教会の周辺は、黄色い昼間の光の中でも、昨夜と同じ静けさが漂っていた。違っているのは紗夜子が視界に捉える風景だけだ。真昼を思わせる金色の光、異国的な印象だった教会は砂漠の国の建物のよう。しかし、何かが潜んでいるような冷たい影があちこちにある。
 中に入ると、昨夜は気付かなかった中二階が見て取れた。思ったよりもずいぶん広い。くすんだ柱に絡み付く像は、羽が生えているのに天使か悪魔か見分けがつかない。不思議な建物だ。
 やはり誰もいない、と判断しようとしたところで、見計らったかのようにエクスリスの白い姿が現れた。
「こんにちは、サヨコ。真昼に見るあなたは、金色の翼が生えているみたいようだ」
 紗夜子は頬を引きつらせながら、なんとか応えた。
「こ……こんにちは、エクス。どこかへお出掛けですか?」
 エクスリスは、今日は裾を引きずるくらい長い白いコートに身を包んでいた。ファーがふわふわとエクスリスの吐息に揺れる。
「ええ。残念ながらこれでも人の身なので、買い出しに行かなければならないのです。よければ一緒に参りませんか? 地上の光はきっと眩しいでしょうが、あなたが側にいるなら大丈夫だと思うのです」
「は。あ、あの……」
 覗き込まれるようにして微笑まれ、頷きかけたその時、物音がした。
 エクスリスが出てきた扉から、赤い髪の女性が現れた。紗夜子の姿を見て驚いたように立ちすくみ、エクスリスがああと笑いながら近付いていく。
「目が覚めましたか?」
「…………」
「大丈夫です、彼女は敵ではありません。ほら、僕の目を見て」
 吸い込まれるようにして、彼女はエクスリスを見上げた。彼の手は彼女のきめ細やかに輝く頬を、愛おしげに撫でていく。紗夜子は赤くなった。彼が妖しいほどに美しく、女性が透明な瞳をして無垢だったからだ。
「笑って」
 彼女ははにかんだ。
「おはようございます……教主様……」
 見た目の強気な印象とは裏腹に、小さくか弱い声で言った。彼の目を見つめ、話すことができないというような、茫洋とした声だった。エクスリスは満足げに頷いた。
「それでいいですよ。さあ、今日もその素晴らしく愛らしい姿で、人を幸せにしてください。それが僕の望みなのですから」
 女性は頷き、紗夜子にも目もくれず、駆け足で出て行った。きつめの顔立ちと真っ赤な髪が印象的な美人だった。
「……信者の人?」
「いいえ。僕は伝導しているわけではありませんから、信者とは言えません。迷える方を、この世界の闇で包むのが僕の仕事です。闇は、安らぎですから」
「……何の神様なんですか? この教会、すごく不思議な建物だけど」
 くすっとエクスリスは笑みをこぼした。それだけで淡い光が散るようだった。
「今日のあなたは質問だらけですね。いえ、僕のことを知ってくださるのは悪いことではありませんが、あなたのことを知る機会を恵んでくれませんか?」
 ひやりとした手に両手を包まれ、硬直する。
「一緒に出掛けましょう?」
 そう微笑まれれば、返事が滑り出ていた。
「え、え、あの……構わない、と思う、けど……」
 では行きましょう、とエクスリスは紗夜子の手を引いた。その、冷やした絹のような滑らかで心地いいような感触にどぎまぎし、唾を飲み込む。

 エクスリスはまるで世界を征服するような足取りで、存在感を振りまきながら歩いた。彼が一歩踏み出し、コートの裾を揺らせば、周囲の空気が変わる。人がいなくても感じ取れる。人がいればもっと分かる。世界が、緊張する。空気の味がしない。
 二人でこうして手をつないで歩いているのを、UGに誰かに目撃されたに違いないが、なんだか、もう、どうでもいい。どうしてだろう、頭がぼうっとする。
 紗夜子を誘うエクスリスは、慣れた様子で地上に出た。午後の街は明るく、けれど風が冷たく、空がきついくらいに青い。彼は目指していた店に入り、大量の缶詰や保存食を買い込んだ。彼の細い腕では持てないだろうという量で紗夜子も手伝ったのだが、三倍は持っているはずのエクスリスは重さなど感じていない涼しい顔をしていた。
「やはり運んでもらいましょうか」
 そう言って携帯電話を取り出し、紗夜子の持っていた荷物を奪うと、駅前のコインロッカーに荷物を預けてしまった。
「知り合いに教会を届けてくれるよう頼みました。これからは自由時間です」
 そうしてまた紗夜子の手を取った。
「ああ、あんな重い物を持たせてしまったから、手が赤くなってしまっていますね」
 さらさらともひんやりともつかない心地よい感触で優しくさすられ、思わず手を振り払ってしまった。
 ぞわぞわと、頭の後ろや耳の辺りの毛が逆立つ。
「どうしました?」
「あ、……わっ、私の手、そんな綺麗じゃないから!」
 元々家の一切を行う手だったのでエクスリスのような手とはほど遠かった。今ではダンベルを握るので豆が出来てつぶれ始め、ナイフで切ったこともあり、爪は割れている。触り心地はまったくよくないはずだ。
 自分の手に触れようとして、その手が動かないことに気付き、紗夜子はぎくりとする。腕が震えてうまく動かない。固く、緊張している。

 だめだ。

「サヨコ。さあ、行きましょう」
 はっとして首を振る。
「や、やっぱり私、かえります。トオヤたちに黙って来ちゃったし!」
 意識がはっきりしてくる。何を考えているんだとここにきて初めて自分を罵った。狙われている身の上で、拳銃とシールド一つしか持っていなくて、戦う手段を何も持っていないだろうエクスリスについてきて。馬鹿かと怒声を浴びせられても仕方がない。怒声ならいい。【魔女】や【司祭】に銃弾を浴びせられたらひとたまりもない。

 だめだ。

「困りましたね……」とエクスリスは全く困惑していない優美な表情で呟いた。
「あなたの願いを叶えてあげたいと思っただけなのに、そんな顔をされるのは心外です」
(……願い……?)
 首を振った。髪が跳ねた。必死に首を横に振る。
 何も願っていない。願い事なんて生易しい響きのものを紗夜子は持っていない。
「例えるなら、欲望というべき強い思い」
 エクスリスの言葉が突くようにして聞こえた。

 だめだ。

(恐い……!)

「あなたはいつだってそれを手に入れることができます。だってそのように生まれたのだから。あなたのこの、優しくか弱い、けれど美しい手。あなたの血、あなたのために流される血で潤ったこの手は尊いもの」

 頭が、真っ白になった。
 続いて、赤く染まる。視界の周りは黒く塗りつぶされ、赤い色が灯りのようにつやつやと光っている。



 ――……ぁちゃん……。



「怖がらないで」
 震える子どもを抱きとめる優しい声がする。滑らかに動いた手が、声も出せない紗夜子の顎を捉えた。
「あなたは知っているはず。自分の力を」
 すっと指が下がり、胸の中を指した。

「あなたの力は銃弾にある。願いなさい。思いなさい。あなたの意志ひとつで、その銃はあなたの願いを叶えてくれる」


 堕ちていけ、と何かが囁いた。


「――……!!!」
 悲鳴が上がった。


      



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