庭の薔薇が揺れている。今日は風が強いからだった。薔薇の香りはきっと満ちているだろうに、そのせいで窓を開けられない。代わりにそそいだ薔薇の香りの紅茶を、エリザベスは主に差し出した。
 何事か考えているように軽く机を叩いていた高遠は、やがてエリザベスにゆっくりと言った。
「『アレ』は、新システムの導入にエリシアを使うつもりらしい」
 アレ、が指すものを思考は素早くはじき出したが、理解したくないという感情が先立った。叫びが洩れていた。
「なんですって?」
 愕然としたエリザベスだったが、はっと、自分が侍る主が泰然としたままなのに気付き、我を取り戻す。そして、押し殺した声で尋ねた。
「彼女は人間ですわ。あたくしたちと違って、候補にすらなれません」
「だが選ぼうとしているのは間違いないだろう。エリシアが生まれた時点で、考えなかったはずがないからな」
 高遠は薄く微笑した。
「心配するな。脅威にはならん。こうなることを考えて、教育を奪い、知識も必要最低限にした。アレを養育する者もおらん。戦いを生き抜く力はない」
「ええ、存じております」と相槌を打った。エリザベスの脳裏には、彼も見ていた成績表と周囲の評価の報告書が脳裏をよぎる。もし、彼女が第三階層での教育を受けていたのなら、どれほどの知識者になっていただろう。第一階層に落とされ、必要最低限の能力しか身につけることができなかったはずなのに、彼女のあらゆる能力の数値は高い。
 摘んだ方がよい。
「……まだ、『上』は決定を下しておりません。しかし万が一ということがございます」
 咲き誇る薔薇の庭が、風に揺れる。薔薇を育てることは難しい。すぐ虫がついたり、枯れやすかったり、いらぬ芽を間引き、雑草は刈らねばならない。これから始まる戦いの舞台に、予想外の芽が伸び始めれば、この方の計画が鈍る。それをエリザベスは危ぶんでいた。
「…………」
 高遠は考えていた。
「……あれでも我が娘。ならば決着をつけてやるのが情というものか……」
 そう呟くと、彼は目を伏せた。エリザベスには、主の苦悩が感じ取れた。この時が来ぬようにしてきたのに、彼は結局、その命令を下さなければならなかったのだ。

「――行け。娘を、」



     *



 ぼんやりと夜の街を歩く。ようやく解放されたのに、疲労感は足を重くした。
(消えてしまいたい……)
 涙が滲んだ。父と姉に会うといつも死んでしまえと言われている気がする。

 セットした髪をほどいた。父のための格好だったけれど、むなしさのあまり髪を全部剃りあげたいくらいだった。つるつるの頭になった自分を思い浮かべて、あまりの極端さに笑いが漏れた。
 広がった黒髪に開放感があった。そして、絶対に第三階層では生きていけないな、と思う。脱色すると戻すのが面倒なのでいじっていないが、本当はブリーチしたいし、ブラウスはボタンをとめるなんて堅苦しいことは嫌いで、ネクタイは緩めている方がいい。スカートは短い方がかわいい気がする。制服で叱られるのだから、家の中でスウェットを着ている状態を見られたら説教部屋で一時間は鞭打たれるだろう。
 伸びをする。
 もう忘れよう。今度会うのは一ヶ月後だ。それまで自由にできる。

 でも、このまま、こんな日を繰り返しながら大人になって、そして死んでいくのだろうか。
 都市の明るさで見えない空、その向こうに常に存在する第三階層を意識し、そっと息を吐いた。
 下ろした手からピンが零れ落ち、慌てて拾う。地面に落ちてしまったので使えないが、そのままポイ捨てにしてしまうのは道徳的に問題があるからだ。

 パン、と乾いた音がした。

 顔を上げると、目の前の人が、ゴムのようにぐにゃりと足を縺れさせていた。どうしたのだろうと思ったのも束の間、その人は地面に倒れかかってきた。
「うおうっ!?」
 思わず飛び離れると、どさりとしたたかに地面に伏した。帰宅中やどこか食事に向かう人々が驚いたように目を向けたそこに、赤い水たまりがゆっくりと広がっていく。

 誰があげた悲鳴だったか。紗夜子は呆然と、その人が何らかの力で攻撃されたことを理解した。
 反射的に振り返ったのはどうしてだっただろう。周囲の時間が凍るような中で、紗夜子は確かに、美しく笑っている狩人のような女の姿を捉えた。
 次の瞬間走り出した。全速力で。
 再びパン、パン、と音がした。周囲で起こった悲鳴は悲鳴を呼び、もうすでにパニックを引き起こして、大きな人波を作り出していた。
(撃たれた)
 乾いた音、倒れた男性、排気ガスに混じる煙のにおい。
(銃だ。撃たれたんだ。私を……私を狙ってる!)
 人の多い方へ多い方へ走ったのは保身のためだった。必ず追い付かれるという直感があった。
 姿を見たと思った彼女は、紗夜子に言わせれば魔女のような人だった。いつの間にか存在して、いつの間にか家にいた。姿が、初めて会ったときからほとんど変わっていない。それがパニック状態であるための妄想であっても、紗夜子はその考えに取り憑かれていた。
 見覚えのある道に差し掛かり、思い出す。その近くが事故現場で警察がいたはず。
 ローファーはばこばこと音を立て、髪を振り乱し、捨てることも忘れた鞄を抱えて走っていた。目は恐怖のあまりかっと見開かれ、心音は変に大きかった。
 目の前の信号が点滅する。ぎりぎりか、間に合うか。ようやく横断歩道に足を書けようとした瞬間、赤が光り、しかし足を止めることは紗夜子の死を意味した。そのまま走り抜けようとした瞬間。

 手を掴まれた。
「あああああああ!!!」
 思わず叫んで振りほどこうとすると、相手が怯んだのが分かった。周囲の人々も驚いたように紗夜子を見ていた。意味もない言葉を叫んだ紗夜子の目に飛び込んだのは、たくましい腕の刺青だった。
「ああああ、あ、ああ、あ……!?」
「あ?」
 低く柄の悪い声。
「どうしたんだ、お前」
「あ、あ……!」
 どっと汗とともに涙があふれた。言葉にならない。尋常でない様子に彼はさっと周囲に目を走らせる。そして、紗夜子の頭を胸に抱えた。
「落ち着け。何があった」
「あ、あ、撃たれた、銃! 銃が、私……!」
 紗夜子は彼にしがみついて訴えた。不明瞭な回答だったはずだが、それ以上彼は聞かなかった。紗夜子の頭を抱えたまま、信号の向こう、歩道の左右、ビルの上、空、背後の通り、また信号の向こうと素早く目を動かしている。辺りには、風の渦巻く音と、行き交う車やエンジン音しか聞こえない。

 紗夜子はがくがくと震えていたが、辺りが静かだと知り、ようやくほっと息を抜いて離れた。
「よ、よかった……もう大丈夫みた……」
 背後に、何かが降り立つ気配がした。
 振り返ったそこで、黒い何かが、血のような歩行者信号の赤を反射していた。

(う)
 笑う唇が見えた。

(た)
 引き金を引こうとする華奢な指先が捉えられた。

(れる)

 逃げられなかったという絶望に囚われた瞬間。


      



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