紗夜子の知らない道を通って上に出た。トオヤが最初に出て、ジャックがどーぞと扉を押さえてくれているところから出ると、そこは、地下街のショッピングロードだった。
「えっ……」
 思いがけなかったので思わず振り返ると、出てきた扉の上には『非常口』とある。もう一度、自分の立っているところを見てみると、派手な女性ショップ店員の声が時々響き、学生やサラリーマンたちが電車やバスの停留所まで移動する、地下通路のショッピングウォークのひとつだ。紗夜子も何度か買い物に来たことがあった。
「上、あがるでー」
 少々動揺しながらも、地上へ続く階段を上る。ガラスの扉を開けると、冷たい空気がごっと顔に吹き付けた。地上に出る。
 風が逆巻いていた。ビルと車が行き交うせいだ。排気ガスと、乾燥した何かのにおいがする。空を見上げると、冬の昼間の、澄んだ青が広がっていた。
「紗夜子」
 トオヤが呼ぶ。慌てて遠くなっていた三人に駆け寄った。
 ぴしゃぴしゃと頬を叩く。ここはもう第一階層なのだ。いつ前回のように命を狙われてもおかしくない。コートのポケットの中には銃があり、その存在を意識した。

 歩き出す。三人の青年は、第一階層には特に違和感なく溶け込んでいた。たまたま仕事がなかったので集まりました、これから食事に行きます、というように見えるだろう。
 しかし、注意して見ればそれぞれタイプの違った美形なので、特に待ち人をしていた女子大生や、だらだらとたむろしていた女子高生などは、三人が闊歩してくるのに気付いて一気に目の色を変えた。
 何故紗夜子にそれが分かったのかというと、あからさまに「あの女だれ」という敵意を浴びているからだ。
(うーん、別に羨ましがるようなものでもない、というか……)
 一人は訓練に容赦ない師匠で、一人は軽いセクハラ男で、一人は「殺してやる」とのたもうた男だ。彼女たちとは世界が違う。
 そう思った時、UGなんて言われても、誰とも変わらないではないか、ということに気付く。
 女性たちの目に映る彼らは、少し悪ぶった見目麗しい男性たちで、その懐に銃を隠していようが、ナイフを仕込んでいようが、人間には変わりないのだ。
 しかし、それに気付ける人の少ないこと。UGと名乗ればきっと彼女たちは白い目を向け、遠ざかっていくだろう。

 彼らの道は、とても長く、険しい。
 紗夜子が見上げた天上の高みに昇るくらいに。

 その時、ぽんと頭に手を置かれてぎくりとした。
「アホ面」
 置かれた手は、撫でるか撫でないかの微妙な動きをしてから離れていく。
「誰がアホ面!?」
 何考えてたか知らないくせに! と目を吊り上げると、けらけらトオヤは笑った。触れられたところが妙にざわつく。
 頭を撫でられるのは、弱い。そうされて胸を締め付けられるのは、過去の記憶に結びついているからだ。
(でも……トオヤにされたときは、ちょっと感じが違う、気がする)
 ジャックにされると、照れくさい。笑いたくなる。
 でも、トオヤの手は、少し違った。触れられると、固まってしまう。どちらかというと、恐い気持ちに似ていた。あの、言葉を絞り出させ心を暴かれたという先入観のせいなのか。
 こうして見ていても、振り返ってくれないのがちょっとむかつく。
 素早く駆け寄って、恐る恐る手を伸ばし、左肘をちょんと突いてみる。ポケットに両方の手を突っ込んでいるから、そこが一番触りやすかったのだ。
 しかし反応は返ってこない。ジャケットの羽が厚いせいだろう。思い切ってつーっと指を押し付けてみると、ようやくトオヤがこちらを向いた。でも多分、信号が赤だったせいだ。
 見下げられて、紗夜子は誤摩化し笑いしながら言った。
「こ、恋人ごっこー……」
 何言ってんだ馬鹿じゃないのというツッコミは、すでに自分の脳裏に吹き荒れている。自分の台詞が我ながらあまりに馬鹿馬鹿しいので、湯気が出る勢いで真っ赤になっていくのを自覚する。
 トオヤがじっと見てくる。
(む、無反応はやめてー!)
 馬鹿なことをした自分も自分だが、そんな真剣な目で見られると、羞恥や自嘲や馬鹿馬鹿しさでものすごい大ダメージだ。内心で「ふああああ」だの「ひいいいい」だの意味不明な叫び声をあげていると、信号が青に変わった。
 途端。
「わっ!?」
 トオヤが歩き出した途端、引っ張られた。
 さらうように手を取られたからだ。
 人波を突き崩すようにぐいぐいと進んでいくのを面食らっていたが、しかし、しばらくして紗夜子は首を竦めて笑い出した。すると、トオヤも大口を開けて笑い声を響かせる。
 横断歩道を渡り切ると、二人して笑いの余韻の残る顔をして、トオヤがちょっとだけ振り返った。
「お前、変なやつだよな」
(わっ……)
 心臓が、急にどきどきし始める。
 手が離れていくのが、とても惜しくて。
 思ったのは、もっとこの人のことを知ってみたいなという、全然状況を読んでいないものだった。
「仲良しさんやなー。俺とも手ぇつなげへん?」
「三人で手つなぎ? どういう家族だよ」
 びくっとする。
 意味はないかもしれないけれど。裏を読みすぎているのかもしれないけれど。
(……家族……)
 落胆している理由が分からないけれど傷付いた自分がいた。
 何とも言えない沈黙が頭上に漂っていることに紗夜子は気付いていない。
(いきなり何落ち込んでんだ?)
(え、俺に訊かんといて)
(…………)
 とぼとぼと紗夜子は歩く。三人がふらふらしている自分を守っていることには気付かず、無意識に後をついていった。

 そして、ふと寒いことを感じて我に返る。スーツ姿の大人たちが歩き去っていく、オフィス街の一角。ビル風が冷たい。そこへ、突然目の前に缶を差し出された。
「はい」
 ココアの缶を手にしてジャックが隣に座っていた。気付けば、トオヤとディクソンの姿がない。
「あ、あれ? 二人は?」
「ちょっと用事行ったで」
 肩を落とす。ぼうっとしている場合ではないのに。
 いや、それ以前に、何をあんなに浮かれていたのか。ため息が出た。
「寒いとネガティブになるんやで。ココア飲み。あったまるで」
 頷き、プルトップを開ける。暖かさが口の中に、身体に流れていく。ほっと息をついた。甘くて美味しい。舌にざらざらとした粉の感触があって、缶ココアだなあと笑う。その顔は、どうやらじっと見られていたらしい。組んだ足に肘をつき、覗き込むようにしてジャックが笑っていた。
「ただ歩くだけでも楽しいけど、今度はショッピング行こな。かわいい服買うたる。Ddとか似合うんちゃうんかなあ」
「今のままで十分だけど……」
 黒のタートルネックセーターは多分カシミヤだし、灰色のギンガムチェックのショートパンツに、黒いタイツ。灰色のアンクルブーツはサイズがぴったりで、格子柄のコートはタイトな形で好きなものだ。何故サイズがぴったりなのかは置いておいて、上へ行くだけなのにこういう服まで用意してもらった上に、高級ブランドの服までもらえない。
「こういう服ってどうやって手に入れてくるの?」
「上でや。こうやって誰かが来る時に頼むねん。まー、俺の場合は実物見たいから自分で来るけどな」
「UGも上で買い物するの!?」
 っていうか出来るの!? びっくりして言うと、しいっと笑いながら指を立てられる。
「そうやでー? UGやからって、いっつも戦うこと考えてるわけやないよ。だからサヨちゃんも、普通に笑ったり楽しんだりすることを後ろめたく思わんでええからな」
 今度は叫ばなかった。代わりに言葉を呑み込んだ。
 気付かれていたのだ、と目を落とし、もじもじと缶を手の中で回転させる。
「なんか……いい感じに手玉に取られてる気がするな……」
「いや?」
 ううんと首を振る。
「……申し訳ないなあって」
「どういうこと?」
 心配をかけて、気を遣ってもらって、大切に扱ってもらって。彼らに打算があっても、優しくしてもらっているのは事実だから怒りは沸いてこない。彼らには彼らの目的があって、それはとても大きく、私自身の感情が小さく思える。
 どうして、私は何も出来ないんだろう?
 そういうことを、ジャックに説明する。
「私が戦うのは復讐だけど……みんなは違うでしょ。世界を変えるためじゃん。ね? 私の目的は殺人だけど、みんなは違う」
「それは単に言い方や。俺らもやってることは殺人と変わらへん。それが戦争って言葉で正当化されとるだけや。俺らが殺したエデン運営者に関わるもんの家族とは友達とかにとっては、俺ら殺人者やで」
 太陽が冬の厚い雲に隠れ、冷たい風が吹き抜けた。握りしめたスチール缶は、固く、すでに冷たい。
 ずっしりと来る言葉だった。
 ジャックも。狙撃手であるディクソンも。そしてトオヤも。誰かを、その手にかけたことがあるのだ。
「恐なった?」
 ジャックが聞いた。優しく、誘い込むような声だ。
 紗夜子は口を開いては白い息を吐き出し、冷える手を握りしめた。そうしながらいくつもの光景がひらめいていく。赤い床、暗い窓、光る刃、血塗れた手……過去から現在へと続くいくつもの光景に、自分が銃を手渡された時、そして、トオヤの冷たい左腕を思い出す。様々に浮かぶそれらのせいでうまく答えられずにいることを、ジャックは許した。
「それがUGや」
 と自らを名乗った。
「このエデンは、そこに生きるみんなのものやと思う。第三階層者だけが政治家になれるっちゅうのはおかしい。第二にも第一にも、第三と同じ仕事をする権利はあるはずやねん。そういう声を、犯罪者UGっちゅう形にして封じ込めることはおかしいと思う。俺らは人間や、自由に物が言えるようになりたいねん。そして、そういうのを、他の階層の人らにも気付いてほしいと願ってる」
「自由に物が言える……それって、私たちの言葉が街を動かすってこと? 第一もアンダーグラウンドも関係なく?」
 ジャックは頷いた。その大きさに、紗夜子は圧倒されて惚けたように嘆息してしまった。
 もし、階層という概念がなくなった時、紗夜子は、もう第三階層の人々に見下されたり、意志を無視されたり、自分は捨てられたと思わなくてよくなるのだろうか。もう必要ないからと、殺されることもないだろうか。
「UGは人が平等に生きられる新しい場所を作るために戦っとる。そのための犠牲や、っていうのは言いたくないから、俺らはこう言うねん」
「……なんて?」
「『それがUGだ』、って」
 戦うこと。人の手にかけること。割り切れないことは、数多かっただろう。今の紗夜子に想像できることは少ないけれど、その言葉でどれだけの苦しみを封じ込めてきたのかは分かった。
 紗夜子は眩しくジャックを見た。
「強いなあ……」
「えっ……」
 反面、自分の小ささがまた浮き彫りになった気がして、目を閉じた。

 まだ手には形ばかりの銃しか握ることができない。誰かを手にかける罪を正当化するわけではないけれど、そんな風に、前を向き続けていける強さが紗夜子には必要だった。
 見上げた空の、雲の縁が太陽の光で白く輝き、雲に隠されたその光が、放射状に空の上のどんな光よりも強く輝きを放っているように。空から落とされた影の中で、ずっとさきに目指す光があればいいのにと望んでいた。今、自分の手足には罪と復讐という鎖が絡み付いて、足は鈍く、手は重い。光はまだかすかにしか届かず、こちらに射さない。でもその光があれば、きっと何も折れはしないのにと焦がれている。

 ジャックは驚きに満ちた目で、空を望んでゆっくりと瞬きする紗夜子を見つめ、やがて真剣な眼差しで見守っていた。


      



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