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 真島有希は、人生について考えた。どれだけ長く、どれだけ短いか。どんな色を持ち、どんな感触だったのか。考えれば考えるほど、人生とは水に溶けていく色硝子のような印象しか残らなかった。
 思い出そのものの本質は無色透明で、色がついてみえるのはその時の感情なのだろう。
 椅子に深く腰掛けて背もたれに身体を預け、電灯の白が眩しい様に、あの日々を思い出す。グラウンドの、砂の白が教室の天井に反射し、頭上を真っ白に染めていた午後の日。夏の名残の籠った空気を、開けた窓からの風が清めていく。薄く黄色がかった白い午後、いつかの日。髪の、まとめそこなった一房が、頬にさらさらと触れて、不愉快なようなくすぐったいように感じられる、そんな遠いあのときのこと。
 もっとよく見つめようとして、自然と目を閉じていた。やがて旋律が流れてきて、辺りは暗闇に包まれる。ビブラフォンの音色が奏でる『星に願いを』に身を委ね、もう一枚帳を下ろすように閉じたまぶたの闇に目を凝らすと、残光の赤色が見えてくる。
「赤い星は、罪の火なのよ……」
 暗闇の底から急に浮かび上がってきた声は、海の底から真珠を取り出したような柔い感動を有希に覚えさせた。
 あれは、永島茉祐子の声だ。
 茉祐子は、大事なことを言うときに、語尾をささやくようにそっとかすれさせる。声は低くなり、吐息のような音になる。世界の光点をじっと見つめるように言う姿を、有希がはっきりと思い出すことができた。
 まぶたの裏の赤い色は帯のように伸び、彼女たちのスカーフになる。

 わめき声のような嬌声が、狭い場所に響いた。水音。鏡に映った赤いスカーフのよれを直していた有希は、え? と傍らの友人たちを見遣った。水滴が白い跡を残すトイレの鏡の前に陣取った友人たちは、髪の乱れを直したり、ファンデーションを塗り直したりしている。そういう時にも、彼女たちは自分の角度を忘れない。自分が一番『好く』見える角度。
「だからぁ、できたの。カレシ」
 きゃあっとはしゃいだ声が反響する。
「まじで写真は!?」
「見せろ!」
 ふふんと得意げな顔で彼女はポケットに忍ばせていた、校則違反の携帯電話を広げてみせた。じゃらん、と重いストラップが鎖のように鳴る。友人たちに続いて有希もディスプレイを覗き込んだ。三人が顔を寄せ合いひとつのものに目を丸くする様は、まるでコメディだった。
 待ち受け画面に、私服姿の男性と友人が映っていた。自撮だろう、不自然に顔が近く、距離が近いために友人の歯ブラシのような睫毛がよく見えた。キメ顔の少女の隣で、カメラに向かっていきがっている男性の顎には黒いものが生えている――明らかに年上だ。
「大学生。合コンで知り合ったんだ」
「まじで!? すごい、すごーい! ワイルドー!」
「結構イケメンじゃん。付き合うきっかけは?」
「ええ? そんなこと聞くのぉ?」
「聞きたいじゃん! ね、有希!」
 彼女の得意満面と友人二人の勢いに、有希は呑まれ、三人の目を受けてあわてて頷いた。乗り切れないながらも「うん、聞きたい」と笑ってみせる。いけない、と自分を叱咤する。興味のあるふりを、しないと。
 人間関係において何よりも大事なことは、相手の話に興味があること、だ。誰だって聞いてもらいたい、肯定してもらいたい、自分のことを知ってほしいという欲求があって、特に子どもはそれが顕著だということを有希はもちろん、みんな知っている。意識しないだけで、そうしなければならないと気付いている。
 でも、本当は、他人の恋愛話になんて別に興味ない。自慢なんて嫌い。どうせすぐ別れるんでしょ――言えるわけがないので有希が笑っていたとき、凛とした声が割りこんだ。
「あなたたち、うるさい」
 三人は口をつぐんだ。誰よりも早く相手を見た有希は、友人たちが不満を隠した険しい顔をするのよりも、ずっと冷静で、しかし機嫌がよくない、うつくしい顔を見た。
「……永島茉祐子」
「それから、邪魔よ。手を洗いたいの、どいてくれない?」
 友人たちを押しのけて、彼女は手を洗い、セーラーのたもとに挟んであったハンカチを取って手を拭いた。有希たちと違い、手を洗うついでに髪をセットするなんて無精はしない。それが永島茉祐子だからだ。
 茉祐子は、鏡越しに有希を見た。ぎくりとした。茉祐子の切れ長の瞳は黒々としつやつやと輝いて有希を射すくめる。嘘をついていることを見透かして責めていた。
 ただ、その追求は「もう少しきちんと取り繕ったら?」という怒りのようだった。
 彼女は怒りを底に秘めた無表情で、口をあわあわさせる有希を見てから、曇りのないローファーをまるでハイヒールのように鳴らして、トイレを出て行った。
 途端、友人たちが一斉に口を開いて永島茉祐子の不満を叫んだ。
「なにあいつ! ちょっときれいだからって調子乗ってる!」
「あの言い方なんとかなんないの。つんけんし過ぎ。かっこいいとか思ってるわけ?」
「成績いいだけで先生に贔屓されててさ、ほんっと、あいつそこにいるだけで気分悪い」
 チャイムが鳴り、トイレを出てからも友人たちのおしゃべりは止まらない。教室に戻っても、彼女らは、窓際で教室はおろか世界のなにものにも無関心に頬杖をついている永島茉祐子を睨みつけ、自身の席の周りの女子に先ほどのことを吹聴することを忘れなかった。
 授業が始まって、有希はこっそり永島茉祐子を盗み見た。社会科の担当でもあるこのクラスの担任教師が、つらつらと世界史について述べ、板書をするだけなので、あまり授業に注意を払わずに済むのだ。
 永島茉祐子の席は窓際列の後ろから二番目にあり、有希との位置は有希から見て真横列の左側、教室の端と端に当たる。だから彼女を見るのは難しいのだが、席はまっすぐに整列されているわけでもないので、わずかな横顔を見ることができる。それだけで、彼女が非常に目鼻立ちのくっきりした美しい顔立ちをしていることが見て取れた。
 都会から少し離れた田舎にあるこの学校は、数年前に女子校から共学になったばかりの学校だった。元々が有名な女子進学校だったせいか、男子は受験を敬遠して、男子生徒数が伸び悩んでいる。このクラスにもようやく五人いる程度で、最初は遠巻きにしていた彼らも、二年生にもなれば女子の扱いにも慣れるし、女子も扱いに慣れる。無関心か、おもちゃなのだ。
 だから女子同士の密度は濃い。だが、もし、平凡で均一であろうとする群れの中で、どうしても隠せない特徴を持った個体が現れたらどうだろう。多かれ少なかれ、みんな秘密を持っているのに、何をしても隠せない特徴。
 それは、「うつくしさ」だ。
 永島茉祐子は誰にも隠せない美貌という個性を持ち、そしてそれを決して卑屈に扱うこともせず、平均な群れから飛び出した存在だった。
 教師の、呪文のような声が続いている。
 少し開けた窓から細く吹く風が、永島茉祐子の細い髪を高く持ち上げる。しかし、そんなことで彼女は動じたりはしない。髪を整えるまでもなく、彼女の髪は正しい位置に納まった。かすかに、感動する。
 彼女は昨年、すでに一年生の時から上級生に注目されていた。長く伸ばした人形のようなストレートの髪、日本人離れしすぎていない上品な美貌、あちこちが針金で作ったような強くしなやかな輝きを放っている。細い身体なのに運動もでき、成績優秀で先生の覚えもいい。
 しかし無愛想のオンパレードで、親しい友人はいないらしく、昼食の時間になるとどこかへ消える。
(あんなに美人なのに、性格に難ありなんだよね……)
 決して卑屈に映ることもなく、孤高な存在だと哀れみをもたれることもなく、彼女は尖った空気を持って、誰をも拒絶する。それが似合うからこそ、永島茉祐子だった。
 頬杖をつく姿に、生きづらそうだな、と有希は思った。
 文字も追わず、声に耳も傾けず、一体何を見て何を聞いているというのだろう。
(本当に、生きづらいんだろうな)
 彼女の両親はどうやら生活全般を彼女の自主性に任せているらしいということや、学校のだれそれと険悪だということを聞くたびに、有希は我が身と比べた。体育会系一家の長女で、うるさい弟がいて、大らかな父と口うるさい母がいて、仕方ないなあ有希はと言われてへらりと笑ってやり過ごす、全体がどこか緩い自分とは、違う。
 生きづらいだろうな、生きていくことを切り開いていくことは。でも、流されるのとは違って、まっすぐに歩もうとするのは、永島茉祐子によく似合う。その生き方が綺麗だと、思う。
「おーい、みんな起きろよー」
 多数の居眠りが発生していることに気付いた教師が苦笑まじりに声をかける。隣席の者が寝ている者を起こし始め、みんなの空気が少し緩んだ。
「五時間目だしなあ。よーし、眠気覚ましに席替えするか」
 ぼやけていた教室がわっと湧いた。教師は委員長と副委員長を呼び、すぐにくじを作成するように告げる。その間に目が悪いからなどの理由で前列を希望する者を尋ね、黒板に座席表の四角を割っていく。
 有希は窓際の後ろから二番目になった。つまり永島茉祐子の席だったところだ。これも何かの縁かなあとぼんやり考え、鞄を机に置き直し、ぎーぎーがたがたという音を有希も鳴らして席を移動してくると、後ろの席の机にぶつかった。
「あっ、ごめん!」
 言ってから息を呑んだ。
 永島茉祐子だった。
「……ごめん」
 思わずもう一度謝罪が口をついた。すると、永島茉祐子は変な顔をした。ぎゅうっと、眉間に力いっぱいの皺ができる。
「何が?」
 そうはっきりと聞かれるとぶつかったからという理由では怒られそうな気がして言い出せず、茉祐子がすっと席に着くのを見守っていた。茉祐子がぐっと顔を上げて睨むようにするので、有希はびくっとしてから、自分も席に着く。
 落ち着かない。実に、落ち着かない。永島茉祐子の黒い目が自分の背中に向けられる可能性があるなんて。宝石店に放り込まれたような気持ちになる。きらきら輝く宝石がよそよそしく、自分には、絶対似つかわしくない場所だというような。
 そろり、と有希が振り向くと、永島茉祐子は有希の動きに合わせて視線を向けた。不機嫌に「何か用」とでも言い出しそうだったので、慌てて言った。
「こ、これからよろしく!」
 手まで差し出してしまい、有希は焦った。
 これって絶対、手を打たれて拒絶されるパターンだ。
 しかし予想は外れた。永島茉祐子はこれは何だろうというしかめ面をしながら、有希の手を握ったのだ。
 冷たく、しっとりとした、柔らかい手だった。
「よろしく……」
 声の低いかすれた音に、有希はちょっとおなかの辺りがざわっとした。
 結局その席替えで授業が中途に終わり、そのまま終礼の時間になった。来月行われる校外学習のお知らせのプリントが配布され、保護者に見せるようにという指示がされる。有希は回ってきたプリントを一枚取ろうとし、取れないことに気付いて、それを永島茉祐子に回した。そして手を挙げた。
「先生、一枚足りませーん!」
「お? どこか余ってないかー?」
 担任が声をかけると、最も遠い列で手が振られた。それを取りにいって戻ってくると、視線を感じた。動きを止める。ぱっと永島茉祐子が顔を伏せた。なんだろう、と思っていたが、担任が連絡事項を伝え始めたので、すぐに忘れてしまった。

 永島茉祐子が後ろに席になると、自然と会話が増えた。と言っても、最初の三日間くらいは挨拶くらいだった。四日目になると彼女に対する不安が少しはなくなり、更にどうしても解けない数学の問題の出現よって、有希は思い切って後ろを振り返ったのだった。
「あの、永島さん」
 永島茉祐子は窓から目を離してこちらを見た。睨んでいるのは、日差しが眩しいからだと思うことにする。もう秋だというのに、今日はずいぶん太陽が強くて、グラウンドが白い。
「何?」
「あの……問十三、解けてる?」
「ええ」
「と、解き方、教えてくれない? これ最後なんだけど、意味が分かんなくて……」
 茉祐子は、また変な顔をした。綺麗なだけに、顔が歪むとはっきりと分かる。有希が機嫌を損ねたかと思ってどきどきしていると、「意味って?」と茉祐子が言った。
「何が分からないの?」
 その声が無感情ながらも静かだったので、有希はほっとして教科書と問題集を彼女の机に載せた。
「ここ。これってどういう意味? この公式じゃだめなの?」
「これは教科書のここを見ればいいわ。問題集の上の方に回答例があるでしょう、これを参考にして」
「どれ?」
 身体を回転させて椅子に横座りし、茉祐子の机に向き直る。顔を突き合わせたとき、ぎく、と、どき、の二つの音が混ざった心臓に、有希は仰け反った。
「何?」
「え、あ、いやその」
 茉祐子が不可思議そうに見る。完全無欠で潔癖な印象のある永島茉祐子に、髪の毛が絡む感触にぞわりとしました、とは答えられそうもない。
(そこまで頭近付けてるなんて、私、警戒心なさすぎ?)
 言い淀む有希は、茉祐子の機嫌がだんだんと落ちていくのが分かった。
「い、一回解いてみるね」
 急いで言って横座りの姿勢のまま自身の机に向かい、言われた通りに参考問題とにらみ合い、ノートに解答を書いてから、それを見せてみた。
「あってる?」
「ええ」
「やった! ありがとう、永島さん」
 このとき、有希は初めて屈託なく永島茉祐子に笑いかけた。
 最後の難問が終わると、教室を見る余裕が出た。問題集を解いておくようにと言って、数学教師は席を外している。しかし自習というわけではないので、生徒たちは席から離れず、だが近場の者たちと解答を照らし合わせて、教室はとても賑やかだ。
「永島さんの得意教科ってなに?」
「……え?」
 永島茉祐子は肘をついたまま固まっていたようだが、唐突な質問に素直な不意打ちの反応を見せた。
「あ、いや! 成績いいでしょ、何が一番得意なのかなって。それとも全部得意だったり?」
 不審な顔をされてしまって慌てて付け加える。永島茉祐子は頬杖をついて考えていた。
「そうね、得意なのは現代文かしら」
「苦手なのは?」
「化学。……というより、私、そんなに成績よくないわよ」
「うっそだあ」と有希は笑った。しかし茉祐子の顔は真剣そのものだった。
「本当よ。私、期末の化学で二十五点取ったことあるわ」
 目をむいた。二十五点。赤点で追試をさせられるのが二十二点なので、ほぼぎりぎりだ。成績表の五段階評価なら「2」しかない。内申点を加算しても「3」程度だろう。永島茉祐子の成績表に燦然と輝く「5」の数字の列挙を想像していただけに、その「2」という数字と永島茉祐子という人間のちぐはぐさに、有希は思わず噴き出した。
「でも化学だけ、じゃない?」
「……否定はしないわ」
 有希は「さすが!」と手を叩いて笑った。その汚点とも言える「2」という数字と茉祐子を結びつけると愛嬌を感じてしまう。完璧な氷像の指が、実は六本あるようなくすっとする可愛らしさだったが、当の本人はやはりむっとしていた。
「完璧だとでも思ったの?」
「うん、まあ……ね」
「そんな人間、この世にいてたまるものですか。いたら化け物よ」
「うん」と言いながら、有希はこっそり白状した。
 実は、あなたのことをその化け物だと思っていたんだよ。
 しかし目を伏せうんざりとため息をつき、頬杖とは逆の手でシャープペンを回す永島茉祐子は、どう見ても有希と同じ十七歳の女子高生のようだった。

 秋のグラウンドは、気持ちいい。適度に冷たい風と、暖かい日差し、土も柔らかく湿って、踏みしめていく感触が心地よい。夏場ほど日差しがきつく、乾いた砂ではないので、白線を引いても見えにくくない。ラインのぎりぎりに添って、有希はトラックを駆ける。決められた百メートル間の緊張が、その距離を突破した瞬間、開放感に変わる。
 別に速く走ることに興味はなかった。タイムが縮まるのは嬉しいが、走る、という行為が有希にとって意味があった。わけもなく叫び出したいのと同じように、有希はわけもなく走りたかった。そのおかげで、中学時代から続けてきた陸上部の活動では、大会に出るくらいの力をつけたが、有希自身はきっとそれ以上にはならないだろうな、と思っていた。
 多分、私がいま全力を注いでいることは、すぐにただの思い出や記録になって、何の役にも立たないんだろう。
 それでも、走るしかなかったのだ。
 他には、何もなかったから。
 体育会系の部活動は、下校のチャイムが鳴っても続けられることが多い。片付けを含めるとあっという間に七時を回っている。この学校で唯一同じように遅くまで活動している文化部、吹奏楽部員と下校が一緒になることもあった。
 有希は部活終了後に部長とともに顧問に呼ばれた。遅くなるといけないから友人たちに先に帰るように言って、顧問と部長と大会の打ち合わせをする。二年生でそろそろ引き継ぎをせねばならない時機で、有希は次期部長にほぼ決まっていた。
 そのジャンルで最もできる人がリーダーだ、という空気が、有希は苦手だ。リーダーとなるべき素質、例えば統率力は観察力といったものを無視する場合が多いからだ。何かひとつに「本当に」才能を持っている人間は、他の能力も持っている場合が多いが、有希は自分がそうでないという自覚がある。それでも、では誰が部長になるだと問われれば、別の人間をさすことは責任転嫁と言われそうでできない。有希は承諾するしかないのだ。
 話し合いを終えると、顧問に二人で帰るようにと厳命され、自転車通学の部長が自転車を取りにいくために一度別れてから、有希は一足先に校門に向かった。暗く冷えた廊下を歩いていると、食堂の明かりが見え、ごとん、と自販機の音がした。
 何気なく覗くと、永島茉祐子だった。
「永島さん」
 茉祐子はびくりとして、持っていた紅茶の缶を下ろした。
「まだ残ってたの?」
「……あなたこそ。ああ、あなた陸上部だったわね。遅くまでご苦労様」
 教師みたいな労いの言葉をかけられてどきどきしてしまう。
「永島さんは?」
「居残って自習よ」
「化学?」
「……そうよ」
 さすが永島茉祐子だった。嫌な顔をするので軽く噴き出した。完璧なんていてたまるかと言ったのに、茉祐子が目指すのは苦手の克服らしかった。
「部活、入ってなかったっけ」
 ふん、と茉祐子は鼻で笑った。有希の考えたことが大体分かったらしい。『永島茉祐子は集団行動しない』なんて失礼なことを思ったのだが、彼女なら引く手あまただろうと有希は思っている。実際、陸上部の前部長はぜひ入部させたいと言っていたのだ。
「今からでも、何か入ればいいのに。うちにおいでよ」
「お断りするわ。私、勉強くらいしか取り柄がないから」
 そんな言い方をされると、走ることしか取り柄がない、その取り柄も本当の才能ではない有希は、泣きたくなってしまう。それを隠すためにへらっと笑った。
「もう遅いよ。途中まで送るから一緒に帰ろう。陸部の部長も一緒だけどいいかな」
 茉祐子は、よく見せるあの変な表情をした。有希が首を傾げると、きゅっと凝縮するような不機嫌な表情になったが、「鞄、取ってくるわ。先に門に行ってて」と告げて早足で行ってしまう。
 校門に行くと、まだ部長は来ていなかった。先に茉祐子が来て、有希は少し待ってほしいと告げた。
 手持ち無沙汰だったので空を見上げると、星が輝き始めていた。
「星が綺麗だね」
 思ったままを考えなしに口にすると、茉祐子も同じように空を見上げた。
 薄く伸ばしたような透明な朱色が、藍色へと淡いグラデーションを描いている。建物の影は黒くなり、わずかに残る赤が鮮烈に映る。頭上に近いところでは星がちかちかしていた。
「あれって北極星?」
「……さあ」
「分からないの?」
 茉祐子はうんざりした顔をする。
「私が何でも知っていると思ったら大間違いよ。それに私、化学を筆頭に理科には弱いの」
「そっかあ。私もオリオン座くらいしか分からないな。砂時計の形の」
「砂時計じゃないわよ、オリオンって」
「え!? そうなの!?」
 そうよ、と茉祐子は空に指を伸ばしてみせる。
「砂時計の上二つ、それぞれの先に繋がる星があるのよ。数も形も覚えてないけど。それが横を向いて腕を上げた人の形に見える。だからあれは人の形」
 へえと感嘆する。
「理科、得意なんじゃない」
「これは理科じゃないわ。星座にまつわる神話の本で読んだから、だから現代文よ」
「現代文って。『銀河鉄道の夜』じゃないんだし理科だって。左端の星、赤いね。年寄りなんだ」
「ああ、それなら分かるわ。赤い星はね……」
 茉祐子は地上に目を落とし、呟いた。
「赤い星は、罪の火なのよ……」
「ごめん! お待たせ」
 有希が何か言う前に、部長が軽い足取りで駆けてきた。
 吹奏楽部員と鉢合わせして愚痴を聞いてしまったのだという。有希は連れができたことを告げ、茉祐子は部長に「すみません。ご一緒させてください」と礼儀正しく会釈した。部長はいいよーと軽く言った。
 自然と、有希と部長が前に並んで歩くことになる。有希は時々茉祐子を気にした。部長も視線に気付いて、茉祐子に話を振り、肯定を求めたりする。いつものつんけんした態度ではなく、大人しく茉祐子は頷いていた。
 罪の火って、どういう意味。
 とは、聞けなかった。
「じゃあ、私はここで」
 茉祐子が途中で足を止める。
「うん、また明日」
「さよなら」
「さようなら」
 茉祐子が毅然と歩いていくのを見送ってから、部長と二人で歩く。日が短くなった、寒い、新しいジャージを買わなくちゃという話をしていたが、ふと話題が途切れた。すると、その隙を待っていたかのように部長が「ねえ」と言った。
「さっきの、永島茉祐子さんだよね?」
 その声のひそめ方に、いい話ではないなと分かった。
「そうです」
「ふうん……思ってた子と違ったな。普通だった」
 ふつう、の言い方に苛立つ。茉祐子は普通だ。まったく普通なのに。
「普通ですよ。何か変な噂でも聞いたんですか?」
 めずらしく険のある有希の声に、ん、と部長は自身の言葉に反省したらしい、少し詰まってから、ゆっくりと話し出した。
「……彼女、中学のとき、年上の子と付き合ってたって知ってる?」
「初めて聞きます」
「そっか。それじゃあ、その子がうちの学校の子で、女の子で、自殺したってことも知らないよね?」
 びっくりする。口がきけなくなる。
「永島さんが直接の自殺の理由じゃなかったとは思うんだけど、でもまあ、相手は自分が永島さんと付き合ってることを友達に話したらしいのね。そうしたら、友達がおもしろおかしく広めちゃって、いじめに、っていう」
 ショックだろうね、友達に気持ち悪がられるのって。部長の声は静かだった。陸上部を引っ張っている上級生も、有希たちと同じように傷ついたことがあるのだと気付かせられる響きだった。
「ごめんね。友達なのに。本人から聞きたかったよね」
 有希は心の中でゆっくり頷いた。
「あなたたちの学年では噂にならなかったんだね。相手が私と同じ学年だったからかな。私が一年の時だったから、彼女は中三か」
 中学三年生の永島茉祐子。
 大人びた外見に似合わない中学の制服を着て、同級生の中では一線を画しながらも、彼女と友人だと告げることが自慢になるような子として、いつもみんなに囲まれていただろう。
 きっと、虚しい気持ちになったこともあるだろう。
 その中で、本当に自分を理解してくれる人が現れた。
 それがどれほどの奇跡のように思えるのか、有希は知らない。
「蒸し返すとまだ後ろめたい人たちがたくさんいるんだよ。あのときはクラスも学年も問わず、みんな彼女を無視してたから。だから、みんな、黙ってるんだね。私も、言いたくは、なかったんだけど」
 だが部長の言葉は、穏やかながらも止まらないようだった。言わずにはいられなかったのだろう。一学年上だと知っていたはずの茉祐子は、この学校にいる三年生が、自分の大事な人の死に加担したことを知っているはずだ。
 茉祐子は責めたかったかもしれない。気付くことのできなかった自分に、有希の胸は痛んだ。責任なんてないかもしれないけれど、気付かずに傷を与えてしまうことが怖かった。
「どういう、人だったんですか」
 相手の、と言いはしたものの、好奇心にある浮ついた気持ちはなかった。聞かなければいけない、秘密にしなければいけないという重みが、声に低さをもたらす。
「……綺麗な人だったよ。友達はいなかったみたい。でも永島さんと付き合うようになってから明るくなって、友達が出来たみたいなんだけど、その人たちが」
 ひどい裏切りだ。有希は見たこともない人たちに対して怒りを覚えた。彼女たちは知らない、どんなに友人を作るのが難しいか、それを維持するのが難しいかを。あって当然の存在が、ある種の人間にはどんなに煩わしく、なのに必要で、大嫌いなのに愛おしいのか。
 そうだ、結局、有希だって、例えどんなに興味がなくとも、傷つけられても、友人は必要なのだ。話に興味を持って聞いてくれ、笑い合い、一人ではないと教えてくれる存在が。
 傷つきたくないのに一人ではいられない、それが私たちの不条理なのだ。
(だから、一人なのかな)
 話を聞いて、理解して、同意して、否定しないで。そういう人間関係を、茉祐子だって持っていたはずだ。
 なのに自分を知ってほしい、聞いてほしい、理解してほしいと願った先が、己を傷つけ、孤立させ、死を選ぶほどに辛い出来事になったから、茉祐子は一人なのだろう。自分を理解しない人など友人ではないと、彼女はそれまでの人間関係に否定を叩き付けたのだ。
 その強さを、生きづらさを、綺麗だと思ってしまう。
 なのに、痛かった。罪の火だといった赤い星のような、ひりりとした痛みだった。
「赤い星……」
「え?」と部長は有希の無意識の呟きを聞き、ああ、と声を落とした。
「そういえば、あなたたちの校外学習、プラネタリウムなんだよね。私たちも一年のとき行ったよ……彼女、大事な人と来るんだって言ってたみたい」
 分かれ道に来た。部長は、申し訳なさそうにしながら、有希と別れた。

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