セーネは解き放たれようとしていた。この冷たい身体に、その喜びがじわじわと熱を上げ始めている。

 あの日。

 不思議と冷たい風が吹く夏の日だった。海の向こうに雲が遠ざかっていくのが見え、飛ぶ海鳥が、今日の風の流れが違う事、そして波の様子が違う事を知らせた。海辺に住む者たちなら敏感に感じ取る事の出来る天候の変化。年に一度あるかないかという少し世界が揺らめいている一日。
 砂浜を歩いていた。柔らかい砂は、曇りの天気で少し湿っていて重たい。海の匂いはぎゅっと濃くて、寄せる波の透明さとその向こうの鮮やかさを見ていた。
 変わり者とよく言われた。海辺に澄んでいるのにそんなに海を見て何が面白いのか。分からない。そう答えると人々は困ったように笑うのだった。やれやれといった風に。セーネが変わり者と呼ばれるのは、彼が不思議なものに好かれる性質にも原因があった。動物は寄ってくる。植物は季節外れでも咲こうとする。その内天気でも変えられるんじゃないかと人々は笑ったが、セーネは微笑むだけだった。昔は出来たんだよだなんて、言えるはずもなく。
 海に来るのは一人になる為だった。人々の間をふわふわと漂っていると自覚していた。この身の何が違うのか。自分の肉体は人間のものだ。自分の地位、性格、望みにも原因を探してみた。友人たちと深く付き合ってみようとしたし、美しい女性とも交流を持った。それでも、「変わってるなあ」と言われる旅に、「ああ、やはりそうなのか」と自分が人間になれない事を知り、地面が遠くなるのだった。
 ならば一人きりでいれば他との差違を感じずにいられるだろう。そんな風に考えて、一人で海辺を歩くようになった。

 胸が痛んだ。咳が出る。あまり無理は出来ない。海風は勧められたものではなくて、皆に止められていたけれど、セーネは海に行かずにはいられなかった。
 海鳥が頭上を舞う。

「……?」

 何かを告げるように鳥たちは飛び交い、一羽に目を向けるとそれはずっと向こうの岩場にすっと滑るように飛んでいった。セーネは追いかけた。
 岩場は足を滑らせると危険なので近付いた事はなかったが、飛んでいった鳥が岩場の先端に降りたってコウコウと鳴いた。よく見ると、ものすごい数と種類の鳥が集まっている。巨大な魚でも乗り上げたのか。
 そんな事を考えていると、ずるっと足が滑った。息を呑んで身体が落ちた瞬間、鳥たちが一斉に舞い上がった。
 何とか海に落ちずに留まる事が出来、ほっと息を吐いたのも束の間、次の瞬間息を止めずにはいられなかった。

 若い娘だった。海から伸びた上半身は、岩場にようやく辿り着いてぐったりしている。白い腕。水に濡れて貼り付いた金色の髪。耳の辺りに覗く、魚のヒレらしき半透明のもの。
 恐る恐る近付いて、誰かが置いた人形でない事を確かめた。見れば見るほど美しい女性だった。長い睫毛が濡れたようで、薄く珊瑚色に色付いた唇はか細く息を吐いていた。細い剥き出しの肩は華奢なのが窺えて、髪から飛び出している尖った耳がなければ、普通の娘にしか見えない。

「…………」

 そっと腕を取る。脈はきちんとあった。
 その時手を取られた感覚からか娘が動いた。う、と呻き声。彼女が目を覚ますのを、セーネは固唾を呑んで見守った。
 そうして娘が眼を開いた。ゆっくりと辺りを彷徨い、頭を持ち上げてセーネを見た。息を呑んでいた。掴んでいた手がするりと抜ける。

「!」

 そのまま海に沈んでしまった。ぱしゃんと水飛沫が上がる。
 セーネは見た。確かに今、青い尾ひれが。
 そのままじっと波を見ていると、ふいに波紋を描いて、金色の頭が覗いた。恐々といった感じで、顔半分だけが浮かぶ。その様子が可愛らしくて、ぷっと噴き出した。

「…………」

 笑っていると彼女は気を悪くしたように水中に消えた。驚いて水面を覗き込んで待ってみたけれど、彼女は美しい波紋を残して消えてしまった。





 翌日、朝から出掛けていくと、同じ岩場に鳥が集まっていた。昨日の場所に姿はなかったが、いるのは周囲の様子から分かった。
 セーネは笛を吹いた。古くから伝わる海辺の歌を吹いたのは、彼女が知っていると思ったからだった。海の王国で今どんな歌が流行っているのかは知らないが、祭りで浮かべられた船上で歌われ続けた古歌は、寿命の長い彼女たちも知っているはず。
 横目に波が見えたが、セーネは気付かぬ振りをして吹き続けた。始まりの緩やかな音節は終わり、中盤の陽気な音節が続く。それに合わせて、高い澄んだ声が響き渡った。
 一流の歌手の、伸びる高音。弾んだ音。音階が波のように広がり、セーネは必死に彼女に付いていった。始めたのはセーネだったのに、今は彼女が歌を奏でていた。
 手拍子が止むところに差し掛かった。セーネは笛を止めていた。ここからは歌姫が一人で歌うところだ。
 一歩一歩進み出るように、彼女は音を生み出した。困難な音を、軽く飛び越えるように発声する彼女。セーネがよく知る懐かしい歌声。鳥たちが舞う、空と海の狭間に手を伸ばす。音が途切れる一瞬の間、そうして伸びていく音。
 余韻を残して彼女の歌は消えた。海すら聞き惚れていたかのように、歌が終わると拍手のような波音が響く。岩場に腰掛けた彼女の肩は弾んでいた。白い頬が紅潮している。目が合うと照れたように微笑んだのは、歌った興奮が大胆にさせていたのかもしれない。
 今ならと、セーネはそっと花束を差し出した。彼女の顔がぱっと輝いた。見た事はなくても話には聞いていたのだろうとその喜びようを見て思う。その気持ちはかつてのセーネにもあったものだ。
 彼女は花束を差し上げ、日の光に透かそうとしていた。それからどうしようと首を傾げ、一本を引き抜くと唇を寄せ、セーネに差し出した。くすりとセーネは笑った。見てきたんだろう、恋人同士の行いを。だからセーネはそれを受け取って、胸元に挿した。彼女は美しく微笑んだ。





 それからの出来事はあっという間に過ぎ去った。

 彼女は言葉が話せなかった。言語そのものが違うのだ。彼女の歌にはセーネが知っている詞がなかった。それでも十分だった。寄り添って共に音楽を奏で、人に見つからないように岩場を散歩する。海で過ごす時間は長くなり、夜中まで彼女と会った。
 人々との付き合いは希薄になったが、楽しかった。それが今の、誰にも看取られない時間を呼び寄せたのだけれど、これで解放されると満ち足りていた。

 彼女はある日、セーネに砂時計を渡したのだった。その砂時計はよくある形をしていたが、硝子であるはずの部分が翡翠色の石で、砂は中で光の泡のように内側から輝いていた。

「――、――」

 彼女の言葉と身振り手振り。彼女は砂時計をひっくり返して、彼女自身とセーネを指し、人差し指同士が寄り添い合い、歩く、という感じに見えた。
 セーネもその仕種を真似た。

(一緒になれるっていう事だね?)

 彼女は何度も何度も頷き、そっと砂時計を渡した。

(この砂が落ちきった時……)

 胸が痛む。咳を堪え、微笑んだ。
 彼女は迎えに来てくれたのだ。





 砂時計の光の砂が落ちていくと、まるで力を吸い取られていくように、セーネは海に行く以外は寝ているようになった。
 砂時計を渡して以来、彼女は現れなくなった。笛を吹いてみたが、遠くまで届くような音は長く奏でる事が出来ず、波は静かに寄せて引くだけ。長くいると身体が凍えてしまう為、滞在する時間は短くなったけれど、岩場に座らない日はなかった。
 けれどついに一歩も動く事が出来なくなっていた。息をする度にぜえぜえと耳障りな音がする。人々がこの日まで気付く事が出来なかったのは、セーネがほとんど部屋にいる事がなくなっていたからだ。それだけ希薄だったのだ。自分が。
 でも良い。ようやく解放される。砂が落ちきれば、きっと海へ。だから行かなければ。
 最後の力で家を出た。すっかり夜だった。丸い月が海の方向で輝いている。足を引きずり海へ降り立った。そこまで長い時間を掛けたのに、誰にも会わなかった。魔法でも掛かっているのだろう。
 岩場へ行く力はなくて、砂浜に崩れ落ちた。目が霞む。風が冷たくて震える。

(来てくれ……)

 細い、自分にしか分からない声で、叫ぶ。

「いつもどこかに行きたかった。でも僕はこの世界では必要でなかった。誰にも側にいてもらえなかった。僕は、僕は、君の元へ行きたい。君の世界が温かいのを僕は知っている……」

 月が海に映って揺らめいている。そこに黒い影が浮かんだ。
 ゆっくりとそれは人の形になる。嗚呼とセーネは息を吐く。
 セーネは年に一度あるかないかの冷たい夏の日に、この海辺に辿り着いた。口がきけぬセーネを人々は甲斐甲斐しく世話をした。けれどセーネは心からこの世界を愛する事が出来なかった。愛した人を一度失い、それ以来世界に弾かれた。
 だからきっと誰かが迎えに来てくれるだろう。もう帰っておいでと。
 そして彼女は来てくれた。

「僕が愛せなかった、世界。でも君がいる世界を僕は愛したい。時間は、まだあるだろうか。君のいる、僕のいた世界を一度捨てて、この世界で生きた僕でも……」

 砂時計はその瞬間、割れた。セーネの部屋で、すっと溶けるように、落ちるように。割れて砂と水が流れ出した。

 人影が走り寄ってセーネを抱き留めた。水に濡れた身体でセーネを抱き締めた。
 二本の足を与えられた彼女は、動かなくなったセーネを揺さぶったが、セーネはゆっくりと、解けるように指先から海へと溶けていった。



 彼女は足を貰う時間を示したのに、砂時計はセーネの命の時間を示した。
 彼女もまた、どこにも行けぬ住人となった。





 翡 翠 色 の 砂 時 計

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