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 華やかに広がるのはそれこそ無限大の夢のような白いレースで、幾重にも重なって、白色のグラデーションを描いていた。白という一色でも、虹のような色彩を描けることに可南子は驚いた。でもそれはもしかしたら、新郎新婦の放つ幸福のオーラと、自分が花嫁である友人を大切に思っているという温かさが添えた色彩なのかもしれない。それでも結局は、そのドレスが高価でとても花嫁に似合っているというだけなのかもしれないけれど。
 ホテルで行われた披露宴が終わり、花嫁はウェディングドレスからこざっぱりしたラフな服装で友人たちだけの二次会に現れた。白いブラウスに藍色のタイトスカート。けれど左の指に光っているのは当然ながら花嫁の証で、彼女は可南子たち友人一同にそれはそれは誇らしげに見せびらかした。
「これいくらぐらいしたの?」
「やだー、聞くのそれー」
「えーと、給料三ヶ月分?」
「うわ古風! っていうかよく結婚したよねえ、二人とも」
「だよねえ。高校のとき、箒持って追いかけ回したたわよね、彼のこと」
「大学では角材だったわよ」
「あー文化祭かーなつかしー」
 高校から親しく付き合ってきた新郎新婦含めた友人グループは、男女合わせて十名。一緒の大学に進んだのは五名。可南子もその一人だ。地元の私立大。遊んでばかりで、ろくに本を読みもしなかった。一人はサークル活動で飛び回り落ち着かず、新郎新婦は喧嘩ばかりしていた。
「あーあたしも結婚したーい!」
「彼氏できたって聞いたよ?」
「同棲から始めたら? すぐに結婚して別れるなんてもったいないから」
「清子ちゃんは最近どう?」
 話を向けた友人につられ、可南子は先程から一人でにこにこしていた友人を見やった。ふくふくとした身体に、顎を引くとほんのすこし二重あごになる。大学時代に読みすぎた本のせいで視力が落ち、太い黒縁の眼鏡をかけていた。清子は、軽く肩をすくめた。
「わたし、彼氏いらない。面倒だし。それに――わたしは小説と結婚するから」
 友人一同はどっと沸いた。可南子は、自分の眉間に皺が寄るのを自覚する。答えが分かっていて話を振る友人もデリカシーがないが、清子もその答えはどうか。
「清子ちゃんらしい」と花嫁は微笑んで、「でもやっぱりリアルもいいよ」と笑った。

 清子が男慣れしていないのは、もう見た目からしてそうだった。染めたことのない黒髪は、面倒なのかブローすらしていない日がままあったし、大学に入ってもろくに化粧もしなかった。友人以外の男子とはなかなか喋ることもなく、喋りかけられても短く返事をして後は笑っているだけだった。だから彼女の立ち位置は「勉強ができるけれど地味」で、それを嘲笑っている人間も一部にはいた。高校では軽くいじめのようなものもあったらしい。……らしい、というのは、可南子が清子と付き合うようになったのは高校二年からで、一年の彼女の話は聞いたことすらなかったから、地味具合がうかがえた。

 二次会が三次会になり、三次会が四次会になっていき、新郎新婦はとっくに去り、けれどずるずる呑むメンバーの中に清子もいた。彼女は、基本的には断らない。積極的に参加もしないが、誰か大勢の中にいてそれを見ているのを好む子だった。後をついて回るようだけれど、適度に主張する子だったので、グループに弾かれずに済んでいた。
「清子ちゃん、さっきの答えだけど」
「ん、さっき?」
 清子の答えはしっかりしていた。彼女は下戸だ。呑めても一杯だけ。ただ食べている。
「小説と――っていう」
 ああ、んふふ、と清子はにやにやする。清子の笑い方は、どこか失敗したような声と顔になる。
「ああいうの、やめないと。キモイよ」
「うん、知ってる。でも、正直な気持ちだよ」
「……まだ書いてるの」
 うん、と清子は笑った。
「まだ、書いてる。でも、芽が出ない。今日も朝から書いてきた。十月の締切、間に合うか分かんないよー。深夜にね、ふと我に返るとね、死にそうになるよ。わたし、多分このまま生きてくんだよ。小説に、創作にしがみついて、みっともない、みすぼらしい大人になるんだ」
「もう大人じゃない。二十五じゃん」
 そうだね、と言ったけれど、清子は笑わなかった。
「だから、もうたぶん、わたしは、小説の神様に人生を捧げちゃったんだね」



 高校三年の、秋。推薦入学で合格者が出始める、冬を目前にした、十一月。廊下のペンキの白が、季節を強調するように冷たい光を放っていた。放課後、冷たくなっていく教室で、だらだらと居残ったグループの友人たちと好きずきに喋りながら、可南子はセンター試験の勉強に追われ、数学の問題集を解いていた。清子は推薦で私大を決めていた。文学部に進んだのは、彼女が国語がよくできたから何の不思議にも思わなかった。
「もう大学行けないかもしんない……」
「諦めるの早いよ。まだまだこれからでしょ」
「もう専門にする!」
「それは専門に行く俺への侮辱と取るがよろしいか」
「だってさー! 別に大学に行ってやりたいこととかないもん! 大学に行くのはみんな行くから行くだけ!」
「誰かこいつ殴れ」
「まーまー、甘いものでも食べよーよ。あたし購買行くけど」
 それじゃあ私も俺もと、何人かが出て行った。廊下の声が反響し、聞き取れなくなっていく。残った数名は集中力が切れたのか、トイレと言って席を立った。
 ふと気付くと、教室には、可南子と清子しかいなかった。
 清子は猫背の丸い背中で、机に向かってペンを動かしていた。ぴちぴちのブレザーが、大きな藍色の山になっていた。毛が生えていたら動物のようだ。熊みたい。
「清子ちゃん、何してるの?」
「えっ!?」
 とんでもない大声をあげた清子の背中が、ぴーんと伸びた。慌てたようにノートをひっくり返し、素早いまばたきをする清子がこちらを振り向く。唇が緩んでいるが、どうしようか戸惑っている顔だ。
「勉強……じゃないよね。何か書いてるの?」
 清子は目を丸くし、ああ、と顔を覆った。けれどそのときの可南子には何の意図もなかったのだ。『何か』とは漠然とした『What』であって、決して『小説か詩か』という意味ではなかったのだ。
「うん……小説を……」
「小説!?」
 可南子は大声を上げた。本をよく読む子だとは思っていたけれど、小説を書くなんて思わなかったのだ。しー! しー! と清子は慌てている。
「内緒にして、お願いだから!」
「どうして? っていうか読みたい!」
 清子は怯んだようだった。もじもじと手を握りしめ、視線を下に落とす。顔は笑っているが、これは反射のようなものだ。いつも清子は笑っている。
「そんな人に見せられるようなものじゃないけど……」
「どんな話?」
「ええと、今書いてるのは……」
 その時は気付かなかったけれど、清子はずっと執筆を趣味にしていたらしかった。『今』ということは『過去』があるということだ。
 彼女は、今書いているのはファンタジーで、姉と比較されている高校生の少女が、異世界にいって王子と出会い、世界の命運を握る力を得る、というような話だった。
 すごい! と賛辞すると、「で、でもまだプロットの段階だから!」と首を竦めて二重あごになった。
「この前完結させたのは、王子なんだけど王位継承を主張できない主人公と、人間の女性に変身できる獣の王のお話」
「面白そう! 読ませてよ」
「え、ええー……すごく恥ずかしい。恥ずかしいよー……」
 清子が結論を出す前に、友人たちが帰ってきたので、その話は終わってしまった。
 しかし翌日、清子は分厚い封筒を押し付けてきた。「感想は言わなくていいから!」と言って鈍足で走っていった彼女を見送った後、これはなんなのだろうと開けた封筒の中身は、ビニール袋に包まれた分厚い紙の束で、清子の書いた小説だった。

 一ヶ月後にはもうすっかり冬で、洗った手が赤くなり、水に濡れた紙のようにくしゃくしゃに縮こまる具合に、水が冷たい季節になった。スカートの下から寒気が忍び寄り、分厚いスパッツや体育着で腰回りを覆っていたが、スカート丈は長くしたくない女子高生の心理に反して、段々と冬は深くなっていた。
 可南子は清子に言った。
「ねえ、小説、返した方がいいのかな」
 たまたま廊下に出ようとしていた清子は顔を真っ赤にして、にやにやもじもじとしながら言った。
「う、ううん! あげる。パソコンにデータが入ってるから、印刷したものはなくても困らないから。あっ、もらって迷惑じゃなかったらだけど!」
「面白かった。清子ちゃん、すごい」
「あっ、あっ、それ以上言わないで! 恥ずかしいから! 言わなくていいから!」
 廊下にまで響く大声で言った清子は、教室中に注目され、熱くなったらしい顔をぱたぱたと仰ぎながら笑っていた。
「清子ちゃん、小説家になるの?」
 途端、清子は曖昧に笑った。笑ったと言っても、的確なその他の表情を知らなかったから浮かべただけ、というような、変な顔だった。
「どうだろう。高校生でデビューした作家さん、知ってるけど。でも、わたしには無理だよ」

 それでも可南子に小説を見せたことは、清子の中で何かを吹っ切ったらしかった。堂々と書き物用のノートを開き、授業の合間に何かメモしたノートも借りたことがあった。やがて清子の異変に気付いた友人たちが彼女に問い、清子は、「小説を書いてるんだ」と答え、清子イコール小説執筆は、クラスメートたちに定着した。それは他の子のカミングアウトにも手を貸し、「私も書いてるんだ」と、携帯電話で書いた小説を見せる者も現れた。
 けれど、清子は書いていることを告白するだけで、決して作品を他の誰かに見せようとすることはなかった。清子の書いた物語を知っているのは可南子だけだったけれど、清子の姿形がそういう、書き物をする人間を彷彿とさせるのか、誰も清子の趣味を疑うことはなかった。たぶん、すごいものを書いているんだ、と。
 ある夕方だった。冬を感じさせる、冷たく冴えた暗い道だった。一人で帰宅するなと担任が言い、同じ方向の可南子と清子は、テストの話題を口にしながら帰路を歩んでいた。電柱の蛍光灯の白い光に、白い息が影のように浮かび上がり、コートのポケットに突っ込んだ手は白く小さくなった。すると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。クラスメートから『☆新作です☆』というタイトルのメールで、小説が添付されている。清子のカミングアウトは、そんな風に携帯サイト発祥の小説が好きな女子たちの創作ブームを起こしていたのだった。
「ユウちゃんからメール。新作小説だって」
「頑張るねえ」と清子は笑った。
「清子ちゃんは書いてるの?」
「うん。今、原稿用紙二百枚目くらいかな。数えてないから大体だけど」
「清子ちゃん」と可南子は呼びかけた。
「ユウちゃんたちのこと、あんまりよく思ってないでしょう」
 清子は目を見開いた。「どうして?」と声は跳ね上がる。
「だって」
 けれど可南子はそれ以上言葉を継げなかった。言えば、可南子が嫌な子だし、言われた清子が嫌な子になってしまう。だからきっと清子は否定するだろう。そんなことないよ、とへらりと笑って。
 そして、清子はため息をついた。うん、とひとつ頷いたことに、可南子は驚いた。
「そうだね。わたしには、ああいう話はもう書けないと思う。羨望してる。もう絶対、わたしにはあんな話は書けない。あんな楽しい話を。書いていて自分自身も嬉しくなるお話を。だからよく思ってないわけじゃないよ」
 続けて、あのね、と言う声は弾んでいた。
「同好の士が増えて嬉しいのは確かだよ。小説って、後ろめたいって思うひとが多いみたいだから。誰もが大っぴらに、『私は小説を書いています』って言えたらいいなと思う。だから今、わたしはすごく楽しいよ。それは、疑わないで」
 星が光っていた。清子の声も、それに負けず真摯だった。遠い遠い彼方を焦がれるような強さがあったと思った。
 ただ、と続く声は落ちていた。
「書き始めてああであることはいいんだよ。でも、書くことをいつまでも続けられる人がどれだけいるんだろう。根気づよく、五年も十年も書き続けていられる人がどれだけいるんだろうって思う」
「……清子ちゃんは?」
 わたし? と清子は苦笑した。
「十四から始めて、今で四年目。もう、何のために書いてるのか分からなくなってきちゃった。趣味とも言えないし、書き続けなくちゃいけないってずっと考えてるし。かと言って、芽が出るかも分からないんだもの。わたしにとって小説って、なんなのかな」
 途方に暮れて、なんだか、泣きそうに見えた。


 桜が咲いて、夏が来た。大学一年の夏。
 清子の小説が、学校の紀要に載った。
 ある授業の一回目で、何か自己アピールをしなさいと言われたとき、清子はその一コマで短編を書き上げたのだという。最後に朗読して発表したそうだ。学籍番号順に振り分けられた必修の授業で、清子の創作趣味はそんな風にカミングアウトされた。教授は彼女の小説を添削し、学生作品の募集をかけていた紀要に投稿させたのだという。
 学生が紀要などなかなか見ないけれど、清子が報告してきた後、可南子は配布されている紀要を貰いにいった。薄っぺらな、何が描かれているのか分からない絵の表紙をめくった中、活字で、清子の小説は確かに印字されていた。

 それは、夕方の路地裏で、犬と出会う短編だった。どこか冬のにおいを感じさせるシーンがあり、可南子の記憶のどこかが震えた気がした。
 その犬は未来から来たと言い、喋るその犬に命令され、未来から飛び散ったタイムマシーンの欠片を集めなければならなくなった主人公。欠片は、様々な本の中に入り込んでいた。目的の本については断片的な情報しかないので、どの小説作品なのか推理するようなものになっている。主人公と犬の掛け合いが、清子が必死にウケを狙っているのが透けて見えておかしい。
 そして、最後、主人公はその犬に尋ねる。
『わたしはどうなっているの? 夢を叶えているの?』
 犬は鼻を鳴らす。
『始めてもいない夢を叶えられる未来があるのだろうか』

「清子ちゃん。読んだよ」
 可南子が言ったとき、必修の授業で作ったらしい、同じような地味目の女の友人を先に行かせて、清子はにやにやと笑顔になった。
「どう思った?」
「面白かった」
「どういうところが、って聞いてもいい?」
 大学の廊下から、風が入ってきていた。教室と比べて、温く、肌に張り付くような。けれど、それはつまり、日差しは強く、空の色は濃く、緑はぐんぐんと伸びる季節だということだ。
 言葉を探す可南子に、「可南子ちゃん」と清子は口を開いた。
「わたし、小説家になろうと思うよ」

 清子との会話には、小説の話が多くなった。今度は何月の締切、枚数は何枚、まだプロットが立てられてない、プロットが終わった、本文が枚数を超えた、今度はファンタジーじゃなく現代もの……というように。そして、創作の授業、文学の授業には積極的に参加しているようだった。
「そもそも、わたしが文学部に行こうと思ったのは、文章の読み解き方、魅せ方が知りたいと思ったからなんだよね。それで、ああ、わたしはもう最初から小説を書き続けていたかったんだなって」
 大学二年。選択必修で授業が一緒になった、文学購読の授業で清子は言った。
「どうして書き始めたの?」
「うーん……引かないでほしいんだけど、わたし、十四の頃、人間不信だったんだよ。それで誰とも話さず誰とも会わず、本ばっかり読んでて。で、気まぐれで自分で書いてみたら、自分の本音がぼろぼろ現れてびっくりしたの。それで、これはわたしなんだ、わたしの世界なんだって思った。その内、わたしは、わたしの考えていることを、こうして別の形で表現する力があるんだって思うと、自分の価値を信じられる気がするようになって」
 結局、と清子は息を吐き出した。
「アイデンティティを支えるための手段なんだよ、わたしの小説は。だから、すごくこわい。投稿して、何の結果も出せないと、自分を否定された気持ちになる。本当にわたしの小説は意味があるんだろうか、誰かに届くんだろうか、ってずっと考えてる。でも、書かないと始まらないから、苦しみながら書いてるの。でも我に返ると、どうしてこんな苦しい思いをしても創作にしがみついてるんだろうって思うことがある」
「捨てちゃえば」
 一言で切り捨てると、清子は明るく肩をすくめた。可南子の言葉には答えずに言うのだ。
「そして、そんな風に苦しんでいる人間はたくさんいて、かと言って平等にプロになれるかっていうとそうじゃないところが、泣きたくなるくらい辛いんだよ」

 二十五になった今でも、可南子はほとんど本を読んでいない。記憶の中の清子の小説は燦然と輝いていて、羨望と嫉妬を可南子に覚えさせた。これが普通の本ならば、決してそんなことは思わないはずなのに、何故そんな、どす黒く気持ちの悪い感情を抱くのかというと、それは相手が可南子の側にいる清子だからだとしか言いようがない。
 できれば、どんなに清子の物語が否定されても唯一の味方でいたいと思うのに、清子は決して、その物語という代物から離れようとはしない。可南子に憧れを覚えさせ、しかし見下してしまう、それを。
「ねえ、可南子ちゃん」と、さほど酔っぱらっていない清子は言う。
「どんなにみすぼらしい大人になっても、わたしは書いていたいんだよ。わたしはわたしの力を信じていたいんだよ。だから決めたの。わたしの人生は、小説の神様に差し上げようって。だって、書き続けるってそういうことだよ。小説家になること、それは、四十になっても五十になっても、ああいうファンタジーを書くことを許されるってことだ」
「壮年でファンタジーを書いてる人間なんてごまんといるよ」
「かもしれない。趣味でも、カミングアウトしてないだけでたくさんいるんだろうね」
 んふふ、と清子は笑う。
「許されたいって、業が深いね。書き続けるなんて、自分の意志ひとつなのにね」
 じゃあ、と清子は手を挙げた。地味な服装、地味な化粧。地味な髪の色に華やかでない笑い方。多くの人は彼女を人生の負け組と見たり、モテない、地味な、オタクな女と見るのだろう。可南子だってそう思うし、友人たちだって、そうと知ってからかっている。彼女らの中には、いつか「そろそろ現実を見なよ」と忠告する者が現れるかもしれない。
 でも彼女の放つオーラは本物の幸せで、ああ、だからもう彼女は小説と結婚するつもりなんだな、と思った。
「清子ちゃん」
 振り返った彼女が、眼鏡を押し上げる。なにと近付いてくる前に、言った。
「諦めないで。しっかり生きて」
 目を見開いた後、くすぐったそうに身をよじって、うん、と清子は言った。
「小説があるかぎり、生きられるよ、きっとね」
 そういうことじゃない。辛かったら諦めてしまえばいい。苦しんで生きる必要はない。あてもない作業をすること、どこに行き着くかも分からない小説や物語を紡ぐ必然性はどこにあるのだろう。趣味であるなら止められる。捨てられるし、それだけに縛られる意味はどこにもない。私たちはもっと自由で、ありふれた人生を生きていける。
「そんな、小説だけに生きる人生は、正しいの?」
 眼鏡の奥で、清子は目を細めた。
「わたしには、これだけしかないの」

「書かずにいられる人生を選びたかったよ。普通に生きて、学校に行って、就職して、ファッションやテレビドラマや俳優さんに熱中して、本を読むことは趣味程度にしたかった。でもね、でも、知っちゃったんだよ。物語の可能性を。わたしの信じることを形にする作業の楽しさ、それを、誰かに読んでもらえる幸福を。だからもう、書く以外の人生はないと思う」

 どんなに言葉を尽くしても、届かない。凝り固まった石のように、千年の地層のように、十四の清子から降り積もったそれは、もう書かずにはいられないという言葉だった。
「いつか折れるときがくると思う。でも、それまで、わたしは続ける。折れても、きっと、続けたい。もう、約束したから」
 小説の神様に。
 言わなくても、分かる。
 それだけのものを、人生で得る人がどれだけいるだろう。そして、その代わりにどれだけのものを失うのだろう。まるで殉教者だった。彼女の言動は、いつの間にか信仰だった。彼女はきっと、悲劇的な人生を送る。可南子には、たやすく想像できた。
 だとすれば何ができただろう。たったひとつ胸に抱くカミサマを、迷子の子どものように握りしめる彼女から、それを取り上げることは正しいのだろうに。
 いつか、彼女の物語を手にしたいと思う自分がいて。
 ため息が、吐き出された。
「じゃあ、書いて」
「うん、書くよ」
 清子はばいばい、と言って、背を向けた。
 きっと、いつか泣くのだろう。それはこれからすぐなのかもしれないし、十年後くらいなのかもしれない。もしかしたら、この日のことを小説にするのかもしれない。
 願わくば、といつしか可南子も祈っていた。
 清子の物語が、素晴らしいものでありますように。
 ――人生が、と思わなかったことに気付かなかった可南子もまた、ある意味では殉教者だったのかも、しれない。



も の が た り の 殉 教 者