世界は白かった。雪の白で覆われ誰にも侵されていない大地がずっと続いている。遠くの稜線は白く霞んで溶けているようだった。空もまた白い。空気は凍えていたが、やがて降り始めた雪にによって風の色も白く染まる。
 白い花が降るように、雪が降る。

 それを曇った硝子越しに見た彼女は、ぱあっと顔を輝かせて転がるように部屋を出た。しかし忘れ物を思い出し、部屋に戻って身支度を調えた後、再び外へ飛び出した。
 廊下は身震いするほど冷えていたが、彼女の心の中は弾むようだった。絡まないようにドレスの裾を上げて走る。向かいからやって来た初老の執事が眉間に皺を寄せて、擦れ違う彼女に言った。お嬢さま、お歩きなさいませ。はあいと返事をしつつも速度は緩まない。
 彼女は階段を下り廊下を走り抜けまた階段を上がると、客室の一つの扉を叩いて、返事を待たずに中を覗いた。

「ヴェイン、雪が降ってるわ! 外に行きましょう。行くなら今よ!」

 部屋の客の少年は、身体に対して大きな椅子に腰掛けて読んでいた本から目を上げた。

「ご機嫌よう、イヴ。一体どうしたんです?」

 開いた頁に栞を挟んで丁寧に閉じた後、少年は少女を部屋に招き入れ、まず温かい飲み物を勧めた。
 イヴは「男の子にお茶を淹れて貰うなんて初めてだわ」と思いながら、湯気の立つ茶器を受け取った。貴族の男の子で、ヴェインは特別なんじゃないかしら。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 そう言って微笑む幼馴染みは、とても綺麗な顔をしている。少し長めの栗色の髪はつやつやで、もう少し明るい茶色の瞳にはいつも優しい光がたたえられている。女の子よりも長くたくさんの睫毛、丸い眼、桃色の唇。色が抜け落ちてしまったような髪やきつい眼を持っている自分とは大違いだ。イヴの唯一の自慢は真夏の空の青い瞳だけで、容姿に関しては鏡を見る度『可愛くない』と呟くくらいだった。
 そんな事を考え、自分の分の茶を注ぐヴェインを上目遣いに見ながら、一口飲んでほっと息を吐いたところではたと我に返った。お茶をご馳走してもらう為に来たんじゃない。

「すみません。お茶の時間には少し早いから、お茶菓子がないんです」

「それは良いの。そんな事よりヴェイン、雪が降っているのよ。外に行きましょうよ」

 ヴェインは澄んだ瞳を不思議そうに瞬かせた。イヴは苛立たしげに眉を寄せる。

「ほら、あの話。冬に咲く花の話よ。この前聞いたじゃない」

 ああとヴェインは頷き、花が微笑んだような笑顔になった。

「イヴのお祖母様からお聞きした話ですね? 雪の降る日、誰も踏んでいない雪の上に咲く花。それを見つけると、幸福になるという話」

「そうよ。今日は雪が降ってるわ。吹雪いてないし、出掛けるにはちょうど良い具合よ。行きましょう」

 持ってきた外套を手早く身にまといながら言う。

「そうですね。では、父上たちに許可を頂いてきましょう」

「大丈夫よ! 許可なら私がちゃんともらったから」

 焦れったさで、イヴは嘘を吐いた。ヴェインは疑うような様子はなかったが、身支度をし外に出て付き人が誰もいない事を知ると流石に分かったらしい。しかし責めるような様子もなくイヴに言った。

「そっと行ってそっと帰ってきましょう」

 そういう所が、イヴがヴェインを好きな理由の一つだった。

 屋敷をこっそり抜け出し、誰も踏んでいない雪の上を歩く。小さな足跡が生まれていく。防寒着を着込んでも触れる空気は凍るようだったが、興奮で少しも脅威に感じられなかった。雪が降った事で屋敷の中に閉じ込められていた事にはうんざりしていたのだった。その事を両親は心配してヴェインの一家を招いたのだろうが、イヴはそんな事お構いなしに外を歩いた。雪の上を歩く事はイヴの一番好きな行為だった。

 積もった雪に足を取られると、すかさずヴェインが引き上げてくれた。

「ありがとう」

「いいえ。それよりも、あまり遠くへ行かないようにしないと。雪が強くなってはいけないから」

 イヴは唇を尖らせた。

「少しくらい平気よ。どうせ私たちの足じゃ行ける所なんて限られてるわ。あーあ、早く大きくなりたい。そうしたら、どこへでも行けるのに」

「どこかへ行きたいんですか?」

 尋ねる方のヴェインがあまりに真剣な声音だったので、イヴはちょっと驚いた。だが深く考えず笑って言った。

「伝説を探しに行くの。冬に咲く花はもちろん、世界の始まりの樹や、消え去った水晶の都、魔術師たちの島、竜の宝物を探して、あちこちの遺跡や神殿を見て回ったりするの。そうして満足した後、ここに、故郷に帰ってくるのよ」

「詩にありますね。世界の宝物を探求した男は、最後の宝物は故郷だったと言った詩」

「そうよ。私はこの国が好き。例え冬が厳しい国だとしても、私の生まれた所である事に変わりはない。冬に咲く花の伝説があるこの国に、世界を旅した後帰ってくるの」

 そうだ、とイヴは手を打った。

「ヴェインも一緒に行きましょう。二人ならどこへでも行けるわ、きっと」

「僕は……」

 言い淀んだヴェインの手袋に包まれた手を、イヴはぎゅっと握った。

「大丈夫よ。私たちはどこへでも行けるけれど、それはいつでも帰ってこれる事と同じ意味だから」

 寒さで赤くなった頬でにっこり笑ってイヴは言った。
 何か言いたいけれど言えない、もどかしそうなヴェインだったが、やがてゆっくりと微笑んだ。それを肯定と取って満足したイヴはくるりと背を向けると前へ進み始める。これまでの話題は終わりらしい。無邪気な声でヴェインに語りかけた。

「ねえ、ヴェイン。どんな花だと思う? 私はね、きっと真っ白な花だと思うわ! 雪に溶けそうなほど、青白い花。薄い花びらが何枚も重なった、そうね、薔薇の花のようだと思うわ」

 イヴは空を見上げて呟いた。降る雪は、小さな花が降ってくるように見えた。

「お祖母様はその辺りの事、何も仰らなかったわね。誰かが見た事があるからお話があるのだと思うのだけれど、誰も踏んでいない雪の上って広すぎて、花なんて見つかりそうもないわね」

 白い息を吐きながら、イヴは進む。指先や足先があまりにも冷たくなりすぎて、段々と温かいと思うようになってきた。鼻や喉につんとくるような空気を吸いながら進んでいたイヴは、傍らにあったはずの気配が遠くなっている事に気付いて振り返った。

 静かに息を吸い込んだ。ヴェインは今まで見た事もないくらい綺麗な微笑みで、イヴを見ていた。

「僕は見つけましたよ」

 成長した今なら、優しいと思ったその瞳が慈愛であった事が分かる。

「その花の花びらは白い色。青い色から、先へ行くと太陽の光が雪の上に映ったような色をしている。触れると柔らかく、けれど立つ姿は力強く、いつも人に光を与えてくれる」

 まるでその花を遠くからそっと眺めるようにイヴを見つめて、ヴェインはもう一度言った。

「僕は、見つけましたよ」





 冬に咲く花の話。

 あの時信じていたのは、きっと私だけだった。それはお伽話。夢のお話。彼はきっと、その時の私が知らない現実の世界の話を知っていた。
 中央大国の不穏な動き。吸収されていく小国。こちらにも近付いてくる戦いの足音。

 冬に咲く花の話。

 それは私たちの美しい思い出の象徴。あの頃の私たちの方が自由だった。次第に重たくなっていく身体にはすっかり現実という足枷が付いてしまった。けれど花の話は、私たちの故郷の象徴には違いない。
 中央大国の猛威。蹂躙されていく国々。そして私たちの故郷にも……。

 待っていて。今取り戻すから。ねえ、ヴェイン……。





 ふっと眼を開けた時、人の気配を感じた。先程まで見ていた夢の所為で、それは懐かしい人の気配のように感じられた。瞬きを繰り返して嘆息した。そんな事はあるはずない。あの人はもう喪われてしまったから。まだ寝惚けているからか、幻の花の香りを感じた。
 ゆっくりと夢が遠ざかって、現実がはっきりし始める。部屋の人影に声を掛けた。

「……何してるの……」

 起きたばかりの掠れた声で言えば、部屋の机の側にいた彼が振り返った。

「ごめん。起こしてしまったね」

 顔の上半分を覆う兜で表情は分かりにくかったが、声色からもすまないと思っている事が感じられた。
 疲労で重い身体を起こす。眠った後の身体にはどっと疲れが感じられた。これなら忙しく働いていた方が良かった。仕事は山程あったのに。起き上がった彼女は、彼の側の机の上を見た。

 はっと息を呑んだ。

「綺麗だろう? 君にって、兵士たちから」

 美しい、真白の薔薇。

 違う。一度の瞬きの後、それは作り物の花弁だと分かった。幻だと思った香りがしているが、紙の薔薇の花束だった。

「器用な奴がいてね。手慰みに折っていたら、みんなが折り始めたらしい。それでこんな寒い季節で花なんて咲かないから、君に贈ろうって誰かが言い出したそうだ。香りとして香水を振って、集まった花を束にして。そうしたら誰が持っていくかで揉めていたから、僕が仲裁に入って持ってきた」

 花瓶に生けられた紙の薔薇は歪な物が多くて、所々汚れていて、剣を握り猛々しく戦場を駆ける男たちが無骨な手でちまちまと折ったかと思うと、微笑ましかった。

「綺麗ね。本当に綺麗」

 噛み締めるように呟くと、彼も唇に笑みを浮かべて頷いた。

 ふと視界の端に舞い散る物があって、窓に眼をやると雪が降っていた。一瞬、見ていた夢が過ぎった。

「ああ、降ってきたね」

 同じ物を見て彼は呟いた。イヴは先程まで見ていた昔の自分を思い出しながら、彼を誘った。

「ナイト、雪が降ってるわ。外に行きましょう」

 彼はそう反論しなかった。イヴが雪国生まれだと思い出したのかもしれない。念のため武器と防具を身に付け防寒着を着込むように言うと、部屋を出た。
 装備は面倒だったがそうも言ってられず、言われた通りの恰好をする。重さにもすっかり慣れた自分に笑いつつ、花瓶の薔薇をしばらく見つめた後、一本を引き抜いて纏め上げた髪に挿した。
 部屋を出ると彼が待っていた。護衛は彼一人だった。それが一番良かった。イヴは、今は彼だけに側にいて欲しかった。自分の本当の名を時折呼んでくれる彼に。あんな夢を見たからかもしれない。まだ自分が自分の名前だけで、しかも愛称で呼ばれていた幼い頃の夢。

「【白金の騎士姫(プラティーヌ)】、お散歩ですか」

「ええ。【鉄の騎士(ナイト)】と行きます。一時間くらいで戻るから」

 そしてふっと凛々しく笑うと、

「花をありがとう。みんなにも伝えて」

 顔を赤くする兵士たちにそう告げて、それぞれ馬を走らせた。

 砦から走って数分。イヴは手綱を引いて馬を止めた。
 雲は雪雲だけれど、春を待って眠る大地は白くはなかった。手の平に受けた雪の様子から、これは積もりそうにないと判断する。この国では雪はあまり積もらないのだろう。ずっと続く街道の上で馬を下りた彼女は、街道の先、北の方向を向いた。あちらの方が雪はずっと強いだろう。

「私の故郷には、冬に咲く花の話があるの」

 同じく馬を下りたナイトに言った。

「その花は雪の降る日、誰にも踏まれていない雪の上に咲くの。それを見つけた人は幸せになるんですって。私も探した事があったわ」

「見つかったのかい」

 イヴは首を振った。

「幼馴染みと一緒に探したのだけれど、私は見つけられなかったわ。でも幼馴染みは見つけたと言っていた」

 そこで先程夢に見たあの時の話をした。彼は口を挟むことなく、イヴの調子に合わせて聞いていた。語り終えたイヴは一人笑った。

「きっとヴェインは私に合わせてくれたのね。見つかる事はないのに、いつまでも私が夢を見ていられるように……」

「それは違う」

 強く彼は否定した。

「いや、それもあったのかもしれない。でも彼の気持ちが、僕には分かる。彼は確かに見つけたんだよ。彼はきっと最後にその花の名前を呼んだはずだ」

 幸福を呼ぶ花の名前は。

「イヴェール」

 イヴはそっと息を呑んで彼を見つめた。そして微笑んだ。

 幸福の花。自分は彼のそれになれたのだろうか。雪原で散っていった彼の、幸福の花に。
 今の自分は紅い大地と骸の頂きに咲く花。もう何も知らない花には戻れない。
 けれど信じる者たちには誇れる花であろう。
 この手で取り戻す、冬に咲く花の伝説がある故郷を思いながら。

 冬は深く訪れる。北から。今は閉ざされた、花の故郷から。





冬 に 咲 く 薔 薇

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