終わりの庭

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 紙片の上に記された文面を追っていたプロセルフィナは、静かに瞑目した。
 小さな庭に置かれた椅子に座り、小卓に開いたままにしていた本を読んでいたときにその知らせがやってきたのだった。
 太陽の光が明るい初夏の緑を照らしている。目を閉じれば涼しいそよ風が感じられ、柔らかな影が身体を取り巻く。
 思い出されるのは暗く冷たい影に身も心も沈めていたかつての自分。濁りそうな心を抱えて涙を飲み込んでいた、満たされていたけれど寂しかった少女時代。幸せだったけれど見ないふりをしていた。愛する人がどこか歪んでいること。そしてそれを諾としていた自分のこと。
 そのときかさりと緑が揺れる音がして目を開けた。現れた金の髪の少年がぱっと笑みを浮かべ後ろを振り返る。
「こっちだよ」
 そこから現れたのは、二十歳になるかならないかくらいの若者だった。
 穏やかで美しい貴公子らしい容貌に、かすかな影を秘めた鋭い目を持っている彼は頭を下げる。プロセルフィナはそっと微笑み、声をかけた。
「お久しゅうございます、イムレ殿下。ご立派になられましたわね」
「ご無沙汰しております、プロセルフィナ妃殿下」
 かつてのはち切れそうな焦りや悲しみを抱えた少年は、深く沈んだ声で挨拶を述べる青年になっていた。
「本日は、ご挨拶に参りました」
 顔を上げたイムレはじっとプロセルフィナを見つめ、うつむいた。
「これから東大陸へ渡ります。王位継承権は放棄しました。ロイシアの王位は、私のはとこが継ぐことになります」
 プロセルフィナは手にしたままの紙片の文面を思い出した。
 ロイシア王国のイムレ王太子が、自ら王籍を外れることを願い出た、という知らせだった。
 プロセルフィナは様々なことを考えた。ロイシア王家のこと。女王と公爵のこと。王位を継ぐという彼のはとことその両親に当たる人々のこと。それらはもう自分には関わりのないことではあったけれど、親中を慮ることはできた。
「陛下や閣下は、ひどく残念がられたでしょう」
「それが運命だと思います。これがあの二人に与えられた結末なのです」
 穏やかな物言いの、冷たい言葉だった。
 運命だと思うと彼は言った。もう五年以上前になるあの出来事に、当時幼子だった彼はひどく傷付き、そうして今に至るまで許すことができなかったのだと察せられてしまった。
 残ったのは傷だけ。過去は清算され、未来に生きるとそれぞれに別れたはずだったのに、こうしていつまでも痛む傷が全員に残されてしまった。忘れたつもりでいたのにやはり時に憂うのだ。東の国の、もう自分の場所ではないあの人たちのことを。
「……わかりました。もう殿下とお呼びすることはできないのですね」
「今はただのイムレです。神法司になったのでイムレ司と呼ばれています。まだ見習いですが、司兄についてこれから西回りへ大陸へ渡ります」
 イムレは強い眼差しでプロセルフィナを見つめた。
「もう二度とお会いすることはないでしょう。あなたはもう、私たちを思うことも、守る必要もないのです。何もかもお忘れください、妃殿下。これが、運命です」
 そうして彼は去っていった。
 プロセルフィナは長い間そこに座り、風の音を、雲がいく唸りを聞いていた。甘く香る五月の葉、輝く白い小花たち。寄り添っていたはずの影は暗さを増し、心を飲み込もうと押し寄せる。轟音、波が押し寄せる音だ。
 ――この後、ロイシア王国は緩やかに衰退の道をたどる。東大陸へ渡る海路を有するこの地を得るのは、さらに領土を広げて豊かになるヴァルヒルム王国であることをプロセルフィナが知ることはない。
「…………」
 呼び声に伏せていた目をあげると、イムレを送っていった少年が戻ってきたところだった。「見送ってきたよ」と言いながらプロセルフィナのそばに寄り添う。甘えるように膝に顔を埋める彼を撫でてやりながら、尋ねた。
「どうしたの?」
「あの人、泣いていた。『ごめんなさい』って、僕の手を握って言ったんだ」
 また緑が大きく揺れた。姿を現したジークに、プロセルフィナはすべて仕組まれていたことを悟った。そう、この小さな庭に入るためには主たる者の許可がなければならない。そしてそれを許したのは、もたらされるものがプロセルフィナにとって意味があるものだから。
 息子を抱き締めて柔らかい巻き毛を撫でる。明るい、火の色の溶かし込んだようなまばゆい黄金の髪は、プロセルフィナが選び取った未来の形。
(忘れないわ。すべて)
 近付いてそばに立ってくれたジークの手を握り締める。
 あなたがいて、私がいて、世界は続いている。そう思ったとき、あらゆるものが非の打ち所のない完全な姿でこの世にあるように感じられた。想いも、憎悪も。鏡映しの善悪も幸不幸も。あるべくしてある。どれかを取り除いて消し去ることができない、そのことこそこの世のあるべき姿。
「フィナ」
 ジークが言う。
「歌ってくれ」
 足りないものは何もない。
 この手にあるものが、私のすべてだ。


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