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「十年以上前、アルガ王国の戦場で屍体に埋もれたあの剣を見つけて以来、俺はあの剣の所有者として選ばれたらしい。島人は誰も知らんが俺が年に一度この島に来るのは、ここにある聖地があの剣を多少なりとも鎮めてくれるとわかったからだ。この島の存在を知らねば俺はとうに命を喰われて死んでいただろうな。折ることは不可能、捨てても戻ってくる呪われた剣で、人の命も死も呪いも喰らいたがる化け物だ」
「あれは何なの?」
 ジークは答えた。
「真実の名はわからん。だが俺は《冥剣》だと思っている」
 呪われた地が生ずる以前、この世に満ちていた魔術が国を統治する力となるよりもずっと昔、力ある者たちが作り上げた道具。その中でも今なお語り継がれるのが三剣と称される三振りの刀剣だった。
 ひとつは《緋剣》。もうひとつは《彗剣》。このふた振りは魔術大国が隆盛を極めた時代に王権の象徴として奉じられていたという記録が残っている。
 だがそれらの時代にも消息不明のまま伝説として語られていたのが、三振り目の剣《冥剣》だった。
 しかしどんなに調べようとも、その形状も力も詳細は明らかにならなかった。人から人へと伝えられる物語だけが、剣が持ち主を選ぶこと、その命を喰らうこと、命と死を欲することを伝えていた。そしてその通り、ジークは剣の求めに応じて生命力を差し出しながら力を振るってきたのだ。
 冥魔を滅してきたのは正義感からではない。剣が要求するから、自身の生命力とともにあれらを喰わせてきただけだ。
「それよりも……お前こそなんなんだ。歌声で冥魔を止めるなど聞いたこともない」
 少女は自分の話になるとへにゃりと頼りなさそうに笑った。
「私もそうよ。自分のことは覚えていないけど、あの力はかつての自分が持っていなかったものだっていうのはわかるから。私が歌っていたのは多分神法機関の聖歌のひとつだったように思うんだけれど、聖歌にそんな力があるなんて聞いたことがないし、そもそも歌っていた時はぼんやりしていたから、もう一度同じことができるかわからないわ」
(この娘……なかなか頭の回転が速い)
 失っているという記憶をひととおりさらい、自身の状況を正しく把握することができている。貴族の子女や豪族の娘だと思われたが飾られているだけではなかったようだ。
 ジークは立ち上がった。
「確かめる方法があるぞ」
 彼女に靴を履かせて再び外に出た。長く編んだ髪を垂らしてジークの後ろを一生懸命についてくる姿は相当目立つようで、すれ違う島人にどこに行くのかと尋ねられ聖域だと答えると、不思議そうな顔をしながらも気をつけてと見送られた。ジークが何らかの理由でエルダに聖域の立ち入りを許可されているのは周知されていたから少女を伴ってそこに行くのなら不思議に関わることだと納得したのだろう。
「悪いことはするなよう」と中にはにやにや笑う者もいたが「馬鹿」と返し、不安げな顔をする少女に説明を加えた。
「島の中央の森には聖域がある。あの剣はその泉に沈めてあるんだ。いつも腰に下げているわけにはいかないからな」
 結界の縄を越えると辺りは急に静かになった。かすかな水音が聞こえると、めずらしそうに木や花を眺めていた少女は大きく息を吸い込んだ。
「清い水のにおいがする……あ!」
 緑の陰で碧く染まった泉を見つけるとジークを追い越してそれを覗き込んだ。森にたどり着ける生き物たちもあまりやってこない、澄んだ泉に姿が映り込む。風の生み出すさざなみがゆらゆらと彼女の像で遊んでいた。その奥底を覗き込むと剣が沈んでいる。
 沈黙していたはずのそれはジークの訪れに反応して火花のような音で鳴き始めた。
「鳴いている……あなたが近づいたからね?」
「ああ。俺以外にこいつは動かせないらしいから、力を使えと喚くんだ」
「私は何をすればいいの?」
 ジークは水面に手を伸ばした。
「今からこの剣を目覚めさせる。お前の歌でこの剣が鎮まれば、お前の力は本物だ」
 ばしゃり。水の守護を掻き乱し、剣を手に取った。
 ――…………!
 剣がひと際高い声をあげる。
 あっという少女の悲鳴が聞こえ、気がつけば自身を取り巻く炎はいつにも増して激しくなっていた。熱と痛みが内側を掻いて歯を食いしばる。
 少女は青ざめて絶句していた。口を開くが震えるだけだ。
(歌えないか)
 諦めかけたその時、白く華奢な喉が大きく動いた。己を律する強い目できっとこちらを見据えたかと思うと、一度唇を結ぶ。
 そしてその開いた花びらのような唇から、まっすぐな歌が流れてきた。
(……母音唱歌)
 歌詞を必要としない、母音だけで旋律を奏でる歌唱。曲はやはり聖歌だった。歌い手としては磨かれていないがたどたどしさはない、素直で伸びやかで、凛然と澄んだ歌声が天を突き抜けていく。
 緑葉が雫を落とす音。風が息をひそめる静寂。鳥の無垢な眼差し。世界と溶け合わなければわからないそれらを近くに感じたとき、根深く燃えていた炎の色が変じたのを見た。
 青紫色。あるいは菫色。白みを帯びた清々しい夜明けの色だった。
(苦しくない。身体が軽い……)
 呼吸する度に感じていた、内側を削られるような痛みが消えている。剣が燃やしていた力の源は、ジークではなく世界のどこかから集められたものに変わったようだった。
 短くゆったりとした旋律を二度繰り返して歌が終わった。口を閉ざした少女はジークに目をやり、鎮まった剣を見た。そして何故か、頬を赤く染めた。
「……手抜きじゃあ、ないのよ。いきなり歌えって言ったって、何を歌えばいいかすぐに思いつかなかったんだもの」
 ジークは噴き出した。自分が成し遂げたものよりも、そんな些細なところを気にして赤くなるのが随分可愛らしいと思ったのだ。
「責任重大なことをさせておいて笑うなんて! もし何の効果もなかったらどうしようって思った私の気持ち、わかってないでしょう!」
 笑いを収めた。
 少女は顔を真っ赤にしていたが今度は羞恥が理由ではない。――怒っているのだ、それも本気で。それ以上何も言わなかったが、きらきらと輝く瞳は収まりきらない感情を鮮やかに表していた。
「悪かった」
 ジークは詫びた。自分が誰かもわからない、力の由来も知らない、なのにいきなり歌ってみろと言われて、もし目の前の得体の知れない男に何かあったらと思った気持ちを理解したからだ。
「そう思うならどう感じたか教えてくれる? ……これはやっぱり、私には剣を沈めたり冥魔を抑えたりする力がある、ということなのよね?」
「……ああ。そのようだ」
 菫色の炎はジークの頷きに応じて消えていった。
 剣をもう一度泉に沈める頃には空は暮れていた。闇が濃くなる前に村に戻る。この島に獣はいないが、闇に潜むこの世ならざるものは警戒してしかるべきだった。
「冷えるな。大丈夫か?」
「大丈夫、……っ」
 少女がくしゃみをした。見逃してほしい、という沈黙が漂ったが、ジークは彼女を連れて一度診療所に戻った。戻って来たヴェルに足の傷を診るよう頼み、数少ない己の荷物から肩掛けを取り出して戻る。
「ジーク、彼女はまだ目覚めたばかりなんだぞ。もうちょっといたわってやれよ」
「だからこれを持ってきた」
 そう言って少女の身体をそれでくるんだ。
「へえ、めずらしい。君、そんなもの持ってたのか」
 薄い青の毛織り物。貰い物だ。持ち歩く理由はないのに手放せないでいたものだが、役立てられるならちょうどいい。
「エルダの家まで送ろう」
「お嬢さん、送ってもらいなよ。夜になると道がわかりづらくなるから」
 ヴェルにもそう言われ「お願いします」と少女は素直にそれを受けた。
 夜は駆け足で訪れるものだということをこの島に来て実感する。いつもなら時々に立ち止まるようにして時間の経過を感じたりはしない。夜が明けて日が沈むその間に何をせねばならないかと考えるばかりだからだ。
 星に埋め尽くされた空は、真珠と金剛石を散らしたかのように美しい。波打ち際で、白く泡立った波が星と同じように輝いている。
「綺麗ね……どこかで見たことがあるのかもしれないけれど、きっといつ見たとしてもこの島の空と海を綺麗だって言うと思うわ」
「この島は《死の庭》の影響をあまり受けていないからな」
 だがこの美しい空は生贄を捧げることで守られている。世界は犠牲を求め、彼女たちを捧げて人は生きる。東の彼方に消える者の思いを知らぬまま……。
「……あなたはきっと故郷にいい人がいるのね」
 ふと振り返ると、切なく細めた目をして少女が肩掛けを外していた。
「これ、女物でしょう? 大事なものなら手放してはいけないわ」
 すぐに気づかなくてごめんなさい。そう言って彼女は肩掛けを差し出したが、ジークは顔を背けてそれを受け取らなかった。
「拾い物とさほど変わらない貰い物だ。俺のところにあっても意味がない。お前にやる」
「でも」
「顔も名前も知らない相手から押し付けられたものだ。どうして未だに持っているのか自分でもよくわからなかった。手放す機会ができたなら、ちょうどいい」
 そんなものを押し付けて、とは批難されなかった。彼女は黙って自分にそれを巻きつけ、ジークの三歩後ろをとぼとぼと歩いている。風と海があるおかげで沈黙は息苦しいものではなかったが、お互いが言いたいことを抱えているのは感じ合っていた。
 とにかく彼女の聡明さのせいだった。ジークが語ることのできない過去に忘れがたいものがあることを察し、それを問わない優しさがあった。彼女の沈黙には明朗さと誠実さがあり、それを感じているジークは相手を拒絶する子どもじみた態度を取るしかなかった。
 話せば彼女は受け止めるだろう。そして自分はそれに甘えるのだと思うと、黙り込むしかなかったのだ。
 立ち話をする村人の姿が見えたところで、少女はジークを追い越し、手を振った。
「ここからなら帰れるわ。今日はありがとう、ジーク。また明日」
「……プロセルフィナ」
 きょとんと少女は目を瞬かせた。
「……名前はすぐにでもあった方がいいだろう? 気に入らなかったら別のものを考える」
 少女は小さく微笑んだ。
「……ルーナリオンの書いた、死の国の女王の名前ね?」
 作家ルーナリオンの物語に登場する女神。死を司り、その冥き国を守護する少女神。処女であり妻、女王であり女神。名をプロセルフィナという。目の前の少女が冥魔を鎮める娘だと知った時からジークの中にあった名前だ。
「どこで読んだのかは聞かないで。私にわかるのはそれをどこかで読んだということと、それを書いたのが誰で、その人が他に何を書いたのかということくらいだから」
 ジークの疑問を察して微笑する少女は無慈悲な死の女王には見えない。夜の暗さと冷たさに守られて、手を伸ばして子守唄を請いたくなる穏やかさに満ちている。
「私は、プロセルフィナ。素敵な名前をありがとう。おやすみなさい、ジーク」
 少女――プロセルフィナは身を翻す。
 中途半端に挙げた右手を下ろし、自嘲する。呼び止めてどうするつもりだったのか。言葉を重ねて詫びたとしても、彼女は素性を怪しんだことに気づいていた。死の国の女王の物語を知るならその名に込められた意味も察しただろう。
 過去諸とも一度死に、再び世に出て新たな生を行く。死から舞い戻り、死を従える者。ゆえにプロセルフィナ(死の国の女王)。
 彼女は恐らく二度と過去の自分には戻れないと理解している。過去を取り戻すには莫大な労力と時間と金銭を必要とするため、別の人間として生きるしかないであろうこと。
 ジークはため息をつく。
「もう少し鈍感なくらいがちょうどいいと思うがな……」
 そのくらいが扱いやすくていい――《冥剣》の鎮め手として利用するならば。
 目に焼きついた彼女の微笑みに思い出す。《冥剣》の伝承、その一節。
 ――この世のどこかに剣の鎮め手が存在する。その者がかたわらになるのなら、剣の主の運命は変わる。剣は正しい力でもって、新たな世界を拓くだろう……。

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