冬の午前六時は、まだ青黒い夜に包まれている。足下を漂う冷気は、空に昇れば灰白色の雲になって、上階層を覆っていた。犬の散歩をする者、日課のジョギングをする者、出勤する者たちがすれ違い、ごみを出した主婦がうっすらにじんだ汗を拭いながら自宅へと舞い戻る。
 やがて、朝がやってきた。地平線から昇る太陽が、地平に続く森を照らし、その木々すら飛び越えて、ゆっくりと街を照らす。階層になった都市。落ちるのは簡単、昇ることは不可能だったかつて。今はただのエデン。オブ・イースト。それが、この街の名前だった。

 目覚ましが鳴る音に紗夜子は飛び上がり、慌てて台所から自室へ戻って、アラームを切った。遅れてがなり立てるデジタルの時計や携帯電話のものも切ってしまうと、部屋は一気に静かになった。
「よし」
 腰に手を当てひとつ頷くと、台所にとって返す。
 皿の上に並べられた一口大の料理たちを、紗夜子は小さな箱に彩りよく並べていく。それをきれいな風呂敷で包むと、お弁当の準備は完了だ。作業の合間にトースターが、ちん! と鳴り、ポットが沸騰状態から保温状態へ移行して静かになる。トースターからパンを取り出し、最後の一枚をお皿に並べる。十枚ものトーストが大きなダイニングテーブルの上の皿の上で、こんがりとしたにおいを漂わせているのは壮観だった。コーヒーを入れ、紅茶のティーバッグを上げ、冷蔵庫からジャムとサラダを出して。
 リビングのドアが開いて、笑顔を向けた。
「おはよう!」
「おっはよー!」「おはよう」「ん……おはよ」「……」とそれぞれに返事をしたライヤ、ディクソン、ジャック、トオヤが並んで入ってくる。それぞれの定位置に着席すると、コーヒーや紅茶のポットを、まるで幽霊のラリーのように回し始め、「いただきます」と朝食が始まった。
「サヨちゃーん、今日もおいしいでー」
「うん、いい味だ。修行の成果が出ているようだね」
 ジャックもディクソンも笑顔で箸をすすめている。アンダーグラウンドの喫茶店のマスター直伝のモーニングを下敷きにした、シンプルかつおいしい朝食メニューなのだから、おいしくないと嘘になってしまう。
「後でコーヒーも飲んで。今練習中なんだ」
「いいお嫁さんになれるわー。ご予定は?」
「さあ?」
「ふおっ!?」
 ジャックの身体が後ろへ引き落とされた。首根っこをつかんだトオヤが、威嚇するように目をすがめている。静かに怪力で、ジャックを椅子ごと放った。
 がったあん! と朝からとんでもない騒音。
「…………」
 誰も何も言わない中、ジャックがいててと呟きながら起き上がり、寝起きのトオヤは、口も開かず、黙って、無意味なくらいスクランブルエッグをつつき始めた。
(……なんだかなあ)
 もっと言うことがあるだろう、とか、何か反応してほしいとか。遠い気持ちになっていると、騒がしく廊下を駆ける足音がする。扉を体当たりしたのではという勢いで開くと、白いものが賑やかに現れた。
「おはよう! みんなお揃いだね!」
 ばたばたばたっと体育館を走り回るみたいにして、白い少年は、紗夜子や男たちの挨拶ににこりとして、空いた椅子にうるさく腰を下ろす。
「あ、スクランブルエッグだ! 僕これ好き! 紗夜子のご飯おいしいもの!」
「ありがとう、ユリウス」
「紗夜子が作ったものなら、例え卵焼きがげろ甘でも好きって言うでしょうよ」
 赤い姿が現れて、開きっぱなしの扉を閉める。水を差したのは後から追ってきたジャンヌだ。短くなった髪を額からかきあげ「朝から元気よすぎんのよ」と文句を言っている。
「今朝もさあ、この服やっぱりだめ、あの服着たいって言い出して。洗濯中だって言ってんのに」
「大変だねえ」
「まったくよ。【魔女】で娼婦だった女が子育てするなんて誰が予想した? 新しいことばかりで目が回るわ」
 腰に手を当て、空を仰ぎながら大きなため息。でも楽しそうだ。目が笑っている。紗夜子はジャンヌの風呂敷を差し出した。
「ユリウス、今日学校初日でしょ。これ、お弁当」
「助かるわ。あたし味覚ないから。適当な分量は計れるんだけど、それがおいしいかは別問題だしね」
 Sランク遺伝子保持者の、現在の最年長者としてのユリウスはキリサカの保護下にある。ライヤは第三階層に掛け合い、彼を鳥かごから解放したのだった。特別な存在として隠匿されてきた彼は人権を与えられ、ユリウスは、今はジャンヌが保護者となって面倒を見ている。
「紗夜子、ほら、これ生徒手帳!」
 苦笑いと苛立ちと、騒々しさの中の喜びをジャンヌに与える少年は、第一階層の、第一区単位制高校の生徒手帳を持って、紗夜子に身を乗り出す。
「ばたばたしない! 食事中でしょ。行儀悪い」
 叱られてもユリウスは愛らしく肩をすくめるだけだ。
 半年以上にわたる入院で身体を回復させたユリウスは、少し精神年齢が後退したようだった。彼をSランク遺伝子保持者たらしめていた、鋭い直感と心理掌握の力は失われ、残ったのは必要な道徳や常識を欠けさせた、普通の、でもとびきり美しい少年だ。
「あんた、タイ曲がってるじゃない。もう十七でしょ。しっかりしなさいよ」
 ジャンヌがユリウスの肩を押さえつける。
 紗夜子は生徒手帳を眺めた。新入生の氏名は、ユリウス・オメガ=フォー=イレブン。
 紗夜子に己の計画と研究を語った科学者たちは、Sランク遺伝子保持者が母になる場合と、父になる場合を実験していたと言っていた。だから、UGが確かめたことが本当なら、ユリウスは、エクスリスの息子に当たるようだ。
 襟元の黒いリボンを綺麗な蝶々結びにしているジャンヌは甲斐甲斐しい。ユリウスも、何故かジャンヌにはひどく懐いていた。元々人なつこい少年だったが、こうしているとまるで本物の親子のように思える。
「ねえ紗夜子! これから毎日ご飯作ってよ! 僕、お味噌汁飲みたい!」
 ユリウスが叫ぶ。何の影もない明るい銀色の瞳にどきりとすると、テーブルのジャックがちっちっと指を振った。
「ユリウス、プロポーズはあかんで、サヨちゃんには相手がおるやろ?」
 視線が二人に集まる。
 トオヤは黙ってコーヒーをすすっていたが、沈黙に気付いて「あ?」と顔を上げた。
 はあー……というため息が重なる。トオヤが朝に弱いことは分かりきっていたので、紗夜子は気にしなかった。期待した自分が悪いだけなのだ。ユリウスが「僕は諦めてないもんねー」と鼻歌を歌う。
 それぞれに朝食を終え、食器を流しに持って行ってもらって、支度に向かった彼らがいなくなって、あっという間にリビングは静かになった。紗夜子とキリサカの秘書になったUGの青年が洗い物をしている後ろで、今日の天気やニュースの話をする音が聞こえている。
「さよちゃん」
 食卓の片付けを手伝っていると、つつっとライヤが忍び寄ってきた。
「はい、なんですか? そこに立ってるならお皿拭いてください」
「はーい。……多分ねー、当局が結婚とかさせないから心配しないでね。君たちが本気なら、まあ協力するのもやぶさかではないんだけど」
「何の話ですか?」
 きょとんとすると「ユリウスとの結婚」をお皿と布巾を両手にしてライヤは苦笑した。髭も落としているので、改めて見ると彼はずいぶん若々しく、トオヤよりも幼い笑顔をしている。
「一応、君はSランク遺伝子ハーフだし……そういう意味では、計画者たちはすごく期待してるんだろうけど、そうはさせないもんね」
 紗夜子も苦く笑った。
「お願いします。ユリウスは、もっといい子を見つけると思うし」
「一番いいのはトオヤが動くことなんだけどなー。だって、あれからもう一年半でしょ。何もないでしょう、君たち」
「そうですね……」

 エデン革命が起こって、一年と十ヶ月。春が来るからもうそんなに経つのだ。暫定政府は、この一年間うまく機能し、新政府確立への準備を整えてきた。
 UGの代表者はボスで、ライヤは顧問のような形でUGと他階層の代表者を繋ぐ役割を負う。ライヤほど全階層に通じた人間はいないからだ。他の閣僚は、第三階層の代表者であるエガミ氏と七重、タカトオの亜衣子の他、前政府や第三階層からの官僚が数名。第二階層の代表者が数名。UGからも数人が選ばれ、ジャックがこれに入っている。
 最も注目すべきは、初めて全成人者が参政権を持ち、『選挙』というものが行われたことだ。エデンで初めて行われた選挙によって選出された第一階層と第二階層の代表者が加わって、今日から新政府による統治が始まる。
 トオヤはUG官僚の警備部のメンバーになって、毎日主任であるディクソンにこきつかわれているとぼやいていた。でも後日になって「やっぱりリーダーは性に合わないな」と言った。
 二人でどちらかの部屋にいることが多くなった。お屋敷を持っているわけでもないし、官僚として忙しいジャックや警備主任のディクソンもずっと一緒にいるわけでもなくなって、けれど二人きりになっても激しく緊張することはなく、どちらも心地よく呼吸できているように思う。
「俺、やっぱり何も考えずに走っていく方が好きだ」
 二人きりの時、なんとなくトオヤはそうこぼして、らしい、と紗夜子は笑った。

 革命後、アンダーグラウンドの部屋を引き払った紗夜子は、ライヤが拠点としていた第一階層のキリサカ邸で、住み込みの家政婦のようなものになっている。家事の他、事務作業を手伝ったり、簡単なおつかいをしたりしていた。トオヤやジャックは半年前に自分の部屋を借りたが、食事はこうして食べにくることが多い。それが、紗夜子がいつか言った願いを叶えるためなのかと思うと、とてもくすぐったかった。
 毎朝の食事と見送りは繰り返される。遠かったのに、今はこんなに近い。ちょっと騒がしすぎるかなと思うくらいだ。
「煮え切らない男ってだめだねえ」
「落ち着くまでって暗黙の了解があったから、いいんです、別に」
「それでもさあ!」
『あんまり言うと怒ってよ、ライヤ』
 台所のラックに置いた、小皿のような白く丸い円盤の上に白銀の少女が現れる。
「だってさあ、セシリア」
『こういうのはタイミングなのよ。四十になるあなたとは違うの。自分がロートルだってことを、きちんと理解なさいな』
『そうよ、ライヤ。トオヤが怒鳴り込んでくるわよ? あの子だって何にも考えてないわけじゃないわ。ちゃんと仕事をして、世間が落ち着いたらって思ってるわよ』
「だって何にも考えてないように見えるよ、アヤ」
『その時は蹴っ飛ばすわ。だから安心してね、紗夜子さん』
 笑顔でアヤは言う。立体映像の少女に「お願いします」と紗夜子は笑った。
 セシリアとアヤの形を持ったAIは、ほとんどの部分を切ってしまわなければならなかったと、すべてが終わった後、ライヤが言っていた。だからセシリアもアヤも、彼女たちが【女神】やAYAとして得てきた知識は経験はほとんど残っていない。彼女たちはそれぞれの人格を維持しながら【女神】とAYAとして活動しなかったという、再びの人生を歩んでいるようなものだ。しかし、どんなAIよりも優秀な彼女たちは、いずれ自らの記憶を取り戻すだろうともライヤは予測していた。エデンに存在するあらゆる電子機器、サーバーといったところから、自分の行いを過去の経験として認識し、集めた情報によって過去を取り戻していくだろう。あたかも記憶喪失の人間が記憶を取り戻していくように。
 記憶が一部失われたためか、彼女たちは二十代の女性から、十代後半のティーンな年齢の姿を選ぶようになった。気分の問題、とセシリアは言った。まだコンピューターとしては若いんだから、というのが理由らしい。年下のお母さんか、と紗夜子は時々複雑な気持ちになる。
『ライヤ、トオヤがもう出て行っちゃったわよ』
「え? あ! 式典前にちょっと自宅見に行こうって話してたのに! あいつー、声かけてけよなー」
 拭いたお皿を棚に片付けてライヤはジャケットを片手に飛び出していく。
「じゃあ、さよちゃん、またあとで!」
「はい、いってらっしゃい」
 お先ーと言って玄関先でばたつく音。やがて車が発進する音が聞こえてきたから、無事に出発したようだ。
「【聖女】もそろそろ行きなよ。あとはやっとくからさ」
 秘書の彼にそう声をかけてもらって、紗夜子も支度をしてからキリサカ邸を出た。
【聖女】という呼び名も定着してしまった。廃れなかったのが非常に残念だが、もう慣れてしまった。単なるあだ名だと思っている。
 今日の街はどこか浮き足立っていた。人の足並みはせかせかしているし、辺りをきょろきょろしている人が目について落ち着かない。当然かもしれなかった。何故なら、今日付けで新政府が発足されるからだ。マスコミも、住民も、その宣言を待っている。
 ここから始まる。新しいエデンの始まりの日。


      



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