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 夏至の夜は魔法の力が強くなる。失われた世界への扉が開き、そこからやってくる者たちがいる。角を持つ馬、翼の生えた猫、透き通った蝶の羽を持つ精霊、小さな人々、牙を持った夜を好む魔性や、生気を吸い取る悪霊。ヴァルヒルムの子どもたちは、祖父母両親からそういった魔のものと人の物語を聞かされて育つ。悲鳴をあげて恐れ、しかしときには笑って。
 そして彼らとともに歌い遊ぶ祭りを催すのがこの日だ。どこの村も街も、夜通しなんらかの催し物を行う。夜の間に人々は近く遠い世界のものたちとすれ違うことができる。ともすれば死者の魂とも。
 そんな慣習によって、ヴァルヒルム王宮でも夏至の夜に会を設けている。ジークに言わせれば要はいつもの舞踏会に名前がくっついただけだ。王侯貴族というだけで強制参加させられてきたものだが、今回だけは自らの意志でその場にいた。古い時代の装飾華美な衣装を身につけて。
 会は夜も更けた頃に始まり、最初は食事をすることで時間を潰すことができたものの、しばらくすると管弦の音色が眠気を誘うようになってくる。踊るという選択肢はない。アルガ王国での振る舞いが噂となって、血塗られた王子の手を取ろうという娘は現れることはなかった。夜が深まるにつれて倦怠感めいたものが漂い始めたが、人々はそれでもよく動き、喋っている。
「ジークハルト、そんなにつまらなさそうな顔をするのではないよ」
「公に仰られたくはありません」
 壁際の椅子に座って、ジークはノーヴス公爵と歓談しているふりをしていた。こういった会を避けている公爵もまた、社交の輪には加わらずに待ち人のことを考えている。
「退席すると後悔するぞ。プロセルフィナは本当にいい顔をするようになったのだから」
 言外に、一度も顔を見に来ずにと責めていた。手紙を返信しないままだったのも公爵は知っているだろう。忙しかったというのが言い訳だとわかっているから黙っていた。
「あの子はいったいどこから来たのだろうね。私は、彼女がさだめられるべくして来たように思える。死の国の女王は美しく可憐な少女だというが、その現し身ではないかとね」
 剣に喰われるか、それとも先に命を落とすか。
 ジークに与えられた運命はそれだ。本来誰もが知ることのない死の運命をジークは最初から持っていた。たった一人の後継として育った自分には常に命を狙われる理由があり、それから逃れるように破滅的な衝動のもとに戦場を走り、剣を振るった。そして生き残ったその戦で《冥剣》に出会ってしまった。剣を手にしたことで授かったのは『お前は不幸な死に方をする』という預言だ。
 あの少女の歌ひとつで覆せるはずがない。
 それでもその存在に縋ろうとする自分もいる。そして彼女を己の運命に巻き込むことを躊躇っている。
 だから会わないし、手紙も返さなかった。ここに来てまだ迷っているのだと知られたくなかったのだ。
 楽人たちが緩やかな円舞曲を奏でている。踊り場にいる男女は身を寄せ合い、たゆたうように揺れていた。
 ――あなたを助けたいわ。
 何があの娘にそこまで思わせるのだろう。死をもたらす剣を振るうこの手に、数多の生死を目の当たりにしてきた荒んだ目に、何を見たのか。
(あの歌を聴きたい)
 不意に思った。あの声には何もないと、何も変わりはしないと確かめたい。そうして――何かが変わるかもしれないと思い直してみたいのだ。そんな風にして否定し、自重し、それでも信じようとした三ヶ月だった。
(来るな。……来ないでくれ)
 そして今臆病風に吹かれて、彼女が姿を現さないことを祈っている。
 だって俺は、お前に何もしてやることができないのに――。
「……遅いな」
 手元に置いた葡萄酒に口をつけて、公爵は呟いた。
「到着の知らせも、遅刻の連絡もない。何かあったのか……?」
 想像が駆ける。もしあの娘がこのまま逃げたとしたら?
 アレマ島にいたときから注目を集めていた娘だった。彼女に懸想していたのはムントの他にも何人かいたことをジークは知っている。もし三ヶ月の間に、例えばロストフの屋敷に出入りしていた者や、近隣の村の若者と恋仲になっていたら。
 何とも言えない、黒々としたものが肚の中を巡った。苛立ち。腹立ち。これは怒りだ。
「本当に遅い。いったい何があったんだ」
 公爵が入り口を睨みつけた。

       *

 ロストフの屋敷から王都近郊の別邸へ移り、ノーヴス公は先んじて王宮に入った。到着の知らせを持ってきたのは三ヶ月ぶりに会うレギンだった。
 別邸から王宮まで移動する際、レギンと彼の部下に護衛を務めてもらう手筈だった。都市が近いといっても冥魔や野盗を警戒しなければならない。すでに公爵の別邸に特別な誰かが滞在しているという噂が広まっているらしいからだ。
「まあさすがに何もないと思うけどね。距離はあるけど、誰かが襲われたって話は聞いたことがないし」
 やがて準備が整えられ、プロセルフィナは公爵家の紋章が入った三頭立ての馬車に乗り込み、護衛の騎士を四人つけて出発した。
(ジーク。もうすぐ行くから)
 再会したときどんな反応をするだろう。楽しみな反面、何も変わらないいつもの仏頂面が出迎えてくれそうで笑いをこらえきれない。
 淑女にふさわしい姿になっても、何も変わったように思えない。だがきっと自分の内側に彼を助けるための力が眠っていると、手を握って信じることにした。
 夏至の夜にしては妙に風が冷たいのが気になった。《死の庭》の力が強いのだろう。異界の気配が風となって吹いてくるのだ。
「フィナ」
 並走していたレギンが呼びかけたので窓を開ける。
「先遣隊が、冥魔が出たらしいって情報を聞いてきた。突然で悪いけど迂回路を使う。遅くなるけど絶対会には間に合わせるから」
 不穏な気配を敏感に感じ取っているのだろう、レギンが真面目な顔をして言うので、プロセルフィナの表情も強張った。数十分程度の道のりで冥魔に襲われるかもしれないなんてどのくらいの確率なのだろう。それともジークの運命に絡みついたものが邪魔をしているとでもいうのだろうか。
 馬車の速度が増した。こうなったら一刻も早く街に入った方がいい。街が完全に冥魔の出現を防ぐわけではないが、人の集まる場所は比較的安全だと考えられていた。
 馬車に揺れられるプロセルフィナには、護衛の任についてくれているレギンたちを信じることしかできない。王宮に向け、都に入るべく街道を走り抜けていたところ、遠く、獣が吠えるような声を聞いた。
 なんだろうと思った瞬間、ぞっとするような冷気と異変を感じ取る。警告を発しようとしたときには大きく右に回っていた。馬車の箱が勢いを殺しきれず横転し、衝撃で一瞬何もわからなくなった。
 ――オオオオオオゥ……!
 冥魔の声だと気づいて我に返る。
(歌を!)
 プロセルフィナが神法機関の聖歌を高らかに歌い上げると、わあわあと騒ぐ声も冥魔の声も聞こえなくなっていた。やがて扉が開かれて手を伸ばされる。レギンだった。
「負傷者は!?」
「人間は全員無事。けど馬が……」
 馬車から飛び出すなり問いかけたプロセルフィナに、肩で息をしながら答える。馬車を引いていた三頭と騎士たちが乗っていたうちの二頭の馬が横たわり、荒い息をして身体を痙攣させている。暗くてよく見えないが呪いを受けたようだ。
 呆然とし、唇を噛んだ。
「こんなところで冥魔に襲われるなんて……」
 すぐそこに城下町の光が見えるが、今の格好のまま徒歩で行くには辛い距離だ。
(ジーク。待っているわよね。待っていてくれるわよね……?)
 焦燥で目が焦げ付きそうだ。夜は短く、終わりつつある。このままでは夏至が終わる。魔法の世界の扉が閉ざされてしまう。
 ――だがまだ夜は明けていない。
 プロセルフィナは周囲を見回した。
 馬がやられ、負傷者はいるが冥魔に襲われたわけではない。無事な馬は護衛たちが乗っていたものがあるが、馬車の車そのものが壊れているらしく、これを使って移動することは不可能だ。
 城ではきっとノーヴス公爵が気を揉んでいる。そして、ジークが待っている。
(諦めないわ、絶対に)
 誰よりも何よりも、プロセルフィナの存在を疑問視していたジーク。無感動な目、別れの言葉には、どうせ自分が救われるわけはないのだと諦観がにじんでいた。
 でもあなたは私を見つけてくれたのだ。
 プロセルフィナは過去が失われたことについてひとつの推測を立てていた。きっと私はなんらかの事情で死を選んだ。必要のない人間だったにちがいない、ということだ。
 何故なら異端は消去される。人ならざるものは不幸だから。
(私はこの不思議な力をこれから持て余すことになる。でもあなたがいるなら、私はきっとこの世で必要とされる人間になれるのよ)
 新しい人生を生きてもこの力がついて回る。追われるか、崇められるか。恐らく幸せな人生は望めまい。でもジークのそばならこの力に意味がある。そのはずなのだ。
「レギン様、別邸に戻って車を用立ててまいります!」
「仕方がない、それが一番……、フィナ!?」
 プロセルフィナは毅然と顔を上げると、馬の背にまたがった。
「ごめんなさい、レギン。私は誰よりも城にたどり着かなくてはならないの。この馬で二人乗りが無理なら、私だけが行くわ。途中で冥魔に襲われるかもしれないけれど、そこで終わるなら私はそこまでの人生なんだと思うの」
 拙い乗り手に騎乗されて動転する馬をなだめながら、必死に言う。怖い。失敗したらどうしよう。だが強張る顔でなんとか笑ってみせる。
 レギンは真顔だったが、やがて微笑みを浮かべた。
「……うん、わかった。不甲斐なくて、ごめん」
「あなたのせいじゃないわ」と首を振った。その首で鳴った重い宝石類はすべて外して付き添いの侍女に放り投げる。
「ここに残る者のための二名を置いて、残りは城に向けて出発する!」

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