終章 そしてこの街で

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 ――そして、時計の針は進む。

「おれは、この世界が機構であることを知っています」
 宗教都市シュパイアトルムの審議の間に、ノアは立っていた。段になった審議席にはこの街の査問官たちが着席し、こちらを険しい目で見ている。
「それで、そなたは何を求めるのかね?」
 高みからようやく問いが投げられる。
 ノアは、両手を縛られた姿でその言葉を放つ。
「世界機構から〈ロストハーツ〉と呼ばれた人形が作られ、彼らがいなければこの世界が壊れる。おれは、その真実を世に公表することを望みます――」
 なんてことを、と審議の間の人々は怖気を振るった様子でつぶやいた。嫌悪の視線、呪詛の言葉を浴び、ノアはじっと待つ。
 深いため息が響いた。
「――その者を連れていきなさい」
 刑務官に乱暴に腕を取られ、退席させられる。審議場の扉が閉ざされ、誰もいない廊下を進まされた。毎日誰かしらが磨き上げている窓から差し込む光でどこも明るい。宗教都市の牢屋は綺麗だといいのだが、などと考えていると、突然、手錠を外された。
「え?」
 刑務官の視線をたどった先に、別の司祭がいる。ついていけと言っているらしい。
 先導する司祭を見失わないよう、だが、足音がうるさくならないように早足でついていく。
 横道らしきところに入っていくと、廊下の雰囲気が一変した。
 壁の質感や床の模様が、少し古い。この建物の旧い部分なのだろう。もっと詳しく見てみたいのは、現在ノアが持っている肩書きについている性分だ。
 廊下の突き当たりには、少しの階段を上った先に扉がある。
 道案内してくれた司祭は途中で立ち止まり、ノアにだけこの先に行くように促した。その見守りを背中に感じながら、扉を開けた。
 そこは、普通の私室だった。本棚があり、書き物をするための机がある。応接に使う机と長椅子が置かれ、隣にはおそらく寝室があるものだと思われた。高いところに取られた窓は大きく、白い光が降り注いで、床に描かれた歯車と鍵の模様を照らしていた。
「……君は、だあれ?」
 優しい少年の声に呼びかけられて、ノアはゆっくりと振り向いた。
 神官服を来た十代半ばと思しき少年が立っていた。雪のように白い紙をして、美しい青の瞳をしている。少女と見まごう可憐な子だ。
「この街の人じゃあないね? どこの人?」
「ノアと言います。機工都市ツァイトツォイクの、時計職人です」
「時計?」と、面白がるように少年は繰り返した。
「機工都市には時計塔があるって聞いたことがあるよ。この街にもたくさん時計塔があるけれど、それに見に来たの? でももしそうならこんなところにいるのはおかしいね。ここは異端審問が行われる教会本部だよ。お兄さん、何か悪いことでもしたの?」
「あなたに会いに来ました」
 少年は噴き出した。
「僕に? どうして? というか、どうして僕みたいな子どもに敬語なの?」
「あなたが誰か知っています」
 ノアの視線を受けて、少年は笑みを収めた。
「あなたは、〈ロストハーツ〉ですね」
 賢人イグノートスによって作られた〈ロストハーツ〉の第一人形。きょうだいたちの兄であり、父。それが、この目の前の少年だ。
「演技はもういいです。さっき、審議の間で幕の向こうから見ていたでしょう? 老人の声を出したのもあなただ。声を変える機械をつけてるんですよね」
「だとすれば、君は何をしに来たの?」
 ノアは手を差し伸べた。
「あなたを、助けに来ました。――リリエンタール」
 しばらく、沈黙が漂った。
「どうして分かった?」
 少年の口から発せられたその言葉は、先ほど聞いた老人のものだった。
「〈ロストハーツ〉の男性体は三人。リエルトは青年だから、残っているのはリリエンタールかリンです。聞いた話の印象だと、リンは小さな男の子みたいだった。それに、きょうだいたちを眠らせてなお、今も宗教都市の中枢部にいるとすれば、それはリリエンタールの可能性が高い」
「『どうして』というのは、僕の名でなく、何故〈ロストハーツ〉だと分かったかということだったんだが……」
 苦笑したリリエンタールは、ノアに長椅子を示した。
「座りなさい。さきほどの世界機構の話といい、君はどうやら、他のきょうだいのことを知っているようだ。どうか、聞かせてくれないか。君に何があったのか。誰と出会ったのかを」
 ――……ろ……ぉん……ん……。
〈音〉が聞こえる。寂しくて、悲しくて、おおらかで優しい、心の音が。
 ノアは頷き、椅子に座って話し始めた。
 大事な思い出。彼女のこと。仲間たちのこと。
 少年時代の、その宝石のような日々。
 ――次の百年を続けるために、自分がここにやってきたことを。


       *


「……だーから言ったでしょ、そんなに高い道具使ったら採算取れないって。どうして人の助言を無下にするかなあ。やる気あるの? ないんだったら別の店に行けばぁ?」
「しゃ、シャルル、そんなこと言わないでくれ。こっちだって悩んだんだよ……お前の言うことを無視したのは悪かったと思ってるよ……」
 大工の男は、情けない顔をして食い下がった。彼は近頃独立したばかりで、必要以上のものを購入するなというシャルルの助言を無視して、経歴に見合わない高額な工具、ほとんど使ったことのない最新の道具などを購入したところだったのだ。しかも、それが別の店で買ったというのが一番腹が立つところだった。
「損するのはぼくじゃないしねえ。……まあ、やる気あるんだったら、これだけでこの値段にしといてあげるけどさぁ」
 仕事に必要な木材や釘など、少しだけ値引きしておく。値段を下げていても、きちんと採算は取れるようにしてあるので問題ない。
 救われた、という顔をして帰っていくお客に、ひらひらと手を振って見送った。
「……シャルル、あんた相当悪い顔してるわよ」
「ちゃんと商売してるだけだもーん。儲けを出して、向こうも得する、それがいい商売ってもんでしょ。それに、お金貯まったら旅行いけるよ、新婚旅行。行きたいって言ってたじゃん、華樹都市の花祭りに」
 腕を組んでいたティナは赤くなった頬を押さえながら、深々とため息をついた。
「……だからといって、あんまり人の弱みにつけ込むようなことはやめてよね」
「傷心の弱みに付け込んだぼくに言う、それ?」

 ――十年前、あの時計祭の日のあと、やってきた調査官によってヴォーノは取り調べを受けた。
 エリックの告発文を元に調査が行われた結果、ヴォーノの商売の色々と後ろ暗いところが出てきたらしく、その噂が広まると、証言者が続々と立ち上がり、あの男は逮捕される前にこの街を逃げ出していった。
 そうやって聖皇都の介入を受けた機工都市は、聖皇都に関わりのある者を代表にすべし、という指示を受け、職人たち商工会としばらく揉めたものの、結局とある人物を領主に据えることで一応の決着を見た。
 そして、商工会から〈黒鎖〉の仲間たちは呼び出しを受けた。処罰を受けることを覚悟していたから、当然のものとしてそれに応じた。結局それは大きな処分とはならなかったけれど、みんなそれぞれに自分たちの受け入れ先から離れることを決めていたようだった。

 最初に出て行ったのはエリックだった。聖皇都に特待生として留学することが決まったのだ。
「帰ってくるかは分からんが、じゃあな」
「何年後かに帰ってくるでしょ。だって、バートンさんの特待生なんだから」
 シャルルがそう言うと、エリックは苦笑した。
 そう、新領主になったのは、あのクレス・バートンだったのだ。
 彼はどうやら聖皇都で貴族という立場の人間だったらしく、さらにえらい人だったらしいハーヴェイス神官の後押しと、彼の顔をまあまあ知っていた都市の住民たちがだいたい納得したことによって領主になった。クレスは子どもたちの識字率を上げるために色々と改革を行い、ある程度の年齢の優秀な少年少女たちを別の都市に留学させる企画を立ち上げた。
 その、最初の留学生として、エリックが選ばれたのだ。
 特待生の決まりとして、留学が終わったらこの街に帰ってきてなんらかの仕事を負わなければならない。エリックは、恐らくクレスの秘書のような仕事をすることになるだろう。クレスは相当エリックを可愛がっていた。
「色々見て、自分が何をしたいのか決めるつもりだ。その中にこの街で働くっていう選択肢があるだけで、何になるかは俺が決める」
 それじゃあな。
 そう言って、エリックは旅立っていった。

 次に出発したのはルースだ。華樹都市で製糸関係の修行をするつもりでいて、もう住むところや修業先などの算段をつけたのだと、出発前日に知らせてきたのだった。
「もう少し外のことを見てこなくちゃならないと思っていたんだ。この街とは違った伝手ができるだろうし、きっと世界が広がると思う」
 サリーアの工房は、ヴォーノの逃亡によって手放すには至らずに済んだ。周囲から借金をする余裕もでき、なんとか運営できるところまで戻すことができた。
 ルースが黙ってヴォーノのところへ行ったことを、サリーアは血相を変えて叱った。弟子に汚れ仕事をさせてよしとするほど落ちぶれちゃいないよ、と目を潤ませて。
『仲間を売る決心をさせるほど心配をかけてしまったんだね。すまない、ルース』
 嗚咽交じりのその言葉を、ルースは言い訳もせずうなだれて聞いていたという。
「もう少し勉強して、自分の作るものが、ちゃんと商売になるところまで持っていけたら、師匠のところに戻ってくるつもりだよ。師匠も、そうしてほしいって言ってくれているから」
 彼が詐欺にあった時、もっとも気落ちしたのはサリーアだった。気が弱いけれど丁寧な仕事をする細やかさと、少年らしい健やかさを持つルースの存在は、サリーアが工房を譲りたいと思うものだったのだろう。
 また、手紙を書くね。
 うじうじ泣くのかと思ったら、さっぱりとした、大人になったような顔で、ルースは旅立っていった。

 最後はノアだった。
 ノアは、アダム親方の知り合いの、聖皇都にある工房に修行に出ることになった。聖皇都には、時計をはじめとした精密機械の調整、製作を行うところがあり、ノアとしては自分に出来る仕事を増やすために行くつもりでいるのだと話していた。
「親方に言われちゃった。『見込みがあるから修行させるんだ。いつかラクエンを継いでもらうか暖簾分けするかを考えているから、ものになれ』って。……『お前がいないと寂しい』って、言ってくれたよ」
 前向きに見えて後ろ向き、本心から目を逸らしがち、空元気でそれでも一生懸命なノアは、祭りの日以来不穏な影が薄くなって、大人みたいに優しく笑うようになった。背もかなり伸びて、声もさらに低くなっていた。
「聖皇都でしばらく修行して、そのあとは宗教都市に行くつもりでいる。宗教都市には時計塔がたくさんあるから、巨大機構についても勉強したいと思ってるんだ」
 それが誰のためのものなのかは明白だった。
 ほんの数日だけいっしょに行動した彼女が話したという物語が、すべて本当だと思えるほど、シャルルは人間が出来ていない。ただ、そうやって語られたものを信じることによって、自分の進む道を決めることができるのなら、それでいいと思うのだ。大事なのは、おとぎ話かもしれないそれを後世に語り継ぐこと。それを必要とする誰かに手渡すための道をつけることなのだと思う。
「しばらく会えなくなるけれど、いつか帰ってくるよ」
 またね!
 明るく旅立っていったノアを見送って、この街に残ったのは、シャルルとティナだけになった。

「……あーあ! 失恋しちゃった」
 二人になった時、ティナは投げやりに言ってため息をついた。
「ぜんぜん眼中にないのは分かってたけど、やっぱりへこむ。何も言えなかった自分にも自己嫌悪。臆病で嫌になるわ……」
「仕方ないよねえ。ノアは運命の女に会ったわけなんだから」
「うん……」
 しばらくうじうじしていたティナだったが、よし、と自分を奮い立たせるように上を向いた。
「よし、がんばって新しい恋を探そう。男はノアだけじゃないし。というか、シャルルはそういうのないわけ? あんたがもてるのは知ってるけど、いつも袖にしてるわよね」
「そりゃあだって、僕も運命の女に会っちゃったからねえ」
「えっ!? だ、だれだれだれ!? どこの誰よ!?」
 眼中にないのはお互い様だ。だが、邪魔者もいなくなったし、仕掛けるなら今だった。それにいい加減腹が立っていた。そう、男はノアだけじゃないのだ。
「僕の目の前にいるけど?」
 ティナは沈黙し、「………………え………」と呟いて固まった。
「宣戦布告しとくね。年齢差とか身長差はあと数年もすれば気にならなくなるし、仕事に関しては大丈夫、将来の不安がないよう設計するから。他の女の子には目もくれないから浮気は絶対ありえない。ティナがうんって言うまで待つつもり」
「え、え、え……」
 シャルルはにっこりした。
「我慢強いのはもう分かってるよね? 長期戦上等! だから――逃がさないよ、覚悟してね」
 そして、なんだかんだで一緒になった。ティナはガルド夫妻の店を継ぎ、シャルルもその店を手伝いながら、商業都市や商人などとやり取りをして手広くやっている。人から人へ噂が広がり、外の人間が商売をする時にはだいたいシャルルを通してくるようになったから、仕事としてはまずまず成功していると言えるだろう。
 こうした土台をしっかり作っておけば、機工都市の製品は、ないがしろにされることなく外の街で扱ってもらえるようになるはずだ。時計も、布も、印刷も。機工都市のもの、と言われれば『信用できる』と言われるようになる。

「あっ、ティナせんせーだ! こんにちはぁ!」
「こんにちは、せんせぇ!」
 店の前を通って行った少女たちが、ティナに向かって手を振る。
「こんにちは。どこに行くの?」
「セレナさんとミリーさんのところ!」
「猫ちゃん見せてもらうの!」
「遅くなる前に帰るのよ」
 はあい、と素直だが、返事だけちゃんとしている、ということはよくあることだった。
 ティナは、この街の孤児院を時々手伝っている。掃除をしたり、洗濯をしたり、遊んだり。街に連れ出していろいろな工房を見学させたり。時間があるときにシャルルも手伝いに行くことがあるが、小さい子どもたちに、せんせい、せんせい、とまとわりつかれているティナは幸せそうだ。多分、ルリアを思い出すこともあるのだろう。
「ねえ、何か聞こえない?」
「え、なあに?」
 少女たちがそんなことを言って、きょろきょろしながら去っていく。
 そしてティナも、何かに気付いたように空を見上げた。その表情が柔らかく解けていく。
「帰ってきたみたいね」
 ああ、とシャルルも頷いた。
 視線の先には時計塔があった。数秒と経たずその鐘が鳴る。澄んだ音色が、街の隅々にまで響き渡っていく。

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