<<          >>

 宴での歌唱は、アルガ王宮内にプロセルフィナの立場を作った。
 ジークはルウから会議に招かれ、プロセルフィナは妾妃サラヤンから後宮へと招待された。後宮は王であるルウのもの、彼の許可なくば立ち入ることはできない。許可があったとしても外国人ならば周囲が反対しルウの横暴を糾弾するだろう。だから後宮に招かれるということは、王とその周囲がプロセルフィナを認めたということだった。
 何重にも守られている扉を抜けていくと、広い中庭を横手に見る廊下に出た。渇いた地質に強い植物を植えてあるらしく、太陽の光が変わるほどの緑で溢れている。せせらぎの音は水路や池によるものだ。奥へ行くと、最も涼しいと思われる木陰の東屋に招待主であるサラヤンが侍女にかしずかれて寝そべっていた。
「ごきげんよう、プロセルフィナ様。どうぞこちらへ。檸檬水をどうぞ」
 素顔をあらわにしているサラヤンは、目を見張るほどの美少女だった。絵画から抜け出てきたかのような現実感のない美貌は、陶器のような肌や長い睫毛、澄んだ瞳、波打つ髪と、光り輝くすべてでできている。彼女が後宮の主であることは疑いようもなかった。
 一瞬呆然としてしまったが、客である立場を忘れてはいけない。
「ごきげんよう、サラヤン様。お招きありがとうございます」
 涼しいところを譲られ、座る。
 東屋の外からはわからなかったが、中に入ると獣の彫刻がこちらを見下ろしている。この国の人は石を彫るのが得意らしい。獣の毛並みの質感が見事だ。
「プロセルフィナ様、後宮の者たちに贈り物をいただき、ありがとうございました。皆たいそう喜んでおりました」
 この旅では贈り物として、ジークは国の威信を示すものを、プロセルフィナは後宮の妃たちに当ててささやかな菓子類を持参していた。贈ったのはヴァルヒルム周辺で収穫される樹液の蜜で作った砂糖菓子だ。
「喜んでいただけてよかったです。本当にささやかで申し訳なかったのですが」
「そんなことはありませんわ。外国のお菓子を食べる機会なんて滅多にないことですから。それにお手紙までいただきありがとうございました。それにお詫びしておかなければ……下の者たちがお手紙を送りつけているらしいこと、聞き及んでおります。ご丁寧にお返事を書かずともよいのですよ。ご負担でしょう?」
 砂糖菓子を贈ったことと宴での歌唱のせいか、後宮の女性たちからお礼と歌を賛美する手紙をどっさり受け取ったプロセルフィナだった。
「いいえ。見知らぬ方々と手紙を交わすのは楽しいですから。ただ手が追いつかなくて、いただいた順にしかお返事できていないのが心苦しいんですけれど」
 そう答えて飲み物に口をつけた。檸檬の爽やかな香りとほんのり甘みがついた、冷たい果実水だった。
「外国の方にはおめずらしいものですか、この宮殿は」
 いたずらっぽく笑うとサラヤンは急に幼い顔になる。もしかしたら思った以上に年下なのかもしれない。
「立派な宮殿で、つい見惚れてしまいます。北とはずいぶん違いますから」
「わたくしはそのお衣装に興味がありますわ。暑くありませんの?」
 言われて自分を見下ろした。薄い生地のドレス、しかし日焼けを防ぐために袖は長く足を隠す丈のものだ。片や後宮の女性たちは、胸元を覆い、ふっくらした脚衣を着て腕とお腹をむき出しにしている。透き通る肩掛けをまとってはいるがプロセルフィナでさえ目のやり場に困るほど艶めかしい。
「昼間は確かに暑いです」
「でも髪が短くて涼しそうです。この国ではそれほど短くするなんてありえないのですよ。一度も切ったことがないという者がほとんどですわ」
「私も少し前までは床をこするほど長かったんです。短くすると手入れも楽ですし、体が軽くなったように感じます。さっぱりして気持ちがいいものですよ」
「どうして髪を切ろうとお思いになったの? 北でも女性の髪は長いのが一般的なのでしょう」
 理由は、たくさんあった。切らなければならないと思ったし、新しい自分になりたいと思った。何かを始めるためのきっかけにしたかったのだろう。でも振り返って思うのは。
「生き直そうと思ったからだと思います」
 侍女たちは目を瞬かせたが、サラヤンは微笑みを浮かべた。
「そのように髪を切って外へ行き、自由にものを言うあなたをここに止めるのは無理そうですわね。権王陛下の目論見は大はずれのようですわ」
 プロセルフィナは目を瞬かせた。
「陛下はジークハルト殿下を説き伏せて妃にしようとお考えです。わたくしはあなたの説得を命じられました」
 絶句した。
 サラヤンは恋敵になるかもしれない女に対してころころと鈴の声で笑う。
「そんなにびっくりなさらないで。昨夜の歌を聴けば、あなたを手に入れたいと思う殿方が現れるのは仕方のないこと。そして権王陛下はあなたの価値をお認めになったのです。ねえ、プロセルフィナ様。よろしければ後宮へいらっしゃいませんか? この小さな箱庭はとても静かで、あなたの心を乱すようなものは何もありません」
 プロセルフィナは庭を見遣った。
 爽やかな緑や風を感じ、ゆったりした時を過ごせれば心は安らかだろう。けれどそこにプロセルフィナを求めて、お前だけだと言ってくれる人はいないのだ。
「ルウ陛下のために歌うことはできません。私の歌はジークハルト殿下のためにあるのです」
「わたくしには大役に過ぎたようだと申し上げておきます。お許しくださいませね。権王陛下はご存じないのです。心に決めた方がいる女は勇猛な戦士にも引けをとらぬことを」
 そう答えることをサラヤンは最初から知っていたようだった。
 たたっと外の敷石を踏む音がした。
 桃色の布をひらひらとさせた少女が駆け込んでくる。大きな目をますます大きくさせると、くしゃりと顔を歪めじだんだを踏んだ。
「ずるいわずるいわ! サラヤンねえさま。春星花(はるぼしはな)の君を独り占めになさるなんて。あたくしだってお話しするのをとっても楽しみにしていたのよ!」
「マーリ。はしたなくってよ」
 もう一人の後宮の主は涙目になって膨れている。
「……春星花?」
 プロセルフィナが呟きを拾って、マーリはぱあっと顔を輝かせた。
「サラヤンねえさまが夜咲花(よるさくはな)、あたくしが夏輝花(なつきばな)なんです。あなたには春星花の君という名前をつけたの。いい名でしょう? 希望と春告の花。白くてとっても可憐な花なんです。ご覧になったことありますか?」
 サラヤンの呆れをよそに胸を張るマーリが微笑ましい。
「ええ、あります。光栄です、とても綺麗な花だと思っていましたから。おふたりの夜咲花と夏輝花というのも素敵ですね。詩篇ができそうです」
 初対面の時を思うとその変わりようにびっくりするが、しっとりした夜の露の気配がするサラヤンは夜咲花だし、くるくると変わる表情と明るい声を持つマーリは夏輝花という名がぴったりに思える。
「作ってくださってもいいのよ? 春星花の君が歌ってくださいね。あなたの歌、とってもとっても素敵でしたわ!」
「マーリ、いい加減になさい。……本当に申し訳ありません」
「いいえ。サラヤン様とお話しすると落ち着きますし、マーリ様とお話しすると励まされますから」
「そう言っていただけると救われる思いですわ。見習いなさい、マーリ」
 むうっと唇を尖らせた顔がお面のようにひょうきんで可愛らしかったので、肩を揺らして笑ってしまった。
 檸檬水を飲みながら他愛ない話をした。彼女たちの興味はやはり外の世界にあった。プロセルフィナはいつかのお茶会を思い出しながら、ヴァルヒルムのサンクティアや、美術館や博物館について話した。当たり障りのない会話になったのは詳細まで深く語ることはしなかったからだ。彼女たちが何かするとは思えないが誰かの耳に入ることを想定して話を選り分けておかなくてはならない。これは外交なのだ。
「歌はお勉強なさったの?」
「あくまで家庭教育の範囲です。王立音楽院で学ぶ人たちに比べればまだまだです」
 ノーヴス公爵の屋敷で音楽専門の教師に指導を受けたのが、もうずいぶん昔のことのように思える。公爵も教師も十分な力を持っていると言ってくれたが、やはり一般的よりもやや上という程度で、プロセルフィナ自身が納得できるほどの技術はまだ身につけられていない。冷静になって考えてみれば、昨夜の喝采は、異国人の風変わりな客人がちょっと上手い歌を歌ったという程度のものだっただろう。
「だから機会があれば音楽院に通ってみたいと思っています」
 その一言は心の底から湧き出たものだった。
 それが誇らしく見えたのだろうか、マーリが少し羨ましそうな顔をしたが、次の瞬間にはふふんと笑って胸を張った。
「この国にもいいものがあるのよ。――アルガにはまだ魔法が生きているの」
「魔法、ですか?」
「そうよ。各地の遺跡には魔法の力が未だ眠っているの」
 南方国の遺跡は精霊、あるいはエルテナのものだ。一説によれば初代の《死の庭》の乙女は、魔法の力で遺跡を守る民族を率いていたという。そうしてその民族も消え去り、魔法の力も希薄になったこの世では、遺跡はただ朽ちていくだけのものになっている。
 するとサラヤンがそっと説明を添えた。
「おとぎ話ではなく真実なのです。たとえば……エルテナにまつわる遺跡の一つ、ナリシュ神殿跡の人工の泉。今は枯れてしまいましたが、雨が降った後などには水が溜まります。この時に不思議なことが起こるのです」
「この泉を覗き込むと、その人の『真実の姿』が現れるの!」
《死の庭》の護人にまつわるものが多い土地ではあるが、どうしてそこまで確信を持てるのかがわからないでいたが、ふたりの微笑みに気がついた。
 その笑みを知っている。アレマ島のエルダやノーヴス公爵が時折見せた、常識では計ることができない神秘や深い悲しみを知る者の顔だ。
「……あなた方は、ご覧になったのですね」
 その泉で『真実の姿』を。
 ふたりの魅惑的な微笑みが答えだった。
 そのとき呼び声がしてサラヤンが顔を向けた。侍女がプロセルフィナに、ジークが呼んでいることを知らせてくれた。会議が終わったのだろう。今後どう動くかが決まったにちがいない。プロセルフィナはサラヤンとマーリに丁重に辞去の挨拶を述べた。
「またお会いしましょう」
「泉を覗いたら何が映ったか教えてくださいね。きっとよ!」
 眩い緑の園を後にし、後宮と本宮をつなぐ扉をくぐり抜けた。案内は女性から男性に交代し、女性たちがまとっていた香りが遠ざかっていく。
 柱の陰にいたジークと騎士たちを見たとき、プロセルフィナはほっと息を吐いていた。
「どうした?」
「後宮って魔的なところだなって思ったの。平凡な私には無理ね、お断りしてよかった」
 あの場所にいるだけで見えないものに絡め取られていたように思う。美しくて整頓された場所ゆえに、自分がその箱庭の中の人形になったかのようだった。意思はあってないようなもの、与えられた役割をこなすだけのものになる。必要とされたがっていた以前ならそれでいいと思っただろうけれど。
「……どうしてじっと見るんだ?」
「私も変わったなと思って」
 ただ必要とされたいだけじゃない。あなたのために歌いたいと思っている。そして、その自分の歌をもっと磨きたいと考えられるようになった。
 ジークは首を傾げたが、悪いことを考えているわけではないとわかったらしく仕方ないなという顔をしていた。
「それで? 私を呼んだということは予定が決まったのね」
「ああ。東にあるナリシュ遺跡の調査に行く。初代《死の庭》の乙女に関係がある神殿跡地だそうだ。ふた晩ほど野営することになるだろう、悪いが付き合って……、どうした?」
「……この国の女性は魔法が使えるのかしら。断ってよかったわ……」
 しみじみ言うと男性陣は顔を引きつらせたが、懸命にも掘り下げることはしなかった。

<<          >>


|  RETURN  |