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 結婚――それは多くの人にとって当然のように人生に組み込まれている行事。
 シンズ男爵家の一人娘として生を受けたミレリアのように、貴族に生まれた男女は、幼い頃から刷り込みのようにして「年頃になったら結婚する」ことを知っていたように思う。
 親が決めたという相手か、父母が言うように「いまはそんな時代じゃないから好きな人と」なのか、ミレリアにはわからなかったけれど、とにかく結婚とは、礼法やダンスを学ぶように、あるいは誕生日がやってくるように、いつしか訪れる出来事なのだと思っていた。
 たとえ、ミレリアが美味しいお菓子に目がなく、綺麗な衣服よりは好奇心のままに虫を追い、厳しい躾に逃げ出すような落ちこぼれであってもだ。
「み、ミレリア!? あなたいったい何してるの!」
「ふごっ?」
 青ざめた母の声に、口いっぱいに焼き菓子を押し込んでいたミレリアは振り向いた。
 口の周りからぼろぼろと食べ屑が落ちる。
 娘のあまりの食い意地の汚さに母は身体をふらふらとさせ、慌てたメイドたちに支えられた。
「ああ神様、なんということでしょう。娘がこんな、こんな……!」
「奥様! お気を確かに!」
 ミレリアは父の部屋に引き立てられていき、一通りお説教を受けた。
 その間にも目をうるうるとさせていた母だったが、ミレリアがまだもぐもぐと口を動かしているのを見て、最後にまた泣き崩れた。
「私の育て方が悪いのはわかっているけれど。ああでも、姫君のようにとは言わないけれど、せめて普通の娘であったら……!」
 何を嘆いているのだろう、とミレリアは首を傾げた。
 だが漠然と、自分の存在は喜ばれていないのだということをその頃には気付いていたと思う。ミレリアの振る舞いに、母がこうして泣き、父が天を仰ぐ光景は日常茶飯事だったからだ。
(お母様とお父様は、お姫様が欲しかったのね)
 でも残念なことにミレリアはお姫様ではないのだ。お隣の王子様ことアルフォンスならともかく。


 だが八歳のある日転機が訪れた。
 伯母と従姉妹たちがミレリアのシンズ男爵家に遊びに来た。婚家が郊外にある伯母は、都会の空気を恋しがってよく実家である男爵邸に娘を連れてやってきては、買い物をしたり友人に会ったりしている。
 母と伯母は早々に世間話に熱中して娘たちを乳母に見守らせたまま好きなようにさせていたので、従姉妹たちの世話はミレリアがしなければならなかった。
 従姉妹はミレリアより三つ上の姉と一つ上の妹で、一人っ子のミレリアとは違って姉妹という組み合わせだからか、何をするにしても二倍の威力だった。たとえば。
「ねえこのリボン可愛いわ、私にちょうだい」
「姉様だけずるいわ! 私にもちょうだい!」
 といった具合に、姉の行動を妹が真似るので口を開けば同じような台詞を聞かされたし、何かしてやるときには平等性の面で同じことを二度してやらなければならなかった。そして腹立たしいことにそれを見ていると母と伯母(弟嫁と小姑の関係である)は決まって笑いながら言うのだ。
「ミレリア。そのリボンは最近着けていなかったから、あげてもいいわよね?」
「あらそうなの? よかったわねえ、あなたたち」
「嫌だ!」とか「これはすごく好きだから大切にしまっていただけ」などと言えるわけがなかった。口答えをすれば「なんて思いやりのない子なの」と言われるのは経験済みだったからだ。ミレリアはむっつりとリボンやブローチや人形を差し出すしかなかった。
 そのようにして従姉妹たちは年上ゆえの頭の良さでミレリアを搾取していたが、いいこともあった。ミレリアが立ち入らせてもらえない「大人の世界」について知っていたからだ。
 高貴な人々が参加する王城の園遊会。
 夜に催されるきらびやかな舞踏会。音楽会。
 苛烈で華やかな歌劇。
 サンドイッチやスコーンをたくさん詰めたバスケットを手にしたピクニック。
 流行りのドレス、靴、髪型について。
 ミレリアがぼんやりと夢見ていた世界の話と、そして素敵な男性の噂は、耳年増な彼女たちからもたらされるものだった。
「ねえ、ミレリア。あなたは何歳で結婚したい?」
 結婚する年齢なんてものに思いを馳せたことのなかったミレリアは驚いた。
「ええと……十八……」
「えええぇ十八っ!? だめよ、それじゃ。もう年増じゃない!」
 従姉は大げさに目を見開いた。
「私は十六がいいわ。だって一番若くて可愛いときに花嫁衣装を着ることができるんだもの! それに結婚は早ければ早い方がいいのよ。若いから体力があるし、子どもはたくさん産めるし、若いお母様って素敵でしょ?」
 うっとりと語る従姉に妹が「じゃあ私は十五!」などと叫んでいたが、ミレリアはひどく感心した。

 一番若くて可愛いときに花嫁になる――。
 それはたとえば、物語に登場するお姫様のようになるということ。
 ミレリアがそうなったらきっとみんな喜ぶに違いない。普通の子がよかったと母が泣くことはなくなるだろう。

 ぺちゃくちゃと理想の旦那様像を語り尽くした従姉妹たちが伯母に連れられて帰っていった後、ミレリアは庭越しに隣家に呼びかけた。
「アル! アルフォンス! ねえいまから行っていい!?」
 シンズ男爵家の庭の向こうは、イレジレット伯爵家のお屋敷だ。先代の頃に先方が引っ越してきて以来の付き合いで両家はずっと仲がいい。
 そこにはミレリアが赤ん坊の頃から親しくしている幼馴染が住んでいる。
 しばらくして建物の窓が開き、線の細い黒髪の少年が顔を出す。
「ミレリア、どうしたの?」
 太陽の光がちかりと目を射り、ミレリアは目を細めて顔をしかめた。
 さらさらの黒髪。大きな黒い瞳。少女のような愛らしい顔立ちだけれど、将来ぐんぐんと伸びそうな長い手足を持つ幼馴染は、今日もきっちりと清潔な格好をしていて、窓から下を覗き込む姿はまるで王子様だ。
「十秒でそっちに行くから準備して!」
「え、あ、うん、わかった」
 答えを聞いているのかいないのかという素早さでミレリアは家を飛び出して隣家に駆け込み、降りてきた幼馴染が部屋に案内してくれるのもそこそこに、自らに訪れた衝撃と発見について語りつくした。
 いつものことなのでふんふんと聞いていたアルフォンスは、ミレリアがお茶とお菓子で消費した体力を取り戻すのを見ながら、口を開く。
「ミレリアの人生設計についてはわかったけど、どうするつもり?」
「恋愛する!」
 勢いよく言ったミレリアにアルフォンスが仰け反った。
「恋愛するわ! そして私を愛してくれる人と結婚する! 十六歳に!」
 その十六歳が目前となった頃には、あまりにも無謀で無茶すぎる夢だったと頭を抱えたくなるし、ミレリアが影響された従姉妹たちの言い分がこまっしゃくれた思い込みと無知の産物なのだと理解するのだけれど、とにかくこのときはそう思い、ミレリアはそのように行動することになった。
「……そう。上手くいくといいけどね」
 ただ一人、呆れたような励ましをくれたアルフォンスだけが現実を見ていた。

 さて、恋愛すると決めたものの、何から始めるべきか。
「まず好きな人を作らなくっちゃね」
 そう考えたミレリアは相手を物色し、家に仕えてくれている従僕のオーレンにしようと決めた。
 彼は十五も年上だが、メイド頭のように大きな声で叱ったりしないし、ミレリアにこっそりお菓子をくれることがあったからだ。優しい旦那様は素晴らしいという従姉の主張に納得しての選択である。
 さて、好きになってみたものの、どうすればいいかわからない。
「次は、オーレンに私を好きになってもらわなくちゃいけないんだけど……」
 しばらく考えて、やはり贈り物が効果的だろうと思った。
 夕食のデザートだったプディングをこっそり隠して部屋に持ち去り、頃合いを見計らってオーレンに持っていった。階下でメイドたちと話していた彼はミレリアが姿を現したことに驚いたが、いつものように身を屈めて視線を合わせてくれる。
「どうしましたか、ミレリア様?」
「オーレンにこれをあげようと思って」
 夕食に出たプディングを満面の笑みで差し出すと、彼はちょっと困ったような微笑みで受け取ってくれた。
「ありがとうございます。でもミレリア様、夕食はきちんと召し上がらないと」
「ねえ、これで私のことを好きになってくれたわよね? 両思いになったから、恋人同士になったのよね!?」
 オーレンも、こちらのやりとりを見守っていたメイドたちも、ぽかーんとしていた。ミレリアだけが頬を染めてきらきらと目を輝かせている。
「ええと……ミレリア様……」
「あのねオーレン、私、十六歳で結婚したいの! だから後八年待ってくれる? 私、とびきりの美人になって、あなたの世界一可愛いお嫁さんになるわ!」
「いったいどういうことですか? オーレン」
 そこへ割って入ったのはメイド頭だった。
 振り向いたオーレンは真っ青になって首を振る。
「ち、違います! 私は……!」
「話を聞かせてもらいます。部屋に来なさい」
 有無を言わせず連行されるオーレンにメイドたちは天を仰ぐ中、ミレリアは覚えたての投げキスを送ったが、数時間後、ミレリアもまた父母に呼び出された。
 そしてこんな悪戯はしてはいけないと懇々と諭されてしまった。
「悪戯じゃないもん。本気だもん」
「馬鹿をおっしゃい。八歳の子どもが」
 ばっさり切り捨てられてしまったミレリアはぷくーっと膨れて、その後は寝るまでだんまりを貫いた。
 そして次の日の朝早く、庭から呼びかける段階をすっ飛ばして隣家を訪ね、出てきた伯爵家の家宰にアルフォンスに会いたい旨を告げた。彼はすぐに降りてきてくれた。
 ひどいわ私は本気だったのに。オーレンと恋人になって十六歳で結婚しようと思っていたのにお父様とお母様が邪魔をしたせいで、彼は全然近付いてこなくなってしまって――とミレリアは顔を真っ赤にしながら焼き菓子を頬張り、アルフォンスに訴えた。
 お腹がいっぱいになって、ふーっと一息ついたとき、アルフォンスが言った。
「ミレリアに足りないのは知識と想像力だね」
「何よそれ。馬鹿にしてるの?」
 妙に大人びた言い方だったのでミレリアはむっとしたが、笑ったアルフォンスはその手を引き、書斎へと導いた。
 みっしりと本が詰まった部屋は、古い本と、ほんの少し葉巻の香りがする。
 自宅の書斎になど寄り付かないミレリアだったが、アルフォンスはどこに何の本があるかすっかり記憶しているらしい。周囲を見回しながら本棚から抜き出した数冊をミレリアの前に積み上げた。
「これ、何?」
「知識や想像力を養うためには本を読むといいんだよ。この本ならミレリアもすぐ読めると思う」
 ほら、と差し出された本には、透き通った羽を持った美しい妖精の姿が描かれていて、ミレリアはわあっと声をあげた。
「素敵! 妖精ね。何の本なの?」
「妖精の王女と人間の王子の恋のお話だよ。ミレリアはきっと好きだと思うな」
 にこにこと言うアルフォンスだったが、途端にミレリアはむくれた。アルフォンスは何もかもお見通しなのではないかと思ってしまったせいだ。
「……何でも知ってるみたいな顔しないでよ。アルのくせに」
 彼は「元々こんな顔だよ」とくすくす笑っていた。

 アルフォンスが貸してくれた本は、悔しいことにどれも面白かった。
 挿絵を見せてくれた妖精の王女と人間の王子の恋物語には涙を落としたし、塔に閉じ込められたお姫様が騎士に救い出される物語は魔法使いとの戦いの場面で手に汗握り、ようやく二人が抱擁した瞬間には歓声を上げてしまった。
 書物に耽溺していたミレリアは、最後の一冊を読み終えてふっと我に返り、唸った。
「なるほど……」
 本に登場する男女は、みんな相手を思うとき「胸が痛い」「切ない」「苦しい」「涙が流れる」などの症状が現れ、その人を前にすると「天にも昇る」ような気持ちになったり「この瞬間が永遠に続けばいいのに」と思ったりするものらしい。
 そこから当てはめると、ミレリアはオーレンに対してそのような状態になったことはないので、どうやら恋とは、しようと思ってできるものではないらしかった。
 本を返却しに行ったミレリアは、読書の末に考えた事柄についてアルフォンスに語り、一つの結論を導き出した。
「つまり、恋は免疫反応(アレルギー)なのよ」
 重々しく告げたそれは、アルフォンスを驚かせたようだ。一矢報いたことにミレリアは満足して胸を反らす。
「……ええと、どうしてそう思ったか聞いていい?」
「特定の存在に対して胸が痛くなったり苦しくなったりするんでしょう? その対象が無作為に選ばれるんなら、それは免疫反応と同じじゃない?」
 動物が接近すると激しいくしゃみを繰り返す伯母のことを思い浮かべて、我ながら説得力のある説明だとにんまりした。これにはアルフォンスも知ったような口はきけまい。その勢いのままミレリアは語る。
「だから恋をするためにはたくさんの人に会って、お話ししたり、触ったりして、症状が出るか確かめればいいのよ。少しでもそれらしい症状が現れれば、もっとお話ししてさらに変化が出るか確認していけばいい。そうすればきっとすぐに結婚相手に巡り合えるわ!」
「…………」
 アルフォンスは黙っていた。ぐうの音も出ないほど論理的な説だったようだ。
 ミレリアはいそいそとお菓子に手を伸ばし、焼き菓子を頬張った。卵とバターの濃厚な味わいの小さなケーキは幸せそのものの味がする。シンズ男爵家の料理人が作るお菓子も美味しいけれど、イレジレット伯爵家で食べるおやつもミレリアの好物だ。
「どんな人に症状が現れるか確かめないといけないわね。でもこのままだとこの町中の男性と会わなくちゃいけないわ。どうすれば絞り込んでいけるかしら?」
 そうは言うものの、ミレリアはさほど困ってはいなかった。なにせ時間はたっぷりある。出会いの機会はこれからたくさんあるはずだ。
 そんなとき、水を差すようなアルフォンスの一言。
「でも、ミレリアが症状を覚えたとしても、相手もそうだとは限らないよね」
 ミレリアは顔をしかめた。
「どういうこと? 私の説に文句をつける気?」
「文句じゃないけど、男性側もミレリアに対して症状を覚えないといけないなって思ったんだ。ミレリアだけ症状を覚えたらそれは片想いでしかない。相手が恋じゃないと思ったら、ミレリアがどんなに思っても結婚はできないよ。両思いにならなくちゃ」
「むむ……」
 また新たな課題が浮上してしまったが、ミレリアは己が頭脳をもって素早く思考を巡らせる。
「だったら、免疫反応を起こす要因が私にあればいいのね? ええと……」
 アルフォンスに借りた本に登場していた女性たちを思い起こす。
「登場人物はだいたい姫君だったけど……お姫様にはなれないわ、男爵令嬢だもの。後は……美しかったり、歌や楽器が上手だとか、翼が生えたようにダンスするって書かれてあったわ。あとそうね、思いやり! 慈悲深いって描写されていたわね。じゃあ私はそんな女性になればいいってことだわ!」
 ミレリアは立ち上がった。
「ありがとう、アル。私のすべきことがわかったわ」
「……その感謝の言葉、素直に受け取りたくないなあ……」
「あなたが受け取らなくても、私は好きなように感謝するから、好きなときに受け取りなさい」
 それじゃあね、とイレジレット伯爵家を後にして、見送りに出てきてくれた家宰にお礼を言い、自宅に戻る。そうして父母の部屋に向かい、朝のお茶を飲んでいる二人に言った。
「おはようございます、お父様、お母様。起きたばかりで悪いけどお願いがあるの」
「んん、いったいどうしたんだ?」
 ミレリアは笑顔で告げる。
「私が理想の女性になるために、力を貸してくださいな!」
 両親はカップを手にしたまま、謎めいたことを言い始めた娘を凝視していた。


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