戻れぬはずの道を辿った。煙のにおいは再び濃くなり、未だ燃え立つ火が見えてきた。 火は更にもう一つ、エヴァリの家にも及んでいた。踏み荒らされ、壁掛けは引きちぎられ、天の主の像が壊されて、小さな家を炎は丸ごと呑み込む。それを見ればもう止められないと分かるはずなのに、エヴァリはそれでも村長を探して村を走り回った。彼らの為ではなく自分の為の行いだった。 村長と数人の村人は炎と煙を上げる教会の前にいて、エヴァリはルクスから離れてそちらに駆け寄った。 「村長――」 声を掛けたがすぐに数歩で立ち止まる。 振り返った村長たちには、明らかに狂気が身を潜める暗い影があった。 「……よくも私らの前に現れたものだな」 幽鬼のように冷たい気配を持って近付いてくる。言葉を聞こうともしない様子にエヴァリは泣きそうになって後退りながらただ恐怖から叫んだ。 「お願いです、聞いて下さい! 早く逃げて下さい。ここを魔物の大群が襲います! ここから逃げないとみんな殺されてしまう!」 エヴァリの言葉を聞いている内に、人々の顔が鬼のような形相になった。 「魔物を呼び寄せたのか!」 「お前がやったんだな!?」 「違います! 話を聞いて!」 「悪魔! 天使さえも堕落させた罪深い女!」 騒ぎを聞きつけた村人が集まってくる。男、女、老人。皆手に鍬や鎌や包丁を持っている。じりじりと近付いて、エヴァリを囲う。 「魔物が、魔物が! 天の主が、ここを生贄に――」 エヴァリは悲鳴のような声を上げて、人々を制止しようとした。 伸ばされる手。手。凶器。狂気。 逃げられなかった。身体が竦んだ。 これが罪。これが断罪。 永遠に許されない。誰にも。 目の前に自分を庇う背中が現れた時、歓喜よりも恐怖に震えた。これほどの強大な罪を生み出す感情を抱いている。エヴァリは、彼は、自身のそれを止められずにいた。 「ぎゃああああ!!」 腕を断たれた苦しみの絶叫が上がった。両腕が半ばで切り落とされた村長は蹌踉めいて倒れる。ルクスの刃は更に真っ直ぐに地面と垂直に突き立てられ、胸を貫いた。 「ぐうっ」 一度大きく痙攣して村長は事切れた。 深く深く、自らを乗せた剣を抜くと、血が噴き出す。聖衣にも片翼にも返り血を浴びた天使に、人々は息を呑んで後退った。 「来るな。誰も、来るな」 その声は追い詰められたように張り詰めて響いた。 エヴァリはルクスの胸に飛び込み、片腕で抱かれながら彼の返り血の飛んだ聖衣を握り締めた。 「犯すな。許すな。誰も――憐れむな」 暗闇の中で光る、二つの影。 崩れる音がする。赤と黒のにおいがする。 「うあ……」 村人は無意識に呻く。 「ああ……」 老人は炎を背負い立つ目の前の男女の禍々しい美しさに息を呑み、女はその光景の不吉さに手にした凶器の重みを思い出した。 これを許してはならない。これは悪だ。見逃してはならない感情を抱いた奴らだ。例えどれほど歪み、それ故美しくても、その愛は、悪でなければならないのだ。 そうして男は、手にした凶器を振りかぶった。 「うわあああああっ!!」 ・ ・ ・ ――私には何もなかったのです。父が誰か分からず、また本当に母の子であるかも曖昧でした。母は私をどこかから攫ってきたのかもしれない。そういう危うさが母にはありました。だとすればこの人は他人で私は誰とも繋がりがなく、それを悲しむ心もなくて、なんて空虚な存在なのだろうと思っていました。けれど母が私の首を絞めた時、空虚だったものに恐怖が生まれました。その時私は『私』を持っている事を知りました。けれどそれだけでは何も変わりません。自分を持っている事は当然なのだという事も理解しましたから。ただそのまま時間だけが流れたように思います。空虚である事、すなわち投影しやすい事を察して、人は私を道具として扱いましたし、悪魔として信仰の捌け口にしたりしました。明確なものが必要だったのでしょう。空虚は人々の心を蝕んでいました。何もない私と同じく。ここには何もなかったから。だからあなたが現れた時、村人は歓喜しました。はっきりと天の意志があるのだと思って。私は……私はあなたを私だけのものにしたいと思いました。ごめんなさい。でも本当にそう思ったのです。その時きっと罪は生まれ、私の形を明確にしたのです。私の中に新しい私が生まれ落ちました。それまで私には何もなかったのです。あなたがなかったのです。あなたに出会うまでは―― ・ ・ ・ ある地方を魔物の大群が襲い、住民を惨殺して食い荒らして回った。ある村は天使の気配が残っていたというので食われずに遺体が残っていたというが、それは魔物に襲われた傷ではなく刃物による傷が致命傷となっていたと噂は語り、真偽を明らかにせずに消えていった。 魔物の影で汚れた大地だったが、天の主が天使を遣わし、浄化の矢を放った。汚れた一帯を一度滅する天の力は、荒れ果てた大地を再生へと導く。時をかけて緑の地を導く天の祈りだと人は言った。 だが例えどれほど美しい緑が大地を覆っても、雨の恵みがあり、人々が豊かに暮らして全てが遠い忘却の彼方に運ばれても。失われた命は戻ってこず、流れた血は染みたまま。犯された罪は永遠に。 「ルクス」 「エヴァリ」 その事をよく知っている二人は、寄り添い合う事を義務とするように、最期までお互いを愛し続けた。 ――主よ、憐れみ給うな。 |