「第一って、ど、どういう感じ? が、学校、とか」
「……別に、普通だと思う。ここと変わんないし」
 静かに答えると、そ、そっか、と悲しげに肩を落とされる。その寂しい様子にちくりと胸が痛んだ。
「確かに、シャーリアの言うことも一理あるよね」
 声を上げたのはリンだ。
「サヨコっていっつも答え適当だし。なんかつまんない」
 ごちそうさまと席を立っていく。彼女の言葉には、シャーリアと同じ「頼まれなかったら」というのが含まれていた気がした。紗夜子は、なんだあんたもか、とため息をつく。
「あと、アンダーグラウンドに学校はないから」
 どきっとして、咀嚼せずに固まりを呑み込んでしまう。何か言おうとリンを目で追いかけたが、彼女は振り返りもせず、ランが食事を終え、じゃあと挨拶してそれを追っていってしまった。
 紗夜子は残され、内心狼狽えたまま、水を一口飲む。
 食堂の、何の責めもしてくれない普段通りのざわめきが、居心地悪い。
 それでも、決心して口を開いた。
「……あの……」
「…………えっ、あ、わ、わた、し?」
 がしゃんと彼女の手が震えてレンゲが落ちる。
 頷く。潔く、言った。
「ごめんなさい。無神経だった」
 教育が行われていない、ということに思い当たらなかった。
 ぷるぷると首を振ってもらえたので、分かってもらえたのかなと不安になりつつ、食事に戻る。

 店の面々が思い思いに食事しているざわめきの中にいると、それでも、まるで高校の昼休みのように思えてきて、胸の奥の暗闇が重たくなってきた。
(私は、どこにも行けない。どこにも居場所がない)
 彼女たちは知っているだろうか。紗夜子が、第三階層から第一階層に落とされ、本当の名を奪われていたこと。父から命を狙われ、家を焼かれ、それまでのすべてを失ってしまったこと。けれど考えても、言っても意味のないことだ。彼女たちはここにいるのだし、同じように、紗夜子は現実にここにいる。
 アンダーグラウンド。人々が忌み嫌う犯罪者の集団とその世界。エデンに不用意な戦いを仕掛け、市民を巻き込んでいると言われているUG。
 けれど、彼らに助けられた。トオヤがいなければ確実に死んでいた。
 シャーリアやリンとランを見ていると、思い出す、大切な友人たちのこと。
(フィオナ、ナスィーム……無事でいるよね……?)
 紗夜子の家は燃やした、とエリザベスは言った。なら、紗夜子の周辺で、最も親しかった二人とその家族に害が及ばない可能性はない。トオヤやジャックと連絡を取る方法を知らない今、ただ祈ることしかできなかった。

「さ、サヨコ……な、泣いてるの……?」
 まだ前の席には彼女が座っていた。紗夜子は首を振る。けれど彼女は手元の手拭を差し出した。何度か掴み損なった挙げ句にそうされたので、受け取らないわけにはいかなかった。
「だ、大丈夫、だよ! み、みんな厳しいけど、で、でも嫌いなわけじゃないよ多分!」
「いや、多分嫌われてるよ」
 紗夜子だって、こんなうじうじしたやつは嫌いだ。
 分かっているだけに、どうしたらいいのか分からない。どうすればこの真っ暗闇から脱出できるのか。
「そ、そんなことないよっ、ね!?」
「うーん……」
 すると、彼女は胸元から何かを取り出した。
「あの、ね……こ、これ。お守り。紗夜子に分けたげるね。私も、み、みんなに厳しいこと、たくさん言われて、ね、悲しくなった時、これ、使うんだ。ちょっとだけ、明るい気分になれるよ」
 千代紙を折った袋は軽い。触ってみると、かさかさと何かが音を立てた。粉、だろうか。塩かもしれない。
「そ、それじゃあ、私行くね。ばいばい」
「あ」
 お礼を言う間もなかった。皿を返して食堂を出て行く姿を、のんびりしているように見えて、思ったよりも素早いと失礼ながら思って見送った。それなら、このお守りも、案外効果があるのかもしれないな、と紗夜子はその綺麗な袋をズボンのポケットに押し込んだ。


 シャーリアの言う通り、紗夜子の仕事はこの場所では何もない。部屋の立ち入りは歓迎されないし、表に出るなどもってのほか、厨房にも入るな、そもそもどこにも入るなと言われている。
 なので食事を終えたら部屋に引っ込むしかないのだった。客人と見なされているようだから待遇は悪くないが、寮にいる女たちは、シャーリアたちの年齢以上になると接触してくることもない大人の女性たちばかりで、紗夜子はすることが本当になかった。腹筋をしてみたりスクワットをしてみたり、与えられた部屋を常に掃除して磨いておくくらいだ。
 シャーリアが彼女が不快に思うのは無理もない。紗夜子は働かなくてもいい身分なのだ。彼女の言動に傷つきこそするものの、不思議と不愉快にならないのは、彼女のそれが見栄ではなく、絶対的な自信と率直さによるものだと分かるからだ。彼女の本音は正しいし、みんなが思っていることで真実だ。むしろ、リンとランが積極的にやってくるのが不思議なのだ。
(聞いてみてもいいかもしれないな)
 そう思えるようになったくらいには浮上しているようだ。お腹がいっぱいになったからか。
 窓の外を眺めてみようと思ったのは、やはり回復の証なのかもしれなかった。光来楼の寮から見える風景は、表の歓楽街から少し遠ざかった、ゆっくりと人工的な光に暮れていく町並みで、無数の建物が息をするのも大変そうに密集している。
(あの十字……教会なのかな。そういうのもあるんだ……)
 遠くに見える尖塔のクロスに目を凝らしたとき、ふと、アンダーグラウンドにやってきて初めての持ち物になった小袋のことを思い出した。
 ポケットから取り出してみる。綺麗な赤い千代紙。あれを丁寧に折ったであろう彼女は、確かミシャと言っただろうか。一週間くらい部屋に籠って落ち込んでいたから、はっきりと思い出せないけれど、いつも俯きがちで、誰かの後をくっついて回っていた彼女の印象は強い。まるで、フィオナとナスィームにまとわりついていたいつかの自分のようで、痛がゆいようなむずむずとした気分にさせられる。ミシャももう少し、明るく笑えばいいのだ。
(……うん、悪いこと、してるよね。みんな、仕事してるのに私の面倒見てくれてるんだから)
 ミシャのお守りのおかげか、久しぶりに前向きだ。
「……今後どうするか、あの二人に、私の意志をちゃんと伝えられるようにしておかなくちゃ」
 お守りを振ってみると、かさこそ、と細かい粒が動く音がする。清めの塩のようなものかな、と何気なく袋を開けてみると、小さなビニール袋に粉が入っている。その濁った白い欠片は、中学の授業で見たミョウバンの結晶を思い出させた。
「塩じゃない?」
 じゃあこれは何だろうと首をひねって。
「……!」
 どきっと降ってきた予感はよくないものだ。
 まさか、と思う。いやいやまさかと首を振る。いくらアンダーグラウンドだからと言って、こういうもので溢れているわけではないだろう。シャーリア、リン、ランたちは、夜の仕事をしているだけの普通の女の子たちで、彼女たちよりも一層気弱で華奢なミシャは、もっと真面目で神経質な女の子に違いないのだから。
 がしゃん、ばりん。何かが割れるような音にびくっとする。
 客が暴れているのか、叫び声のようなものが聞こえ、消えた。
 柄の悪い客は、光来楼にはめずらしくない。光来楼ほど大きな、恐らく老舗の店なのだから、他の店ならもっと無茶な客が多いに違いない。乱闘騒ぎになっても警察が取り締まるわけではなく、それぞれが自衛している。

 ここは、アンダーグラウンドだ。
 だから、この粉が『それ』である可能性は否定できない。
 持っているのも恐かった。けれど、置いておくのも恐くてできない。結局、パンツのポケットにもう一度押し込んで部屋を出た。

(ミシャに話を聞かなくちゃいけない)


      



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