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「ジェフリー・ゼリントン侯爵はどのような人物か?」と尋ねたら。
「地味で普通で、何一つ秀でたところのない男だ」と十人中十人全員が答えるだろう。
 癖のある茶色の髪、同じ色の瞳。背はほどほどに高いが、鍛えているわけではないので痩せている。美男子でも醜男でもなく、三十一歳という年齢のわりには幼く見え、寄宿学校から出たばかりの若者に混じっていてもさほど違和感がない。むしろ「王立大学の奨学生のようだ」と、よく言えば若々しく、言い方を変えれば苦学しているようなみすぼらしさがある。人が好さそうで、侯爵にふさわしい威厳があるとは言えない。
 そして侯爵といっても、目立つほど豊かでも狙われるほどの資源があるわけでもない領地と、特別家柄や爵位に執着せず出世も望まない親族、そして本人が贅沢を好まないゆえに堅実な暮らしぶりで、本人ですら時々いつか見た夢のように「自分は王立大学で教鞭をとる一般市民なのではないだろうか?」などと思う。
 そんな彼なので、たとえダイスバルト国王の近侍であっても、そして最近一回りも年下の美しい妻を迎えたことも、一通り話題になった後はやっかまれることはない。
 地味で普通で、秀でたところのない、決して中心人物にならない男。それがジェフリー・ゼリントンなのだった。

「昨夜暗殺者に襲われた」
 昨日誰それに会ったよと告げるのと同じ気軽さで教えられ、ジェフリーの手から書類が勢いよく落下していった。「食べ屑が落ちますので片付けを」と注意しようとした矢先のことだった。
 執務机の主君は仕事が終わるなり早々に茶と茶菓子に手をつけ、ジェフリーの衝撃など気にも留めず、焼き菓子に舌鼓を打っている。干し果物入りのそれは、たっぷり砂糖を使った彼好みの味付けだが、仕事机の上で食べるのは勘弁してほしいというのが近侍としての本心だ。
 執務室にはジェフリーの他に近衛騎士と国王秘書官がいたが、衝撃的すぎる告白を耳にしても少しも動じていない。
「昨夜、どこで襲われたのですか。顔はご覧になりましたか?」
「私の寝室で。顔を隠していたが、小柄だったから女じゃないかな?」
 尋ねた近衛騎士は「またですか」とため息をついた。
「陛下、そのようなことは早めにお知らせくださいませんと。何かあってからでは遅うございます」
「まあ、何もなかったからな。次に来たときはそうする」
 近衛騎士と国王秘書官は揃って歯痛に耐えるような顔をした。国王は気にしていないが、寝室に忍び込まれた挙句、未遂に終わったとはいえ暗殺されかけたなど、側近として大失態を犯しているのだ。しかもこれが初めてではない。寝室にしろ散歩中にしろ、国王と暗殺者の遭遇は頻繁に発生しており、下手人を逃し続けている現状がある。「警備体制を見直さなければ」と騎士は呟き、秘書官は「人員の見直しが必要でしょうか」と肩を落とす。そしてジェフリーは、だらだらと冷や汗を流しながら落ちた書類を掻き集める。
「度重なる襲撃、いったい誰の差し金でしょうか。尻尾をつかませないとなると、やはり」
「西隣か東隣か、はたまた北か南か。国内に協力者がいるにしろ、まず間違いなく我が国を狙う輩だろうな」
 騎士と秘書官が難しい顔を突き合わせ、うんざりとため息をついた。
 広大な穀倉地帯と港湾都市を持つが、他国と同程度あるいは下という位置付けの我が国ではあるのに、不運なことに全方位を野心的な王を抱える国に囲まれ、争いが絶えない。歴史を紐解くとそういった時代が周期的にやってきて、その度に君主をはじめ国の人々は苦労させられてきたようだ。ゆえにこの国は国境を守る騎士団が凄まじく強いことでも有名だった。同時にそれらの戴く王が非常に独創的な傑物だった記録もあるが、きっと執務机で書類の上に菓子屑を落とす人間だったのだろうとジェフリーは想像している。
「ジェフリー卿も、お気付きのことがあればお知らせください。陛下はあのご様子なので、卿だけが頼りです……」
 書類を受け取る秘書官の縋るような眼差しに、ジェフリーは「は、はい……」と引きつった微笑みを返す。
 子どものように菓子を頬張る国王だが暗殺を失敗に終わらせる技量の持ち主だった。それまで幾度となく暗殺者を捕らえ、協力者と思しき人間を排除してきたものの、近頃の成果はさっぱりだった。それを騎士たちは犯人側がさらに狡猾に、慎重になっていると思っているらしい。
「それなんだが、なんか違う気がするんだよなあ」
 ごくごくと茶を干した国王が言って、騎士と秘書官は眉をひそめた。
「命を狙うというより、いや狙われているとは思うんだが、こう意思というか色というか……」
 うーんと考え込み、ふと国王は手を打った。
「ああ、そうだ感情だ。うん、感情があるんだな。暗殺者はおおむね仕事として殺しをやるだろう? 私本人に恨みはないし、思うところも何一つないわけだ。ただ最近のはそうじゃない」
「感情が……怨恨を抱いていると?」
「そこまで必死じゃないな。隙を見せれば命を取られるのは間違いないが、いまのところ見逃す価値があるということなんだろう」
 狙われている本人が言うのをまともに受け止めていいものか自身の不甲斐なさを嘆くべきか、近衛騎士のなんとも言い難い表情に、思わず申し訳ありませんと言ってしまいそうになるジェフリーだ。
「……ということは、同一人物ですか? ずっと同じ人間に狙われている?」
「恐らくな」
「平然と答えないでください! だったら暗殺者が近くに潜伏しているということではありませんか!」
 叫んだ秘書官は胃痛に耐えかねたのか真っ青になっているが、国王はうるさそうに渋面を作るばかりだ。
「いまさら騒ぎ立てることでもあるまいに」
「だったら何について騒げと!?」
「そこで帰りたそうにしている国王近侍の新婚生活について、はどうだ?」
 三人の視線を受けてジェフリーの心臓が飛び上がった。
 ますます冷や汗が止まらないジェフリーを国王はにやにや顔で嬲る。
「三十一になって得た若い妻だ、しかも美人だというし心配だろう、それは早く帰りたいよなあ?」
 染みひとつどころか記載すら存在しないジェフリーの女性遍歴を知っている騎士と秘書官の眼差しには微笑ましさが混じっていたが、ジェフリーはいまにも卒倒しそうなのを必死に耐えていた。決して慣れない揶揄に動揺させられているからではない。
「十以上も年下の伴侶を気にかけるのは、実にジェフリー卿らしいと思います」
「しかし十五だというじゃないか。少々まずくはないか?」
「奥様の方から猛烈に求婚されたそうですから、さほど問題ではないかと存じます。王宮侍女だった奥様が卿を見初められたというから、羨ましい話です」
 王宮の、特に貴人の近くで仕事をする女性の多くは高貴な家の出身だ。行儀見習いとして上がってきた彼女たちは、分家筋の人間ゆえに出世するよりも良縁を求める。ジェフリーの妻もまたそうであり、うだつの上がらない侯爵の妻になることを望んだ――望んだ、と言われているだけであり、実際は。
「美しい十五歳の王宮侍女が、三十一の侯爵に求婚――怪しいな。怪しすぎるぞ、何か裏があるんじゃないか?」
 ジェフリーは、へられり、と力なく笑った。どのようにやり過ごそうか考え、結果的に笑うしかなかっただけなのだが、それは国王に『幸せぼけした顔』に見えたらしい。一瞬にしてつまらなさそうな表情に変わり、右手を振った。
「……やっぱりのろけられると不愉快だ。昨夜の件でさすがに眠いし、今日はもう終わりとする。ゼリントン、帰っていいぞ」
 その後、ジェフリーが飛ぶようにして帰宅したのは言うまでもない。
 城を出るまでは早足で、門をくぐってからは必死の形相で自宅を目指し、到着するなり馬から飛び降りる。
 次の瞬間罠が作動し、玄関へ駆けるジェフリー目掛けて矢が放たれたが練習を重ねた足さばきで躱す。侯爵ともなれば家宰なり従僕なりが出迎えに現れるものだが諸事情により使用人は最低限しか置いていないため、ジェフリーが自ら玄関扉を開ける。予想通りなら刃物が飛んでくるか床に油か石鹸が撒かれていて足を取られるはずだ。
 ひゅっと空気を裂く音がした。前者で当たりのようだと回避行動を取る。
「……っ、ぬあああっ!?」
 しかし途端に大きく滑る。正解は刃物と石鹸の二段構えだったのだ。絵のごとく、つるーんと綺麗に滑ったジェフリーが床に尻と背中を打ち付けた痛みに息を飲んでいると、天井から、きらりと光るものが降ってきた。
 すたたたたんっ、と小気味好い音とともに突き刺さる、矢、矢、矢に、叫び声を上げることもできなかった。
 一瞬にして、だが永遠とも感じられる恐怖の時間が過ぎ、死んだような身体を動かして自身の無事を確認する。動いた拍子に裾が破け、刺さっていた錆びた鏃が視界に入り、思わず顔が引きつった。刺さっていれば間違いなく感染症でどうにかなっていた。
 だが仕方がない。なにぶん屋敷は手薄なので身を守るために罠は必要だ。運動神経がそこそこのジェフリーだが、毎日危険な出迎えを受け続けてそこそこ避けられるようになってきている。我が家の秘密を誰にも知られるわけにはいかないのだから、人は少なく、自衛の手段を講じるしかない。
 そこへ小さな足を想起させるぱたぱたという足音。
「……まあ!」
 薄暗い広間に、銀の星が落ちてくる。
 白く輝く銀の髪、青い瞳の精霊のような少女は、飾り気のない地味な灰色のドレスの裾を乱して階段を駆け下りると、座り込んでいるジェフリーの胸元に飛び込んできた。
「おかえりなさいませ、旦那様!」
「アルビ」
 きめ細やかな白い肌を薔薇色に染め、甘い蜜を含んだ唇を綻ばせて咲き初めの花のごとき可憐な微笑みを浮かべる。もし幼気な子どもが彼女を見たなら、人形が歩いていると目を見張るに違いない。
 昨年ゼリントン侯爵夫人となったアルビ・ゼリントンは、そのようにして絶世の美少女と呼ばれるものに類する存在だった。
「今日はお早かったのですね、嬉しいですわ。近頃お忙しかったから今日は、――きゃっ」
 ジェフリー程度の腕力で抱え上がられる華奢な少女を、夫婦の寝室に押し込め、鍵をかける。しっかり施錠したことを確認し、強張った形相で振り向いたジェフリーに、目を丸くしていたアルビは視線を逸らし、ぽっと赤くなってドレスの裾を揉みしだいた。
「いやですわ……こんな明るいうちから。でも旦那様がお望みなら、私……」
「アルビ」
 ジェフリーは妻の竦んだ肩を掴み、歪んだ顔をぐいと近付けた。
「――また国王陛下の命を狙いましたね?」
 アルビは目を瞬かせ、悲しそうに眉をひそめる。状況によっては不貞を疑われた潔白な妻の悲哀が滲んだように映っただろうが、続く言葉がその期待を打ち砕く。
「……だって……最近ジェフの帰りが遅いんだもの……」
「ほんっと勘弁してください!?」
 地味で目立たない、ごくごく平凡な、ともすれば侯爵の身分など不相応なジェフリー・ゼリントン。
 その最大の秘密は、十五歳の美しい妻が実は現役の暗殺者であることだった。
 暗殺者一族として生まれ育ったアルビは、長の命令を受けてこの国の王の暗殺を果たすためにやってきた。王宮侍女として登用される予定だった娘に成り代わり、別人として王宮に入り込んだのだ。だが彼女は、恐らくは彼女の一族全員が予想外だったのは、暗殺対象がそういうものに狙われすぎて撃退に慣れている、かつとんでもない幸運や予想外の出来事を引き寄せて命を拾う、特殊すぎる能力の持ち主だったことだろう。この国の王族に由来する特殊能力と言い表してもいい。そのおかげで近隣諸国から国と民草を守ってきたのだ。
 暗殺に失敗したアルビは重傷を負い、命からがら逃げ込んだ先がジェフリーの屋敷だった。
 そこから何がどうなったのか。当初はアルビが暗殺者と知らず、「見つかれば殺される」という彼女の言うままに上への報告を一旦置いて、快癒するまで預かるつもりだったことまでは覚えている。驚くべき速度で、いま思えばそれは心身を鍛えていたせいなのだろうが、すぐに動けるようになった彼女は、何故かジェフリーの屋敷の細々した仕事をするようになった。花を飾ったり、ジェフリーに出す茶菓子を作ったり、いつの間にか予定を把握し、ふさわしい服装を見立てたり。混沌としていた図書室が、本は書棚に、紙類はまとめられ、すっきり片付いていたときは感動したものだ。
 だがなかなか出て行かない。不思議だ、と感じたのは、それだけではなかった。
 ジェフリーが気を逸らしたせいで滑り落ちた茶器を、床に落ちる前に拾い上げたおかげで割れずに済んだこと。街中で暴れ馬に遭遇し、あっという間に飛び乗って御してしまったこと。炊事場に出た鼠を見事な投擲で仕留めたという厨房長の証言。雨漏りの話をしていた翌日の早朝、人目を気にしながら軽々と屋根に登っていった彼女に修理のことを話すと、もう大丈夫だと思うと答え、実際に修繕がされていた話。
 その後もなんやかやとあり、奇妙で美しい少女が暗殺者だったと決定的に判明したのは、偶然王の寝室で休んでいたジェフリーが襲われたときだ。もちろん顔を隠していたし所作も異なっていたが、襲撃されたとき、相手は対象を誤ったことを理解し、同時にジェフリーもそれが誰なのかを知ったのだ。
 もちろんただ人であるジェフリーなので、完璧に己を封じた暗殺者が何者なのか見抜く能力は持ち得ていない。ただそのときは不思議と、毒を塗った刃物を手にした黒衣の人物が、銀の髪のアルビだとすぐにわかったのだ。
 そのまま彼女は逃亡し、ジェフリーは自分がどうするべきか一晩中悩んだ。
 結局そのまま帰宅して、顔を合わせたアルビは、昨夜の出来事など嘘であるかのように美しく、輝いていて――一人ぼっちなのだな、と思った。
『好きなだけここにいてもらって構いません。ただその代わり、あなたの黒い仕事を完遂しないと約束してください』
 多分そういうことを言ったと思う。眠かったので、アルビがどんな顔をし、なんと答えたのかも覚えていない。
 しかしその頃から「結婚してください」と言い始めたのは、よく覚えている。
 そうして昨年、ついに結婚した。根負けした。ある日突然いなくなったかと思ったらぼろぼろの傷だらけで帰ってきて「後片付けしてきましたから」と笑い「結婚してください」と言われたら、わかったから早く手当てを、と叫んだのを言質とされたのだ。
 これでもし彼女の素性がばれたら、未遂といえども国王暗殺を企んだ罪人として死刑、ジェフリーも親類もただでは済むまい、とは、ちらっと考えた。
 ただどんなときでも、どれほど遅くなっても「おかえりなさい」と現れる彼女に、ジェフリー自身、離れがたくなっていたのだった。
 ゼリントン侯爵夫人となったアルビは、毎日幸せそうに、嬉しげにジェフリーにまとわりついてくる。一族を抜けたものの未だ腕を鈍らせないよう密かに鍛錬を続けている彼女は、能力を活かして、貴族の邸宅の防犯について相談に乗ったり、昔の伝手から手に入れた情報で犯罪を未然に防いだりしている、らしい。怪我さえしなければ好きにしてくれていい。自宅の罠に命を狙われようと努力しよう。
 だが彼女の唯一の悪癖は、何をどうやっても止むことはないのがいつもジェフリーの胃を痛めつける。
「……私の帰宅が遅いだけで命を狙われるなんて、陛下はいったい何度殺されなくてはならないか。もし陛下に何かあったら私も君も破滅ですからね……?」
「でも、一回くらいは死んだ方がいいとは思うでしょう?」
 食べ屑が散らばった執務机を思い出す。書類を汚されたら、一瞬くらいはそう思ってしまうかもしれない。
 否定しきれなかったのを好機とみてアルビが身を寄せて畳み掛けてくる。
「確かにあの方は賢君の器かもしれない。けれど結婚したばかりの近侍を仕事で長時間拘束するのは、真に有能とは言わないわ。新婚夫婦は尊重されるべきです。次世代のことを考えられない王なんて絶対だめ!」
「だからといって暗殺はだめ! 寝所に忍び込んで圧をかけるのもだめです!!」
 ふわんと漂ってきた彼女のまとう花の香りに意識をさらわれかけるが、はっと自我を取り戻して叫んだ。
 ジェフリーはアルビの手を握った。白く小さな手は、手入れされてそれとはわからなくなっているけれど、多くの傷や火傷を負って癒してきた強い手だ。比べるまでもなくジェフリーよりも武器の扱いに慣れ、人の命を奪ってきた。たった十五歳。ここに現れたときはそれよりも幼かった。
「アルビ。人殺しは君をしあわせにしない」
 彼女を救えるだなんて大それたことは一度も思ったことはないけれど、このような考えを持つ人間がいるのだと伝えたい。
 懸命なアルビは表情を曇らせ、視線を落とした。
「……ごめんなさい……」
 悪人ではないのだ。たまたま生まれついたのが暗殺者一族だっただけ、手塩にかけて育てられて優秀な暗殺能力を備えるようになっただけで、アルビは十五歳らしい寂しさを抱える大人びた少女だ。自分の感情と向き合い、どの道を進み、誰と生きるか選ぶことができる。だからこうして一緒にいたいとすべての力をかけて訴える妻を、ジェフリーは絶対に突き放せない。
「一緒にいたくて結婚したんですから、長くそうしていられるよう努力しましょう。……まあ、あなたがそうやって国王陛下のところを訪れてくれるから他の暗殺者を退けられているわけですし、陛下も警戒して軽率な行動を慎んでくれているわけですから、悪いことばかりではありません。ただ陛下もあなたも怪我をすることのないよう気を付けてくださいね」
「……怒ってない? 嫌いになっていない?」
「怒っても嫌ってもいません。実のところ、陛下には死にそうな目にあっていただきたいと思うときがごくごく稀にあるので」
 主に仕事が終わらないときとか。積み上がった書類と書物の塔が崩れ落ちた残業の夜とか。いつまで経ってもお忍びで出掛けた国王が戻らない日など。
 するとそれを聞いた濡れた花の風情が刃のきらめきを帯びた。
「それじゃあ薬を盛る? しびれ薬がいい? それとも下剤?」
「そのくらいではきっと効かない…………いやそれもだめです! 止めてくださいね!?」
 どこからともなく異国の武器まで出してくる一流の専門家の意識を保ち続けるアルビだ、そのような薬の類は自室に保管されているに決まっていたし、やると決めたからには完璧に遂行しようとしてみせるだろう。そこまで想像して焦ったジェフリーに、アルビは声をあげて笑った。それは大げさに言う必要のないほど、明るく、天使のように愛らしい。ああ、私の妻はなんて可愛いんだろうか!
「なるべく早く帰ってくるようにします」
「期待しないで待っていますわ、旦那様」
 握っていた手を頬に当てる。そうは言ったものの、本心では仕事に行きたくない。ずっとアルビと一緒にいられたらいいのに。いっそ引退してしまおうか……。
 ……なんてことを本気で考えて段取りを確認してしまっているのが、ジェフリー・ゼリントン侯爵が若すぎる美しい妻にぞっこんだと揶揄される原因なのだが、当人に自覚はなく、また周囲も教えてやるほど親切ではなかった。
 うっとりと潤む青い目がそっと閉じられる。震える睫毛に愛おしさと、自らの老いを悲しく感じながら、ジェフリーはアルビを引き寄せ、その唇に。
「――ぅぎゃあぁ……っ!!」
 触れようか、というときに踏みつけた猫のような悲鳴が聞こえ、次いで「旦那様! 王宮の使者殿が!」と焦った家人が鍵のかかった扉を揺らす。アルビは大きな目をぱちっと開き、「あらいけない」と困った様子で首を傾げた。
「表庭に新しい罠を作りかけていたのをすっかり忘れていたわ。王宮の使者様、きっと穴に落ちてしまわれたわね」
「…………」
 いけないいけない、とまったく慌てた様子もなくのんびりと庭に向かう妻に後に続きながら、さて使者殿になんと言い訳しよう、そして用向きが面倒なものでなければいい、と考えた。

 ジェフリー・ゼリントンは決して中心人物にはならない。
 しかしその周りでとんでもない非日常が常に繰り広げられていると言っても過言ではない。その事件を巻き起こす一人に数えて間違いのない妻アルビのいる生活は、結局のところ、平々凡々なジェフリーにとっては幸せな毎日と表現して間違いなさそうだ。


ジ ェ フ リ ー ・ ゼ リ ン ト ン の
と ん で も な い け れ ど 幸 せ な 日 々






2014.11.23初稿
2021.5.16加筆修正