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 鼓動の音が、する。

 意識のないグレイの胸に彼そのものに思える優しい鼓動を聞いていたレシュノルティアは、その鼓動が確かなことを認めると、感覚の鈍い身体を起き上がらせた。
 砂粒になる指先に、胸元からこぼれた青い色の護符が触れる。
 微笑を浮かべる。最後の友人がくれた、奇跡の光。銀青花の護符は、炎を鎮める青い光を放ちながら、消え行こうとするレシュノルティアに祈るほどの猶予をくれた。
 止血するために彼の衣服を剥ぐ。救助の途中で時間が尽きてレシュノルティアは塵になって消滅するだろうが、それでも、出来ることをしたかった。初めて触れる素肌は冷たく、熱い。鍛え上げられた雄々しい胸を露にして血を拭ったとき、手を止めた。
 はじめ、それが何なのか分からなかった。
 小さな痣だった。鳥が飛ぶような形の、はっきりとした跡。傷ではなく、生まれつきのものだろう。彼の胸に刻まれたそれは、もし本当に傷ならば命に関わるものだろうと想像させた。
 ――きっともう一度生まれてくるよ。
 同じ場所に同じ傷を負った人を、レシュノルティアは知っている。
 唇が震える。ずっとなくしていた涙が、よみがえる。
 ――レイアス。
 戦いよりも穏やかに生きることを選び、夢のような一夜を過ごし、レシュノルティアを助け、何も始めないままに別れた最愛のひと。
「……、う、した……?」
 意識をわずかに取り戻し、呆れるほど能天気な声でグレイが問う。
「泣いて、いるのか? 困るなそれは。いやでも、嬉しいな。お前の涙は綺麗だ……」
「うるさい。口を閉じろ。どうして」
 まぶたが震えた。熱い。レシュノルティアの身体の何もかもが彼の名を呼んでいる。
「どうして、追いかけてきたりなんかしたんだ……!」
 なのに、口をついたのは逃げるような追求の言葉で、グレイは答えない。意味が分からないだろうから当然だ。だが怒鳴りつけずには、泣かずにはいられなかった。全身を包む喜びに、守られてきたんだ、と悟る。もう一度、助けにきてくれたのだ。別の人間として、でも、胸に徴をつけて。
 レシュノルティアは胸に額を押し付けた。
「やっと分かった……」
 かみさま。ほしのかみさま。例え私の罪が許されることはなくとも、私は今あなたに、心からの感謝を捧げる。愛おしいこの魂を愛してくれた、あなたに。
「この世が消え、星は落ち、魂の行方が無であっても……私はきっとお前に救われ続け、愛さずにはいられないんだ」
 グレイが縋り付いて身体を震わせるレシュノルティアに手を伸ばす。触れられ、撫でられ、心を震わせながら素肌に吐いた息は、愛する人の胸に抱かれた少女のものになる。レシュノルティアは強ばることなく彼に身を預け、くしゃりと顔を歪ませて笑った。
「だからこの涙は……お前に会えて、嬉しいからなんだ……!」
 そのとき、叫び声がした。怒鳴り声、駆ける音、悲鳴のような呼び声にレシュノルティアが剣を取ると、扉から現れた人々が太い呼び声をあげた。
「殿下、妃殿下!」
「隊長!」
「ミラン……アイサイト、アクス、マウスにハンター? お前たち……」
 駆け寄ってきた騎士は主の側に膝をつき、その呼吸を確かめると、一瞬だけ泣きそうな顔をしたが表情を引き締め、ハンマーとともにグレイを運び出す準備を始めた。
「どうしてここに」
「貴族たちに王子妃の乱心を聞いて、隊長の大事だと思いました。なんとか仲間を掻き集めて、ここまで」
「なのに扉は開かないし、いきなり城は炎に包まれるし、呪いだなんだって城中大騒ぎだ。しかもこの火、水じゃ消えない」
 轟音に包まれる玉座の間を見回した。どこかで梁が落ちる音が響いてきている。魔術師の放った憎しみの炎だ。
「脱出するぞ。行けるか?」
「待ってくれ」
 レシュノルティアは倒れ伏した女王に近付いた者を制止した。
 首を振る。
「その人は、私が連れていく」
 問う視線を仲間たちは投げたが、レシュノルティアはもう一度緩く首を振った。彼らは、アイサイトがいつか言ったように、自身の隊長がそんな人間であると思い出したようだ。
「行ってくれ。あとから追いつく」
「レシュノルティア、でも!」
「行きましょう、騎士殿。……レシュ、俺たちがあなたについてきていた本当の理由を、あなたは知らないでしょう」
 アイサイトの涙目に、レシュノルティアは不意をつかれた。本当に知らなかったのだ。いつも気の合う誰かしらが集まって、いつの間にいなくなる、そういうことを繰り返してきた。理由があるとも思わなかった。気が合うこと以外に考えたこともない。
「俺たちはみんな、父親や祖父や、先達からあなたの話を聞いてきました。あなたとともに戦場を駆け、あなたに助けられ、あなたと短いながらも語り合った思い出を。――戦場を駆けるレシュノルティアは、戦士たちの伝説でした。みんな、あなたに巡り会うことを夢見て大人になって、今、ここに」
 アイサイト。アクス。マウス。イアー。ハンター。ハンマー。ブレイド。ミラー。戦ってきた者たちが、レシュノルティアをひたと見つめていた。いつかの誰かも、彼らと同じ真剣な目で自分を見てきた覚えがあった。
 無数の時間、取り逃してしまほどの膨大な時間に、みんな同じ姿を抱いてきたというのか。レシュノルティアという、ちっぽけな存在を。
「レシュ」
 グレイがはっきりと呼んだ。
 伸ばされた手は力強く、レシュノルティアを逃がさない。
「俺は、ずっとお前に会いたかった。殺伐とした戦場で、大人たちが純粋な目をして語る青い戦女神に巡り会うのが、俺の運命なのだと――いつか俺を、王を、汚れていく国を罰するのはお前だと、思っていた」
 首を振る。罰することなどできしない。どんなすべても、時と世界と運命の前では、歴史の小さな粒でしかないのだから。
「だからお前は、俺の運命の女だ」
「私も」
 涙声になったから唇を強く引いてそこにあるのが悲しみではないことを確かめた。切ない。苦しい。だが、それは喜びから生まれるものだ。だから、笑顔で告げることができた。
「私も、お前が運命だったよ」
 レシュノルティアが握った手をほどいたグレイは自らの力でレシュノルティアの手を握り直した。一度苦しげな息を吐くと、囁いた。
「……行け。すぐに、追いかける」
 レシュノルティアはもう涙を止めなかった。夢の中で踊る少女――あれは、私だったのだ。
 これから始まる旅はどのくらいの長さだろう、とレシュノルティアは思いを馳せる。今度は自分が先に行く。記憶も思い出も何もかも忘れて、別の旅を始めている。それでもいつか、今よりももっと幸福な形で会うことができたら。
 ――きっともう一度生まれてくるよ。
 二人つないだ指が祈りの形になる。信じられた。ここにこの手があるのなら。
「待っていてやるから、あんまり早く来なくていいぞ」
 グレイは笑った。そうであったらいいと望む、彼が解けない手を、レシュノルティアは解き放つ。
「あとから、ちゃんと、来てください」
「絶対だからな!」
 アイサイトが強い声で念を押した。ミランが本音を隠して吠える。アクスが鼻をすすりあげる。イアーが涙を見られないように顔を背けた。レシュノルティアは、青い護符を握りしめ、砂に変わっていく自分をそっと隠しながら頷いた。
 笑った。……笑えた。
「ありがとう……私も、お前たちに会えて嬉しかった」

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