<<  ―    ―  >>

 誰だこれは、という顔をしている二人の前に進み出たレシュノルティアは、唇に品よく笑みを浮かべて、壮年の男に呼びかけた。
「キルタ公爵様でいらっしゃいますね?」
「は……あ……?」
「お初にお目にかかります。レシュノルティア・ラクエルと申します」
「……公爵。これが……妃だ」
 信じたくはないという含みがあったが、気付かぬふりをして頭を下げる。はらりと髪が背中から落ち、輝きを放った。顔を上げてからそっとそれを押さえて、絶句している公爵に微笑みかける。首の傾け方は絶妙だという自信があった。
「掛けてもよろしいでしょうか?」
「は……は! 失礼いたしました、どうぞ!」
 失礼いたします、と断ると、アイサイトが椅子を引いた。騎士を偽装した彼は訳が分からないという顔をしている。当然だ、突然貴族女性の格好をしたいから伝手を紹介してくれと言い出し、何をするかと思えば、ちょっと王子に用がある、と言っただけなのだから。
 グレイが椅子の上で身じろぐ。非常に座り心地が悪そうだ。
「……何故ここに?」
「私を放置なさるんですもの、追いかけてきてしまいました。これだからすぐ具合を悪くするんですわね。でも、殿下が捕らえられたと聞き、いてもたってもいられなくて……」
 そっと睫毛を震わせる。「本当に誰だお前」という疑問がグレイの顔面いっぱいに見えたが、一番自分を疑いたいのはレシュノルティアの方だ。
 まったくどうかしている。誰かを助けるために捨てた皮を被るなんて。
 だが、にっこり、何も考えていないような笑みを向ける。
「私、こちらに来るのをいろんな人に止められました。情勢が不安定だから、妙な噂があるからと。でも私、侍女たちに言ったんです。『殿下が守ってくださるから大丈夫』って」
 ぐう、と呻く音がした。グレイが口元を押さえて目をそらしている。しかしレシュノルティアは公爵の目がこちらから逃れないように、急いで「でも」と言葉を重ねた。
「公爵様は私のことをお恨みでしょうね。ジェシカ様が、あの方とお幸せならよいのですが……」
「……レシュ? 何を……」
「ジェシカ……娘の駆け落ち相手をご覧になったのですか!?」
 かかった、とレシュノルティアは内心ほくそ笑んだ。
「はい。でも、後からその方だったのだと気付いたんです。黒髪の、爽やかな、美しい殿方でした。お二人が手に手を取られたと聞いて、それは必然だったのだと感じ……」
「詳しい人相は分かりますか?」
 うっとりした王子妃の言葉を遮って、公爵は問う。レシュノルティアは素直に頷いた。
「はい。黒髪に青い瞳をした方です。印象深かったものですから――とても」
 作り上げた男の像は、あの魔術師の容貌だった。繊細な、柔らかい美貌の青年。忘れたくなくとも忘れられない、あの眼差し。仮面の笑顔から覗く、歪んだ喜び。
「……初めて聞くぞ」
 興味深そうに聞いていたグレイが、鋭い声で尋ねた。
「ええ、話しておりませんから」
 笑顔でかわし、レシュノルティアは内心舌打ちする。本当に、この男は勘が鋭すぎる。どうしてこの人物特徴が、先ほどから並べ立てている嘘の一部だと思わないのだ。
「そのお話、詳しいことをお尋ねしてもよろしいでしょうか? できればお時間をいただきたい。晩餐にご招待しても?」
「もちろんですわ。ですがどうぞ、お二人を追ったり、捕まえて咎めないようお願い申し上げます。引き裂かれるお二人がお可哀想ですから……」
 両の手を合わせて懇願したが、目に入っていない暗く強ばった顔で公爵は一旦辞去の言葉を述べた。グレイは退室を許し、やがて、アイサイトを含めた三人きりになった。
 次の瞬間、レシュノルティアはドレスの下から靴を脱ぎ飛ばし、椅子の上で足を組んだ。
 はー……と溢れたため息が重なった。
 グレイはアイサイトに目を投げ、それが自身の騎士でないと確認した上で複雑そうに笑いかける。
「見たことがある顔だな。ファルムの国境城塞で兵士をやっていなかったか。ディピアにもいたな?」
「アイサイト。今日見聞きしたことは、絶対、誰にも言うな。傭兵仲間の誰にもだ。誓ってくれ」
「はい、それはいいですけど、その……」
 信じられないものを見る目で交互に視線を移していた傭兵は、肩を落として尋ねた。
「つくづくとんでもない人だと思ってましたけど……今、何の仕事を?」
「王子妃」
 聞いて後悔したらしい。何とも言えなくなった彼と同じように、レシュノルティアも苦笑するしかなかった。
「協力してくれて助かった。ありがとう。その格好を咎められる前に行ってくれ」
「その言い方はないんじゃないか? 仲間だろう」
 グレイは批難したが、アイサイトは首を振った。
「こういう人なんです。最初から分かって協力してますから。……分かりました、隊長。しばらくこの砦にいるんで、何かがあったら声をかけてください。その……殿下、御前を、失礼します」
 たどたどしく一礼して、アイサイトは退室した。気遣う笑顔でまたなと応じて、彼が声の届かない距離まで立ち去る時間を置くと、グレイはレシュノルティアに向き直った。
「どういうつもりだ?」
「助けてやったのにひどい言い草だな」
「それは感謝している。だが……お前は、そういう役回りをする必要はないはずだ」
 グレイは怒ったように肩を張り、声を低めた。馬鹿にして嗤う。偽装結婚を強要した男が、どの口でそれを言うのだろう。
「ジェシカの件は私にも責任があると思っただけだ。余計なことなら悪かったな」
「違う!」
 いきなり手首を掴まれ、叫ばれた。
「……違う。悪いのは俺だ。お前がこうして来てくれたことが嬉しい……だからもしこの先もずっとそうならと、思ってしまった」
 これから歩む、長く、険しい道に、お前がいたら。
 聞いていて苦しくなるくらいに息を喘がせて、グレイは呟く。細く、低く、不安そうな悲しい声。
「お前に、そういうことを願ってはならないのに」
 レシュノルティアは震え、掴まれた手で拳を作った。
「離せ」
 グレイはすんなりと解放した。レシュノルティアは頼りなげにうつむくグレイを批難の目で見ていたが、彼はゆっくりと息を吐き、顔をあげる。その顔には後悔と、自嘲する笑顔があった。
「……失言だった。忘れてくれ」
 ――心臓の奥が痛んだのは気のせいだ。
「そうしてやる。じゃあ、私は行く。晩餐の支度をしなければならない。迂闊な発言はしないよう気をつけるから心配するな。お前はゆっくり休んでいろ」
 強烈な皮肉になってしまったのは、やはりレシュノルティアもどこかがおかしくなっていたのかもしれない。グレイは苦笑いで「すまない」と口にした。
 部屋を出てつかの間そこに立ち尽くし、唇を噛んだ。
 揺れるな。――縋るな。求めてくれる存在に甘えてはならない。それは私の足を掬い、私を縛る。前だけを見ろ。隣に温もりを求めるな。理解者を望むな、喜ぶな。すべてを振り払い、行け。
 帰る場所などない。
 でもどうして。
(どうしてこんなに、何もしてやれないことが苦しい……?)

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―