どれくらい難しい事を考えていても、目の前の娘はまだ十二歳の少女だ。

『全てに優しくある事はきっと出来ないわね。だって人間だもの。心があるもの。光に照らされる時も、闇に染まる時もある。あなたの言い分は、人間としてとても正直なものだと思うわ』

『……でも、私が聖女と呼ばれる事には、変わりはないのね』

『それは、あなたが将来何かを動かすからよ。聖女と呼ばれる事で、女神にも出来ない事を、未来であなたがやるの』

 こうして言葉を掛ける事が、彼女に正しい道を選ばせる事になるのか分からない。
 彼女が選択する時、彼女が後悔しない道を選べるようになればいい。

『聖女にならなくても良い。あなたはあなたになりなさい。迷った時は、自分にとって大切な方を選んでいけば良い。そんな風に、私は思うわ』



 そうして、彼女は選んだのだ。犠牲を生みながらも女神に庇護される世界よりも、女神を失い危険に晒されても自分の足で生きていく世界を。

 きっと彼女は苦悩しただろう。女神を失う事は、それまで抑えられていた災害を呼ぶかも知れない。女神という絶対的なものが無くなった事により、新たなる戦乱を呼ぶかも知れない。――でも、それでも。

 彼女にその選択をさせたのは何であったのか、一度きりの出会いでは想像も付かない。ただ覚えているのは、自分と会話していた少女を迎えに来た、幼馴染みだという少年の仏頂面と、彼女の笑顔と、村に戻っていく二人の繋がった手だけだ。



 浮かべた微笑みのまま、息を吐いた。体内に流れる時間が、速度を無くしていくのが分かる。
 手紙は書いた。これまでの物語における感謝の言葉と、ささやかな言葉をそこに綴った。それがどう語られていくのかは、各地に散らばる同士たちに任せようと思う。
 ゆっくりと世界から引き離されるような感覚に、時が来た事を悟る。
 不安も恐れもない。これから世界に融けるのだ。穏やかな気持ちだけが、ここにある。

 今、この時にも新たな物語が生まれていく。継がれていく。
 願わくば、誰も悲しまずに済む結末を。

 胸の前で両手を組み、静かに眼を閉じながら、そっと別れの言葉を口にした。


 ――さようなら。そして、また逢いましょう……





 そして古き語り部は舞台裏へ――





舞 台 裏 の 語 り 部

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