とてもとても寒い北の国の、いつも雪に深く覆われた森の奥には、半分形を無くした古いお城があります。
 でも、そこには誰もいません。王様も女王様も王子様も王女様も召使いもいません。とっくの昔にみんないなくなってしまったんだよ、とおばあちゃんが言いました。
 なぜいなくなってしまったのと訊くと、おばあちゃんは私の頭をそっと撫で、口を開きました。

「そうだね、お前に聴かせてあげよう。私たちの森が、どうして白く覆われているのかを。これは、凍れる森に棲んでいた王子さまのお話――」





   ***





 その頃は賢王ディーニ三世の時代。若干十代で即位したにも関わらず、ディーニ王の手腕には眼を見張る物があり、あっという間に国は豊かになった。迎えた王妃はマリエル妃ただ一人だったが、跡継ぎには恵まれ、王は王妃と王子を心から愛した。

 人々は冬の厳しさに耐えうるその幸せを謳ったけれど、皆は知らなかった。賢王の子が必ず賢王になるとは、限らないのだという事を。



 王子ヴィンターは金の髪に空色の瞳の美丈夫になった。読書を好み、武芸にも長け、賢王の血を引いて思慮深くまた慈悲深いので、王位継承者として申し分なかった。いつも微笑みをたたえた王子は娘たちの憧れであることは言うまでもなく。けれど彼はいつも微笑んで、やんわりと娘達を遠ざけた。

 ディーニ王とマリエル妃は、十九歳になったヴィンターがいつまで経っても妃を選ばぬ事に頭を悩ませていた。従妹の娘も、隣国の姫も、公爵の娘も、宰相の娘でも、王子は首を縦に振らなかった。かくなる上は、皆は平民の中で器量好しの娘を探して引き合わせてみたが、これにも王子は納得しなかった。
「確かに娘たちは美しいけれど、私が感じるのはそれに対する憧れで、愛ではないのです」と、王子の言葉は城の人々を悩ませた。



 結婚しろとあまりにうるさく言われるので、ある日王子は一人で遠乗りする事にした。彼は常に人に囲まれていたけれど、一人でいる時間の方を好んだ。

 静かな空気を震わすのは自分と愛馬だけ。まだ誰も踏みつけていないまっさらな白い道を行き、静まり返る白い雪原を見渡し、樹氷の森を通って、こちらを興味深そうに見つめる獣たちに眼を細めたりした。

 いつもより風が冷たい事に王子は気付いていた。雪が降るのだろうかと空を仰げば、太陽には薄く雲が掛かっている。すると何か白い物が眼に飛び込んできた。思わず閉じた瞼の上に、白い氷の粒が溶けた。
 馬が低く鳴く。ずっと動かず風に曝された事に対して抗議しているのだ。謝罪の意味で首を叩いて、そろそろ戻ろうと身を翻す。――その時だった。

 王子は森の中に銀色に動く影を見つけた。けれど気になってしまって、雪が光で反射したかと影を探した。
 そして、息を呑んだ。誰も通らないようなこの場所の、枯れた木々の間に人の姿を見つけたのだ。
 その場所だけ別世界だった。まず飛び込んできたのは、さらりと音を立てそうなほど艶々と輝く銀色の髪。持ち主は若い娘で、空を仰いで、くるくると雪の上を舞っている。見える横顔は美しく整っていて、肌は雪以上の白さで輝く。そして何よりも信じられない事に、肩と腕を剥き出し、更に裸足で雪の上を歩いていたのだ。
 奇蹟のような美貌は、物語にある冬の女神に相応しい。まだあどけなさを感じさせるから冬の女神の娘でも良い。しかし人々から見れば、魔性だと恐れおののく存在なのは確かだ。
 しかし、ヴィンターの心には、ただ、天に向かって微笑み雪に手を伸ばす娘の神秘的な美しさだけが焼き付いた。

 娘がヴィンターに気付く。天に向けていた微笑みが消え、光を弾く瞳が不思議そうに瞬いた。銀灰色の澄んだ瞳が。
 ――微笑んで欲しい。
 小さな望みが、彼の心に生まれた。

「私は、ヴィンターと申します。貴方のお名前を聞かせて下さい」

 出来るだけ柔らかな声音で問い掛けると、娘は首を傾げてヴィンターの青い瞳を見つめた。警戒心も何もない純粋な瞳を見返していたら、彼女はふわりと笑った。何処にでもいる娘の微笑みはヴィンターに向けられ、薄桃の唇が魔法のような声を紡いだ。

「ネイジュ」

 二人は歩み寄り互いの手を取った。じっと見つめ合う青色と銀灰色。柔らかな思いが溢れてくる事にそれぞれが気付いた。



 連れ立って二人は城へ戻った。突然現れた娘に、王も王妃も宰相も大臣たちも驚きを隠せなかったが、王子が娘を思っていると知って、取りあえず良しとした。このまま妃を取らぬよりは、と思った結果だった。

 実際、二人は仲睦まじかった。城の人々が思わず微笑み、羨ましがるくらいだった。ヴィンターはネイジュの部屋に幾度と訪れ、共に遠乗りに出掛けた。人々は大きな声を上げて笑う王子を初めて見た上、ネイジュは美しかったので、王子を思っていた娘達は仕方がないと肩を落としたと言う。
 一方で、不思議に思うような事もあった。ネイジュは北国の冬にも関わらず、火を焚くのを良しとしなかったのだ。いつも彼女の部屋は冷え切っていたし、夜はいつも暗闇に包まれていた。服は普通にしていたけれど、最初に会った時のような肩や腕を剥き出しにした服を好んでいた。

 でもヴィンターはそんな事を全く気にしなかった。火を嫌うのは暑いのが嫌いなのだ、薄明かりを好むのだ。肩や腕を出す服を好むのは窮屈なのが嫌なのだと、そう言って。





   ***





 そろそろ冬の女王が去り、春の女王がやって来る雪解けの季節になろうとしていた。霞んでいた太陽は明るく輝き始め、凍り付いた川も流れ始める。城の人々は王子に春になったら結婚する事を進め、噂の広がった国内は、春の訪れに沸いた。

 それに比例して、何故かネイジュの顔は日に日に暗くなっていった。銀灰色の瞳は伏せられがちになり、王子が訊ねても首を振る。けれどその美しい顔に楽しげな笑みが浮かぶ事はめっきり減り、諦めきれずに王子は問うた。

「最も遅く春が来るこの国に、結婚しようと誓った春がもうすぐ訪れます。貴方は何を憂いているのです」

「私が思うのはやがて訪れる雪解けの季節。巡る季節を止める事は叶わないという事」

 ヴィンター、とネイジュは悲しい声で呼んだ。白く冷たい手が、ヴィンターの手を強く、逃がすまいとするように強く握る。

「貴方に隠していた事があります。私は――冬の女王に仕える雪の精霊なのです」

 ヴィンターは静かな気持ちで愛しい娘の告白を聞いた。
 雪を降らせる為に地上に姿を現した日にヴィンターと出逢った事。役割を全て放り出してここにいる事。炎を嫌がるのは冬に属する者であるから。冬の女王は春までしか世界にいられない事。それゆえ女王に仕える雪の精霊もまた、春までしか世界にいられない事……――

「春になったら貴方は消えてしまうのですか」

「……いいえ。消えはしません。けれど、代わりにみんなが命を落とすでしょう」

 ヴィンターはほっと息を吐いた。

「ならば良いのです。貴方がいてくれるだけで良い。どうかずっと私の傍に」

「いいえ、いいえ。私は帰らなくては。貴方も不幸にしてしまう」

 ネイジュの訴えをヴィンターは聞かなかった。まるで何もなかったかのように、たった一人にしか向けない笑みを浮かべ、たった一人にしか囁かない言葉を紡いだ。

「愛しています、ネイジュ。私の傍に……永遠に」





 ――全てがゆっくりと壊れていく。





 その日から、ネイジュの姿を城内で見掛けなくなった。王子が訪れているから、部屋にずっといるのは確かなのだが、現れなくなった娘に対して心配の声が上がる。体調が少々悪いが医者を呼ぶほどではない、と王子は皆に告げた。





 ――暦が春を告げるその日が近付く。





 いつものように現れたヴィンターに、あの日から繰り返される言葉をネイジュは口にする。

「お願いです。私を外に出して。帰して下さい。貴方を殺してしまうような真似はしたくないのです」

「貴方が目の前からいなくなる事が、私に、死ぬ事よりも辛い苦しみを与えるのです」

「貴方だけでなく、貴方を愛する人々……この城の人々まで巻き込んでしまいます。王となられるのならば、そんな事は望まないはず」

「私は貴方だけが世界の全て」

 ヴィンターの手がネイジュの頬に触れる。絡み合う視線。ヴィンターの空の瞳に映るのは、暗い狂気の光。
 ――恐ろしい。身の震える恐怖をネイジュは感じた。この人は、私を留める事ならどんな事も厭わない。恐れない。誰かを殺す事も、神々の怒りでさえも。





 ――そして、運命の日が訪れる。





 外に出して下さい、とネイジュは最後の懇願をする。今日が最後になるから、と最初に告げて。

「私を帰して。春の女王が訪れる前に戻らなければ、冬の女王はお怒りになり、春の女王が帰られてしまう。そうしたら、この国に二度と春は訪れない。みんな死んでしまうわ!」

「そして、貴方は私の元を去っていく」

「それよりも貴方は死んでしまうのよ!」

「貴方が去ってしまうよりは良い」

「ヴィンター!」

 ネイジュの悲鳴は届かない。嗚呼、どうしてこんな事になってしまったのだろう。あの時、その瞳を覗き込まなければ良かったのか。空よりも鮮やかな瞳に魅入られ、手を取ってしまったのがいけなかったのか。あの時真実を告げていれば良かったのか。
 けれど、時間は戻らない。もう止められない。
 ――我が母、冬の御方よ。貴方の愛された世界を壊す事を、お許し下さい……
 絶望に震える息をネイジュは吐き、銀の瞳を閉じた。

 ――共に行こう、狂気の底へ。貴方の命は私が奪って。





 始まりは風が告げた。

 寒風が城を吹き抜ける。炎は消え、暗闇が訪れる。動いていた人々は声を上げ、次に寒さに身を震わせた。おかしい。火が消えたとは言え、突然こんなに気温が下がるはずはない。再びの風は誰かの泣き声のように響き渡り、在る物全てに氷の粒を叩き付けた。窓ガラスが派手に割れる音が続く。尖った氷は人々の肌に傷を付け、そこから白い結晶が全身に広がった。身体は凍り、ある場所で割れて、四肢が削げ落ちる。流れ出した血すら凍り付き、次々と悲鳴があがっては消えた。

 雪の娘は泣き叫んだ。自らが生み出す力に。春の訪れによって冬の女神の加護を失って暴走するその力に。もう元には戻れない。私は全てを凍らせ破壊する氷の悪魔になる。
 最も近くにいた、愛する王子ヴィンターは青の瞳を既に閉じていた。氷の悪魔となったネイジュは触れる事も叶わない。触れれば彼の身体は完全に崩れ落ちる。それは出来ないと泣いた。

 破壊の氷風は止まらずに広がった。空に雲が掛かり雪が降る。城を取り巻く森が再び雪に覆われ、木々は氷で白くなった。国にはまた冬が広がり、城の人々は全て死に絶えた。

 異変に気付いた神々が、ネイジュの元を訪れた。炎の神はその火で国中の氷を溶かし、氷の悪魔になった雪の精霊を消し去った。

 そうしてようやく、その国の冬が終わった。





   ***





「だから私たちの森は白く、この国の冬は厳しく長いのだよ」と、おばあちゃんは言いました。外ではまた雪が降っています。
 私はふうんと頷いて、思った事を訊いてみました。

「じゃあ、王子さまはどうなったの? ネイジュは王子さまをこわさなかったんでしょう?」

 さあねぇ、とおばあちゃんは呟きました。こう言う時、おばあちゃんは少しだけ笑っています。

「どうなったのかねぇ。もしかしたら、まだあのお城で眠っているのかも知れないよ。まだこの国には冬が訪れるからね」

「どういうこと?」

「冬の女王の娘は、みんなネイジュという名前を与えられて、雪を降らせるからさ」

 おばあちゃんは私の頭を撫でました。もしかしたら今でもあのお城で暮らしてるかも知れないよ、と夢のような事を言って。





凍 れ る 森 に 棲 む 王 子

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