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 レギンの号令に人々が動き出し、足がなくなった侍女や騎士たちを置いて、プロセルフィナは再び出発した。馬の腹を蹴り、走り出す。
 足首まで覆う薄布の外套が大きく翻る。すでに全身に汗をかいていた。髪も崩れてしまったようで、首に毛先が当たっている。だが誰よりも速く馬を駆った。
 ジークが待っている。待っていなくても、本当に来たのかと驚かせてやりたい。公爵を裏切りたくないという思いもプロセルフィナの掛け声を大きくする。
「もっと急いで! お願い!」
 星よ消えないで。どうかお願い、夜を永遠に。精霊、妖精、魔性たちよ。力を貸してほしい。夏至の魔法、聖と邪の両の顔を持つ異世界の女王よ。彼の元にたどり着けるのなら――《死の庭》にでもなんでも祈ってやる。
 前方に出現した黒点をきつく睨みつけた。
「《どきなさい》」
 声が力ある響きを持つ。
「《私の邪魔をしないで。どいて!》」
 死の獣たちは低い姿勢をとったが、プロセルフィナたちが走り抜けるのに襲いかかってくることはなく、獲物を見過ごさざるを得ない憎々しげな目を向けるだけだった。
 風の匂いが変わった。鼻先をかすめた冴えた冷たさ、闇が一瞬深くなる。夜明けが近づいてきている。
 地平線に再び影が出現する。再び声を放とうと口を開きかけたが、それらがすごい勢いで近づいてくるので目を見張った。先頭を来るあれは。
「アル……!」
 呼び声が届いた。プロセルフィナは手綱を引き彼らに向き直った。
 やはりアルだった。お仕着せをまとっている彼らは驚いた様子で停止した。
「無事でしたか! 馬車はどうしたんです」
「冥魔に襲われてだめになったの。先行するのに何人か置いてきてしまったから、迎えに行ってあげて」
 アルが視線を巡らせると騎士二人が馬を駆けさせていく。
「とにかく、城へ入りましょう。ジークと面会する機会は後日改めてということになりましたから」
 プロセルフィナは愕然とした。
「どうして? まだ夜は明けていないわ!」
「あなたは今の自分の姿を見ていないからそう言えるんです。このまま城にたどり着いても、身支度している間に会が終わります。この状態で無理して会う必要はない、失敗してしまっては意味がありませんから」
「約束したのよ、私は。これは賭けなのよ。私が無事にたどり着けるかどうか――ジークのそばにいられるか、剣の鎮め手としてふさわしいかどうか」
 ジークの名が出た瞬間、アルの怜悧な面に痛みが浮かぶ。彼もまた諦めたくないのだ。
「予定通りにしてはあなたの言うように間に合わない。でも別の方法をとればうまくいくかもしれない」
 公爵はプロセルフィナを謎めいた娘として出現させる予定だったという。ならばその売り文句を用いて、別の形で効果的に演出できる方法があるはずだ。
 喉に触れる。
(私にはこれしかない)
 アルとレギンに告げる。
「すぐ城に戻って、今から言うことを実行してほしいの。お願いみんな、力を貸して」

       *

 ひとり、ふたりと広間を後にしていき、会は終わりを迎えようとしていた。帰宅した者たちはこれから昼近くまで眠るのだろう。そして魔法世界の扉が閉じる前に幻影たちは元の世界へ帰っていく。ジークは淡い眠りに囚われていたが、そのせいで心は凪いでいた。
 席を立つ。
「ジーク」
「夏至の夜に見た短い夢だったんでしょう。いい夢でした」
 きっと魔法でできた幻だったのだ。運命が覆され、世界は拓き、さだめは変わる。そんな甘い幻想は枯れ落ちる花になって、鋭い棘だけが残された。
「ジーク!」
 気色ばんだ公爵が外聞を捨ててジークを呼び止める。
 それに振り返らないでいたときだった。開け放している窓という窓、扉という扉から爽やかな風が吹き込んだ。冷えた露の香りがする。消え行かんとしている夜の名残だ。

  夜の王に露を手向けた
  告げるべき約束の代わりに

 風。
 かすかな歌声が風になって流れてくる。
 いつの間に窓を開けたのかと首を巡らせると、庭に面した窓のそばにいつの間にかアルとレギン、その他騎士たちが戻ってきているのが目に入った。

  儚きもの うつろいゆくもの
  それはいつかの乙女の涙
  彼が愛したあの夜の
  別離を厭うぬくもりの

 人々が憂いを帯びた眠りから目を覚まし、歌声の主を探し始めて広間はにわかに騒がしくなった。ジークはその中を突っ切るようにして、庭に降りることができる露台に出た。
 夜はまだ残っている。花々の陰に。木々の間に。足元の空気に。整然とした庭園の彼方にはまだ星が光っていて、その下に小さな影があった。

  刹那よ 消えゆくものよ

 ジークは露台を降りていく。一歩一歩、やってくる影に近づいていく。
 ――お前なのか。
 声もなく尋ねた。
 お前なのか。俺の運命を握るのは。
 俺の死の運命をともにするのは。

  それは光を告げる鳥の声
  彼が愛して残していった 朝の乙女に捧ぐ花

 近づけば彼女の髪が乱れ、埃を被り、裾を汚しているのが目に入るが、この闇と距離では広間にいる者たちには見えはしないだろう。恐らくこの娘はそれを狙って、明るい広間ではなく庭に現れたのだ。
「《忘却は罪なれど、刻まれた想いは消えはしない》……」
 夜の王と朝の乙女の物語を歌い終え、彼女はジークを見上げた。
 二人の間に闇の名残が吹き、くすぐられたように彼女は微笑む。たった三ヶ月の間に、泥に汚れた靴を恥じて裾に隠し、照れたように笑っている。
「……一人で来たのか?」
 付き添いになる者が見当たらないので尋ねると、彼女は頷いた。
「ええ……いいえ、朝日が供をしてくれたわ」
 指し示された地平に生まれ出る光の宝珠。
 夏至の夜が終わる。
 ジークは手を伸ばし、彼女の肩を引き寄せた。細い首筋に顔を埋め、ため息をつく。それは笑いに変わった。
「……ジーク?」
「いや……しみじみとおかしいんだ」
 人と会うことは仕事のひとつでしかないはずなのに、この娘の微笑みを見て感じたのは安堵で、笑いが込み上げてしまう。
(でも嫌な気分ではない。――それどころかむしろ)
 正直に言えば、会いたかったのだ、ずっと。声を聞きたかった。
 だからジークは肩に回した腕を強く抱き寄せた。
「よく来た、プロセルフィナ」
 急に強くなった腕の力に固まっていたプロセルフィナは、大きく息を吸い込むとジークの後ろ頭をぽんぽんと軽く撫でた。また苦笑と喜びが沸き起こる。だがその表情を見られる前にその細い腰をさらった。
「ジーク!?」
「そんな格好じゃ人前に出られんだろう。もう会も終わる。このまま休んで、後は起きてから考えることにしよう」
 露台から身を乗り出した人々がこちらを見ながら口々に噂をし合っている。彼らに聞こえぬ小声で言っていると、客の中にノーヴス公爵の姿を見つけた。公爵は満足げな笑みを浮かべており、近くにはアルとレギンもいた。側近である騎士たちもまた安堵しながら、ひどく感心し面白がっているようだった。
 プロセルフィナはその注目の度合いにかすかに驚いたようだったが「そうね」と首肯し、ささやいた。
「とりあえず子守唄を歌うわ。あなたのために」

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