第2章 絆のひみつ

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 彼女の名を、ルリアといった。
 彼女はどこからやってきたのかも分からなかったし、苗字も持たなかった。寝床と食べ物を求めて機工都市に住み着き、いつの間にか、家のない子どもたちの面倒を見るようになっていたという。
 今でも、彼女のその行いは奇特なふるまいだったと思う。自分が空腹だというのに、彼女は自分よりも幼い子、街に慣れない者にパンを分け与えた。ノアも、エリックも、ルースも、シャルルも、ティナも、そうやって彼女に助けられた。
 ノアたちが〈黒鎖団〉を名乗って悪さをしている間も、ルリアは少し離れた位置から、困ったように見ていた。
「怪我だけはしないで」
「ひとを傷つけてはぜったいだめ」
 たぶん、あの頃ルリアにそう言われなかった子どもはいないと思う。彼女はひたすらに、まるで母親のように――捨て子だったり幼くして孤児になったりしたノアたちは母親の記憶はほとんどないけれど――子どもたちの無事を祈っていた。商工会に捕まったノアたちが〈黒鎖団〉を解散させられて、様々な工房の徒弟になったとき、心からほっとした顔をしていたから、きっとずっと心配していたのだろう。
「よかった。あたしも働き口を見つけたから、これでもっとちゃんとみんなを食べさせてあげられる。その代わり、いつも面倒を見てあげられなくなっちゃったから、みんな、よろしくね」
 そう言って頼られたとき、正直に言って嬉しかった。
 でも、困ったときは助けてあげてと言われて、一番助けてあげたいと思ったのはルリアのことだった。ノアだけでなくみんなも、特にティナはそう思っていたはずだ。ルリアの代わりに小さい子たちの手を引いているところを、何度も見たから。
 ルリアの新しい職場は、近頃街にやってきた富豪の下働きだった。
 すごくお金持ちなのよ、とルリアは言った。毎食焼き立てのパンが出るの。時々まかないをもらうけれど、それがまたおいしくておいしくて。今日もこっそり持って帰ってきちゃったわ。
 干し葡萄が入ったパン。ローストビーフの切れ端。まだ傷んでいない野菜。そうしたものを少しずつ持って帰ってくるルリアを、ノアは「なんだか痩せた気がする」と思って見ていた。けれどもともとルリアは細身だったし、そうやって食事を抜いて孤児たちに与えていたから、仕方がないかと思っただけだった。
 それはティナも気付いていて、ある日「ちゃんと食べて」と詰め寄っていたところをノアは見た。ルリアはそれに苦笑しながら首を振っていた。
「だいじょうぶ。お屋敷で食べてるから。帰ってくると食べたくないだけなの」

 少しして、ノアたちはティナに呼び出された。ティナはしばらく言いよどんだけれど、思い切ったように吐き出した。
「ルリアの身体に、傷があったの。ひとつふたつじゃない。治りかけの痣に、最近殴られたまだ赤黒い痣とか。あと、やけどの跡、みたいなのが……」
 暴力を振るわれることは、ないわけじゃない。自分たちのような孤児は、働いている場所で殴られたり、街のごろつきに手慰みに蹴られたり、もっとひどい場合もある。だがノアたちが問い詰めても、ルリアは「だいじょうぶ」と首を振るのが分かっていた。
 けれどこのままでは彼女がもっとひどい目に合うかもしれない。
「――大人たちを頼ろう。働きたいっていうなら、俺たちでルリアが働ける場所を探そう」
 エリックがそう言ってみんなが同意した、その日のことだった。

 ルリアが世話している子どもたち、その中でも大きい子が、ノアを探していた。時刻は夕方。ひんやりとした風が通りを吹き抜けていく。大声で呼ばれて振り返り、その子を見てノアは驚いた。顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのだった。
「ルリア姉ちゃんが」と、彼は言った。
 その時の何とも言えない嫌な感じは、言葉では言い表せられない。
 案内されるままに駆け出した。
 当時孤児たちがたまり場にしていた廃墟に、ルリアはいた。埃の積もった、けっして綺麗とは言えない床に寝かされていて、周りを小さい子たちが囲んでいる。泣き声が聞こえていて、何がなんだかよくわからなかった。
 ノアはルリアの顔を覗き込み、そばかすの浮いた頬が青ざめているのを、いつも束ねていた茶色い髪が血で汚れて固まっているのを見て、瞬間的に、彼女がもうこの世の人ではないことを悟った。
 遅れて集まってきたみんなは、最初、呆然と立ち尽くしていた。嘘だろ、と言いながらエリックは膝から崩れ、ティナはルリアに縋りついて号泣し、ルースはルリアの名を悲痛な声で呼び、シャルルは静かに涙を流しながら表情を失っていた。
 少し落ち着いた頃、何があったか子どもたちに尋ねた。話をまとめると、ルリアのことは彼女が働いていたお屋敷の人々が運んできたらしい。
「仕事中の事故だった」
 それだけ言って、ルリアを置いて帰ったという。
 お葬式をしなくちゃ、と言って、少女たちの中心になって動き出したティナは、数分と経たずに外でやるせなく立っていたノアたちのところに駆け込んできた。
 ノアは、ただただ大声をあげて泣き崩れるティナを支えているだけだったけれど、何かを察したらしいエリックは思い詰めた顔をしてルリアのところに向かった。そして戻ってくると蒼白な顔で一言。
「ひどい」
 とだけ告げた。
 見ないで、とティナが泣いて頼んだので、確認したのはティナとエリック、そして頑なに見ると言い張ったシャルルだけだ。ノアとルースは後から話を聞いた。
 ルリアの身体は、おびただしい暴力と折檻の跡で、ひどい状態だった。
 それを目の当たりにしたティナはあまりの悔しさと怒りで飛び出してきたのだった。
 死因となった事故とやらは本当にそうなのか――。
 いやこの状況ではおそらく――。
 そう、みんなが思った。
 縋る気持ちで情報を拾い集めた。闇医者の診断や、屋敷の勤め人からの聞き取り、目撃者の証言。そうしてノアたちは確信した。

「ルリアは殺されたんだ。あの男に」
 
 孤児に救いの手を差し伸べてくれない、孤児の少女のために立ち上がる義理もない、またあの男に逆らえない大人たちに、助けを借りることができないと判断したノアたちは自分たちの手で復讐を誓った。
 ヴォーノ。あの男を潰す。
 でも時々「彼女はそれを望むだろうか?」と考えるときがある。
 そういうときは、彼女の言葉を思い浮かべる。
「あたしが誰かに優しくすることで、この街が、世界が、優しくなると思うんだ」
 ――彼女の思いを守るためなら手を汚してもいいと、みんな思ったから。

 ノアたちが失った大事なひと。天使だったひと。
 彼女の名前はルリアといった。

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