その黒は、宝石の黒。夜の闇と星々の光を秘めた真の黒色。覗き込めば人を吸い込む黒でもあり、あまりに黒すぎて見る者の姿を映すほどの色だ。
 目の前に掲げられた黒剣を前に、銀箔を織り込んだドレスをまとった王女は目を細めた。天鵞絨に包まれたその剣は、この世のどんな職人にも作られはしないだろうという輝きを放っている。鞘、柄ともに同じ色。銀が装飾されているが、その本物と錯覚させるほどの精密な象嵌に、見る者は息を呑むだろう。
 近衛騎士アルト・ローグアーは、静かにその場を見回した。
 天井近くに設けられた窓からは、真昼の光が差し込んできて、この玉座の間を照らしている。この場を設けたのは国王と王妃、そして王妹の王女だ。列席を許されたのはいとこにあたる貴族令嬢、そしてごくわずかな騎士たちだけ。アルトたちの主君は、田舎貴族出身のアルトからしても普段は王族とは思えないほど非常に気さくな人々だ。もちろん、上司にあたる騎士団長や隊長たちも厳しくも親しく接してくれている。年若い王族の兄妹を守ってきた大人たちは彼らを息子や孫のように扱い、王族たる彼らもまた、大人たちを家族であり臣下として触れ合ってきた。
 その全員が今、静謐なまでに言葉なく、そこに居合わせている。

「……残したか」

 凛とした一声が問う。はい、と剣を捧げるドーターが頷いた。
 答えに応じたのは「ふっ」という小さな笑い声だった。
「こんな置き土産を残すくらいなら、もう少しましなものを残せばよかったのにな」
 口調が砕け、王女が苦笑した。
「竜でも砕けなかった剣だ、私では荷が勝ちすぎる。……兄上に、お任せしてもよろしいでしょうか」
 国王が頷く。傍らの王妃を見遣り、王妃もまた頷いた。
「神々の業物だからね、しかるべき場所に納めておくのがいいだろうということになった」
「わたくしの故郷ハルトシアならば、まだ神々の力が行き届いております。しばらくはあの地に置いておくのがよいだろうと、陛下と話し合いました」
 国王夫妻が王女を見る。兄は安心させるように力強く、義姉は気遣うように優しく。アルトもまた、もう一度王女を見た。
「リゼロット様。どうぞ、剣をお取りください。あの者の形見です。どうぞ、お手を……」
 ドーターが言う。彼が指した人物のことを、アルトは思い浮かべた。





 ティルコント大陸西部。いくつもの森林の小国が存在するこの地方、北部の森ではユングジルハの冬木が降り積もった雪原と一体となって真白の世界が広がっている、肌に触れる空気が凍てつく季節の出来事である。
 その日も、暖炉で温められた部屋の空気が、窓越しに冷たい大気と触れ合っていた。
「欲しいもの、ですか?」
「そう。聖人の日の贈り物のことだ」
 ディオールがコールセンにやってきて初めての冬。黒髪黒瞳の柔らかい少年のような顔立ちのディオールが、その国の姫君に出会い、コールセン騎士の位を授かって姫の従者のような立場となってから半年ほどが過ぎようとしていた。
 ディオールは銀髪黒瞳の美しい王女を見て、ゆっくりと首を傾げた。
 聖人の日。セーファ・ティエラを統べる主神セーマイェーラの巫女が、六つの大陸の神と巫女を見いだした日。すなわち、地の大陸ティルコント神とそれに繋がる巫女を見出し、大地の神と人の絆が始まった日をそう呼ぶ。六つの大陸の冬月の下旬の一夜を特に『聖夜』と呼び、それに関して、ティルコント中の国々で聖夜の催しが執り行われる。
「コールセン王家に仕える騎士や兵士には、聖夜に贈り物をするように決めているんだ。お前は今年が初めてだろう? お前も数に入っているぞ」
 予算も組んでいる、と王女は自信満々に言い放つ。この国は平和だ。
 綺麗な顔を困ったようにさせて、親友は、ずっと隣で笑いを噛み殺して聞いていたアルトを振り向いた。国家予算で贈り物、という概念がないのだ。城に住み込んでいるディオールは、アルトと同じように必要なものは基本的に支給されるようになっている。特に彼は酒、煙草などの嗜好品も好まないため、給与は溜まっていく一方で、何か必要であればここから出せば何でも手に入れることができるから、主君の言葉には不思議が残るらしい。
「君の時は何をもらったんだい? 他の人は?」
「俺? 俺は飾り留めだったかな。大切すぎて使えてねえけど。妹のために髪飾りとか。他の奴は、そうだなあ、上等な筆記用具とか、剣帯、手帳、靴……」
「待って。妹のため? 自分への贈り物なのに?」
「ああ。騎士団とは違って竜伐隊の中には市井出身もいるしな。隊の給金で家族支えて、でも贅沢はさせてやれないだろ? だから自分じゃなくて妹に、って」
 ディオールは目で王女に尋ねた。王女は頷いた。そういうものでも構わないのだ。
「できるだけ早く教えてくれ。高いものはねだっても無駄だぞ。買えても本一冊が限度だからな」

 それからしばらく、親友はずっと悩んでいたらしい。どこか抜けていて、どこかしっかりしすぎているところのある彼は、誰にでも常識的なことを平気で尋ねるくせに、そういう悩み事を人にするということができないらしく、長い間頭をひねっていたのだ。
 ついに聖人の日が来て、アルトはその年、進学する弟のために筆記用具を用立ててもらった。ディオールは結局どうなったのだろうと探していると、変な顔の王女に会った。
「姫」
「……ん、ああ、アルト」
「どうかしたんですか?」
 ん、と言いながら彼女は顔をこすった。
「いや、寝すぎたせいだ」
「ああ、お忙しいですもんね。聖人の日だし」
「そうじゃなくて…………うん、お前なら話してもいいか。ディオールがねだった贈り物が予想外すぎてな、寝溜めしていた」
 アルトは目を瞬かせた。寝溜め?
「あいつ結局何にしたんです?」
「聞いて驚け。……私と一日過ごしてほしい、だそうだ」
 思考が飛んだ。驚きすぎて。
 王女が苦笑している。
「初めて言われたぞ、そんなこと。他のやつならぶん殴っているんだが……まあ、あいつならいいか、と」
 苦笑するしかないだろう、しかし了承する姫も姫だ、とアルトは思った。王女に迫っていたカラート家の坊々と一悶着あったことは記憶に新しい。
 続いて思ったのは――すっげーうらやましいなおい!! ということだった。
 一国の王女、しかも超絶な美人、誰にも手が届かない高嶺の花。初めて言われたのは、一度は考えたとしても誰も口に出せなかったせいだろう。本十冊など目じゃないくらい高価だ。
 あいつは本当に、純粋すぎてこわい……もちろん、そんな悲鳴を飲み込んで、アルトは冷静な表情を取り繕ったが、瞬きの回数がつい多くなる。
「ドレスも着ないし剣を外さないし、絶対に二人きりということはないからなと言ったら、それ以外の何があるという顔で『当然です』と言ったんだ。マリーもいるし、一晩中おしゃべりでもしようかと思っている。お前も来るか? 多い方がいいだろうし」
 綺麗な顔をした草食獣みたいですがあれはあれでかなりあなたに本気です……と思ったが、姫はまったくどうでもいいようだった。身持ちが固いくせに、ディオールのことになるととたんに甘くなるのだ、この人は。
 アルトはしみじみと言った。
「……お気をつけて」
 姫に近しい侍女のマリーも、アルトと同じことを考えるはずだ。
 二人っきりにしてあげよう……と。
 この城で、二人の行方を見守っている人間は数知れないことを、本人たちだけが知らない。
 そうか、と少々残念そうだが明るい顔をして、姫は待ち合わせの部屋に向かってしまった。
 次の日、アルトはディオールから話を聞き出した。
 結局、三人から二人になりはしたものの、ずっと話をしていたらしい。その内容が世界情勢やら今後の展望やら武器についてやら騎士団についてだというから、がっくりとアルトは肩を落としたが、ただ一つだけディオールが挙げた功績は、彼が溜まりに溜まった自身の給金で、姫にドレスを見繕った、ということだった。
 その理由はとんでもなく馬鹿馬鹿しく、彼は彼女に苦笑されたのだというが、その素直さに免じて、彼女は贈り物を受け取ったらしい。後にも先にも、王女が家族以外からの贈り物を受け取ったのはこれ一度きりだった。





 そうして彼女は今ここにいる。
 彼はいない。
 ここにあるのは、彼が残した剣だけだった。
 神々の剣――名もない若い神の剣は、人の世に残され、伝説を残した。戦神ディオグストの戦士して生まれる、すべて【ディオール】と呼ばれる、地上の時を百年経て生まれる神々の一端は、目覚めと同時に地上に降りることが義務づけられている。ディオールは一緒くたにされる使い走りの兵士だった。しかし、彼は彼女と出会い、物語を残した。
 しかしそんなものはいらなかった、とアルトは思う。だって、ディオール、見ろよ。
 いつかディオールがリゼロットにドレスを贈ったのは、ドレスを着ないといった彼女がドレスをあまり持っていないだろうと解釈したせいだと聞いた。いくらなんでも彼女は王族だし、まったくドレスを着ないということは許されない。同じものを身につけることは彼女が納得しても周りが許さない、ということをディオールは知っていただろうに、何故かそんな風に妙な方向へ思考が飛んだらしい。それを聞いてリゼロットは苦笑し、ならありがたくもらおう、と受け取ったという。
 おそらくは、彼を大切に思うために。
 銀髪にあわせた、銀のドレス。ほとんど純白に見えるものだ。
 どうして、今日のこの日にそんな銀色の衣装をまとっているのかは、聞かなくても分かるだろう?
 王女リゼロットは、天鵞絨にくるまった剣を受け取り、腕に抱いた。目を細め、あやすように、剣に微笑みかけた。
 アルトは目を閉じないようにして、その光景を焼き付ける。

 名もなき若神の剣は、しばらくしてのち、『黒龍の爪』と名付けられる。
 人を食らう竜ではなく、人を守護する龍としての。






 竜 の 爪

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