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「ノア。どこに行く? みんなを追いかける?」
「そうだなあ……じゃあ、祭りの通りをぐるっと一周してみよう! 見たいものがあったら見に行こう」
「うん!」
 リトスは頬を紅潮させて頷き、辛抱できないとばかりにノアの腕を引いた。体勢を整えつつ、ノアは笑いながらその後を追う。
「ノア! これ、なあに?」
「ん、どれどれ」
 露天商が品を出している。連なった飴玉。がらくたを組み合わせたおもちゃ。端切れ。もちろん食べ物もある。
 そのうち、綿あめを見つけたリトスは、大きな目をさらにまん丸に見開いて、綿状になった飴が棒に巻き付けられていくのに見入っている。受け取った子どもがそれをちぎって口に入れるのには、もっと驚いたようだ。
「ノア、ノア。あれ、食べ物なの? 食べられるの?」
「うん、綿あめだよ。ひとつ食べてみようか」
 お代を払って綿あめをひとつ受け取り、リトスに手渡してやる。
「べたべたするから気をつけて、ちょっとずつ食べるんだよ」
 飴をちぎったリトスはそれを口に運ぶと「はぅっ」と妙な声を出した。
「ノア、溶けた! 溶けちゃった!」
「薄くて細い飴だからね。甘い?」
「甘い。おいしい!」
 不思議だなあと思う。リトスは、きちんと味覚もあるようだし、食事もするのだ。小食みたいよ、と言っていたティナは、リトスの正体がなんなのかあまり考えないようにしているのだと思う。
「あっ、手を拭かないまま髪に触らないで!」
 急いでハンカチで手を拭かせる。その間に、乱れた前髪を整えてあげた。
「仲がいいわねえ」
 同じようにして綿あめに夢中の孫を連れた老婆に笑われた。
「……ノア、行こ!」
 リトスは照れ臭そうにうつむいたかと思うと、逃げるみたいにしてノアに先立って小走りに駆け出していった。慌ててその後を追う。あっという間に追いつけるのは、リトスの歩幅が小さいからだ。
 その時、後ろから賑やかな声が近付いてきた。一輪車に乗った芸人が、子どもたちを引きつけて広場に向かっていくのだ。彼がばらまくちらしには、夜から演し物をすると書いてある。
「きれいな絵。演し物だって」
 ノアが持っていたちらしを覗き込んだリトスが、書かれているものを順に読み上げていく。
「賢い犬たち、火の輪くぐり、空中綱渡り……人魚と、――機械人形」
 小さな爪が、書かれた少年人形の絵を指す。
 急に、周囲の音が遠くなる。
 ノアは喉の渇きを覚えながら、小さく言った。
「偽物だよ、たぶん」
「うん。わかってる」
 リトスはかすかに笑った。その声が、やけに楽しそうだったので驚く。
「なあに?」
 どきっとした。
 こちらを覗き込んで首を傾げられ、ノアは急いで首を振った。
 軽やかな笑い声も目を細める笑い方も、はかなくて、とても可憐だった。
 なのに、なんだか泣きたい気持ちになる。息を止めていないと、涙が溢れそうだった。
 ――〈音〉を聞こえる。時々止まりそうになったり、速くなったりするけれど、すべての音色を取り戻して、正しい歌を奏でようとしている。
 目を開くと、リトスが、静かな微笑みを浮かべてこちらを見上げていた。
「ノア」
 りん、と扉鐘のような声。
「話したいことがあるの。聞いてほしいことがあるの」
 うん、とノアも頷いた。
「おれも、リトスと話したい」
「ふふ、いっしょだね。うれしいな」
 リトスが笑うと、輝く髪が柔らかく揺れた。
 手をつないでいく。もうつなぎ慣れてしまったリトスのそれを包み込みながら、ふと思った。
 以前なら彼女を守るつもりでこうしていたのに、今はなんだか、自分が手を引かれているような気がする。
「よくこうやってリエラと手をつないでいたよ。リエラは、みんなのことが大好きだった」
「リエラ……お姉さん?」
「うん、上から六番目。わたしのすぐ上のおねえさん。おしとやかで、きれいな話し方をして、みんなからお姫さまって呼ばれていた」
 どんな子だったのだろう。リトスがくすぐったそうに語る、その姉は。
 でもきっとすごく仲が良かったに違いない。リトスが優しいとまでいう姉は、誰よりも無邪気なリトスを大事に思ったはずだから。
「リエラといちばん仲がよかったのが、リン。リンは、見た目は子どもなのにいつもむずかしい本の話ばかりするの。わたしたちの他は、おじいちゃんやおばあちゃんとばかり話していた。『ぼくが孫に見えるんだろう』って苦笑いしていたな」
 どうやらリンは男の子らしい。小生意気な少年の姿を思い浮かべた。
「反対に、リエラのことをきらいだって言っていたのが、リジェッタ。リジェッタもとってもきれいな女の子で歌が上手、なのに口が悪いの。リエラのこと、すましててきらいって。でもねえ、憧れていたんだって、みんなわかってた」
「複雑だね」
「そうなの。複雑だったの。そんなふうにして、リジェッタがぷりぷりしていても、ぜんぜん動じなかったのが、リルリル。リルっていうのが、愛称。普段はあんまりしゃべらないのに、大事なときに大事なことを言ってくれるの。リエルトもリリエンタールも、リルの言うことはちゃんと聞いていたなあ」
 知った名前が出て、どきっとした。
 敵意を向けてきた彼のことを、リトスはどう考えているのだろう。
「……きょうだいを順番に並べると、どうなるの?」
「リリエンタール、リジェッタ、リルリル、リエルト、リン、リエラ、最後がわたし。リリエンタールが、みんなのお父さん。リエルトは、みんなのお母さん」
「えっ!?」
 思いがけないことを言われて、過剰な反応をしてしまった。けらけらと楽しそうにリトスは笑った。
「リエルトはねえ、苦労性なの。好き勝手するきょうだいのこと、いつも気にかけてくれていた。リルがいなくなったら探しにいったり、リジェッタが怒ると機嫌をとってあげたり。……だれかがひとりぼっちでいるとね、リエルトが呼びにきてくれるの。『こんなところで何してる』って。『ひとりで何泣いてんだ』って」
 きっと、リトスもそうやって迎えに来てもらったことがあるのだろう。
 けれどそのリエルトは、目的を持ってこの街に現れた。リトスに銃を向けて、敵のようにして立っていた。
「だから……ああして現れたのは、きっと、誰にも言えないわけがあるんだと思う……」
 リトスは小さな声でそう呟いた。
 寂しいときは誰かが側にいて、歌を歌ったり、本を読んだり、語り合ったりして。そうやって、〈ロストハーツ〉たちは寄り添って暮らしてきたのだ。彼らのどこが『心が失われている』というのだろう。
「……きょうだいたちがどうなったか、覚えてる?」
 懐かしそうに、悲しいような儚い笑顔で、きょうだいのことを思っている彼女は、みんなの行方を知りたいはずだ。
 リトスは目を伏せて、唇を結んだ。そして首を振った。
「……戦争が始まったとき、わたしたちはみんな、それぞれ別の場所にいたの。うわさで、どうやらリジェッタが死んでしまったらしいって聞いたけれど、本当かどうか確かめる前に情報が遮断されてしまって……やっとリリエンタールと連絡が取れたと思ったら、しばらく身を隠せって言われて。だから、みんながどうなったのか、どこにいるのか、ぜんぜんわからないまま……――リエルトが、」
 そこまで言って、リトスは言葉を切った。
「リエルトが?」
「ううん! なんでもない……。本当のことは、もうわからないもの。どれだけ時間が流れたのかもわからないし、ここがどこなのかもわからない。ツァイトツォイクという街は、わたしが知っている頃にはなかったから」
 そうやって微笑む彼女の言葉は、ノアの知らない遠くからやってきたのだということを示していた。時間も場所も、存在も、手の届かないような彼方にあって、今ほんの一瞬、偶然に噛み合った歯車のようにここにいるだけ。
 ノアは、リトスの手を取った。
(この子は人間じゃない。おれの知らない、計り知れない過去がある。こんなにきれいで、優しくて、純粋で……本当なら、出会わなかったような存在で)
 けれど、彼女はいま、ここにいる。
 この街に、立っている。
 偶然的に集まった仲間たちと紡ぐ日々を、絆として抱いてきたノアだった。この一瞬、この街の一部としてともに存在しているということ。リトスもそれに当てはまる。
 だから――それを、いとおしく思えないはずがないのだ。
「リトス」
 彼女にとって、自分がどんな存在なのかは分からないけれど、それでも、ほんの少し寂しさを埋めたり、楽しい気分を思い出させたりするものでありたい、とノアは思った。特別でなくていい。大事なひとでなくてかまわない。忘れられても、どちらかが消えてしまっても、『ひとりぼっちじゃなかった』という記憶を作りたかった。
 そして、その思いをきちんと聞き取ったかのように。
 リトスは指を絡め、ノアと深く手をつないだ。うんと頷いて、やわらかく、花びらのように頬を染めて、笑った。
「ノア。わたし、行かなくちゃならないところがあるの」

 ――本当の気持ちを言えたらいいのに。
 行かないで。一緒にいようよ。行ってほしくないよ。
 この街で生きていこうよ、一緒に。
 そんな風に言えたらと思うのに、言ってはいけないのだと心が言う。引き止めてはならない。そんな子どもっぽいことをしてはいけない。だって行かないでと思うその理由は――。

 一度目を閉じ、浮かんだ思いに覆いをかける。
「うん。――一緒に行くよ」
 柱時計の中で眠っていた彼女を揺り起こした。
 だからこれは、ノアが見届けなければならないことなのだ。

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