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 少女の様子を聞くためにエルダの家に集まったのは島のほとんどの者だっただろう。家の中に入ることができない者は玄関先や庭に立ち、子どもたちは何があったかまったくわかっていない様子で追いかけっこや隠れ鬼をしてはしゃぎ回る声を響かせている。
 やがてヴェルが現れ、エルダに報告する形でその場にいる者たちに説明を始めた。
「一通りの問診と診察を行いました。ジークの言う通り、彼女は自身に関する記憶を失っていると思われます」
 島民たちがどよめく。
「先生、それは確かなのか?」
「おそらく。出身地、自身の過去や記憶、家族、最後にどこにいたかなど、何度聞いても思い出せないと言っていました」
 エルダは頷いた。
「自身に関する、と言ったね、先生? ということは覚えていることもあるのだね」
「はい。言葉や礼儀作法、食事の仕方。もっと基本的なことを言うと歩き方や表情の作り方などはしっかり覚えていました。でもそれにまつわる記憶が一切ない。たとえば林檎を持ってきて『これは何か』と問えば『林檎』と答えることができる。けれど実物を見るまで思いつきもしない、それに関連する記憶を思い出せなくなっているようです。彼女にいろいろなものを見せて少しずつ記憶と結びつけていけば、いつかは自分のことを思い出せるようになるかもしれません」
「だが自分が何者か、名前すらも失ってしまったのだね」
「あの歌声はあの子のものだったんだろう?」
「海からの贈り物だ。魔を払う力の持ち主だ」
 エルダが言うと皆は顔を見合わせた。困った、哀れだと囁きあっているが厄介者を抱え込んだという嫌悪はない。どうやらジークが話さずとも、冥魔を払う歌声の主は彼女だと知るところになっていたらしい。あの歌声はこの島中に響き渡ったのだ。
「あの娘は彼方から来た。この世に慣れるまで時間がかかるだろう。それまで皆で面倒を見ておやり。――ジーク」
 ジークは背筋を正した。
「はい」
「この島に流れ着いたものは、最初に見つけた者に権利が生ずる。あの娘を引き上げたのはお前だ。名を忘れたというのなら、お前があの子に名前をつけておあげ」
 そう言って、エルダは彼女の処遇について話し合うと宣言し、ジークとヴェルに退出するように言った。巫女の社を出てしばらく歩き、ジークは呟いた。
「記憶喪失? そんな馬鹿な話があるのか」
「ひどいな。一線を退いたとはいえ、僕は一応医者だぞ」
 ヴェルはそう言って肩をすくめた。
「身元について繰り返し尋ねても『わからない』『聞いたことがある気がするけれど思い出せない』って申し訳なさそうにしていたよ。一応いろいろな言語で話しかけてみたけど、ますます謎が増すばかりだった」
「謎?」
「この島で使われているのは大陸東部のミドガート語の方言。彼女が喋るのは僕や君と同じ内地の標準ミドガート語だ。そのほかの言語……西部のルナー語や南方の基本言語で話しかけてみたんだけど、どうも全部わかるみたいなんだよな。けれどそれがどういうことなのか、彼女自身にはさっぱりわからないらしい」
 言葉か、と思い巡らす。
 ミドガート語は大陸北部から派生した基本言語だ。それが西に行くと形を変えルナー語と呼ばれる。そのため大陸北方国ヴァルヒルム出身のジークとヴェルは、その二つの言語を日常的に操っている。しかし南方諸国は独自の民族で使用される言語が溢れかえっており、内乱が平定した今はアルガナ語を標準としているものの、言語の統一はなされていないままだ。ジークが南方語を使えるのはしばらくあの辺りで生活していたためだった。
 だがあの少女は標準的なミドガート語、ルナー語、そして南方の基本言語であるアルガナ語を知っているという。
「大陸北部から東部あるいは西部の出身で、南方に留学していたことがある、とかか?」
 ヴェルは苦笑した。
「一応言っておくけど、その経歴を持つのは君くらいのものだと思うよ」
「だが複数の言語を身につけている理由なんてそれくらいだろう。あとは家族が学者、港町に住んでいた場合もあるか。どちらにしろやはり奇妙だな、あの娘」
「ジーク」
 静かにするように言われ、ヴェルが指し示す方を見ると、椰子の下に少女たちがたむろしていた。その中心にいるのは金色の髪の娘だ。長い髪をおもちゃにされているらしい。
「綺麗な髪ねえ! まるで本物の黄金だわ。伸ばすのに時間がかかったでしょう?」
「ううん……ううん? どうだったかな。私、何も覚えていないの」
「あ、ジーク! 先生も!」
 少女の髪を編み込んでいた中にリンデがいた。大きく手を振るので、ジークとヴェルはそちらに近づいていった。
「あなたを助けてくれた人たちよ、覚えてる?」
「ええ。ヴェル先生とはさっきお話ししたわ」
 にこりと笑う少女は、海岸を歩いてきていた時とは打って変わり、しっかりと表情を描き出せるようになっていた。そうして笑っていると眠っている時の近寄りがたいほどの神秘さは薄れ、ただの美しい若い娘にしか見えない。
「ヴェル先生は本土のえらーいお医者様だったのよ。将来有望だったんだってさ!」
「でもなんでこんな島に来たのかわかんないんだよね。何にもないんだよ、この島」
 いくつもの目にじいっと見つめられ、ヴェルはたじろぎ、ジークも視線を逸らした。大人の事情があるのだと言っても、無垢さと好奇心にあふれた彼女たちはそれを問い詰めることで暴いてしまうだろう。結局ヴェルは「色々あるんだよ」という曖昧な言葉ではぐらかし、一同の非難を浴びた。
「ジークとは話した? 彼はあなたを助けてくれた人よ」
「一年に一度、本土からこの島に来るの。めっぽう強いのよ! 島で一番だったムントを負かしちゃったんだから! あ、ムントっていうのはリンデの兄さんね」
 水を向けられそちらを見た途端、視線が絡まった。
 春の早朝のような薄い色の瞳は、陽に照らされてますます青白く光り輝いている。
「でも一日中ぶらぶらしてるんだよ、ジーク」
「釣りばっかりしてるのに腕前はぜんぜん!」
 くすりと少女が笑った。品のいい笑声は耳元をくすぐるようでなんとも居心地が悪い。
「ジーク、エルダはなんて言ってた?」
「ああ……皆で面倒を見てやれ、だそうだ。詳しいことは他の者たちが話し合って……」
「どこに住むの!? エルダのお社かしら」
「うちは小さいのがいるからなあ」
「あたしのところは狭いし、兄ちゃんがいるからちょっとねえ」
 話し終わらないうちに再びさえずり始めた少女たちに圧倒され、口をつぐまざるを得なかった。この話の聞かなさ具合はジークにとって数少ない苦手なものだ。一触即発の戦場におしゃべりな娘たちをおけば、開戦の喇叭がいつまでも吹き鳴らすことができず世界が平和になるのではないかと思うくらいだ。
 話題の中心にいる少女自身は、そんな彼女たちのかしましいさまをにこにこと楽しく聞いている。
「名前はどうするの? あたしたちが適当に呼んでいいのかしら」
「それはジークの役目だと、エルダからのお達しだよ」
 ヴェルの答えに、えー、と何故か非難の声が上がった。いささかむっとする。
「俺だと悪いのか、リンデ」
「悪いとは言ってないでしょ。でも男の人の美的感覚ってちょっと心配なのよねえ」
 十六の小娘に言われさすがに顔が引きつった。ヴェルがそっと背中を叩く。島の女が強いのは、ここで暮らす彼には身に沁みているのだ。
「早く決めてあげてよ。呼ぶ名前がないと不便なんだから」
 ここにいると槍玉に挙げられ続けるので、早々に退散する。
 途中ヴェルは腰が痛いという老婆に引き止められたので、ジークは一人で診療所へ戻ることにした。
 石の多い小道をぶらぶら歩いていると後ろから軽い足音が近づいてきた。誰だろうと思って振り返ると、その瞬間蹴躓いた少女を目にし、胸の中に抱きとめていた。
「ごめんなさい! まだちょっと、足を動かすのに慣れていなくて……」
 名無しの眠り姫はそう言って飛び離れる。ちゃらら、と浜の小石が鳴った。
 裸の足はその音を鳴らす細かな石で傷ついているらしく、赤くなっていた。
「……診療所に靴があったな」
 言いながら少女を抱き上げた。
 あっと驚きの声を上げた少女は軽く、結ってもなお長い髪が宙にきらめく。彼女は小さく縮こまりながら「ごめんなさい」ともう一度恥ずかしそうに言った。
「私、裸足で歩くことがなかったみたい……」
「そのようだな」
 ひれのような足は、宝石を縫い付けた靴に包まれているのが似合いに思えた。
 診療所に着く。座らせて足を拭ってやろうとするとそれはと固辞されたので靴を持ってくることにした。島の気候では暑く思える革靴だが、この娘にはちょうどいいだろう。
「ええと……ジーク、でいいのかしら?」
 呼びかけに目をやると、まだ足を拭っていたので視線を外した。
「ああ」
「助けてくれてありがとう。あの時はぼんやりしていて、ろくにお礼を言えなくてごめんなさい。後からあなたに言わなくちゃいけないことがたくさんあることに気づいたの」
 汚れた布を水の張った盥に戻すと、彼女はまっすぐにジークを見た。
「あなたのあの剣のこと」
 波音が響いている。
 それに紛れてちりちりと鳴いているのはジークを縛る呪いの剣だ。島の聖域で仮に鎮められているが、餌である生と死を求めてジークを追い立てる。我を使え、力を放てと。
「あれは使ってはいけないわ。わかっていると思うけど……あれはあなたの命を喰らう剣でしょう? 冥魔を滅するとてつもない力を持っているけれど、危険だわ」
 そこまで言って外を気にした。もしかすればと思っていたが、やはり彼女には剣の声が聞こえるようだ。
「言われずとも、すべて承知の上だ。捨てたくとも捨てられん代物なんだ」
 少女は眉をひそめたが、突如得心して頷いた。
「持ち手を選ぶ《魔具》なのね。どうしてあなたがそんなものを持っているの?」
 意外だった。この娘、どうやらそういった知識があるらしい。
 これが自国の人間ならば適当なことを言って怖がらせて追い払っていたかもしれない。だがそこにいる娘はどことも知れぬところからやってきた、なんらかの神秘に触れた存在で、言うなればジークの同志に近い。だから話してもいいかと思った。

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