奥の、祭壇の近くに、いつの間にか人影があった。影になって分からなかったが、そこに通路があるらしかった。
 教会に反響する慎ましい笑い声が、まるで人の思考を柔らかく撫でさすり、心を読んだように思えて、紗夜子は腰を浮かした。
「清き乙女の涙を、闇と孤独が慰めているところでしたか」
 跳ねる心臓を服の上から掴みながら、紗夜子はじりじりと通路に後退する。
「あの……」
「怖がらないで」
 靴音と衣擦れの音がして、影から人が姿を現した。
「――……っ!!」
 紗夜子は悲鳴を飲み込んだ。

「地下世界の闇も、あなたの清純さに優しくなれずにはいられないようですね。こんばんは、暗闇をも柔らかにする心清き乙女。ここにあなたの涙を暴く光はありません。存分に泣き、存分に悲しんでください。そしてその後で、僕に微笑みかけてくれればそれでいいのですから」

 真っ白な髪、真っ白な衣装。睫毛は銀色がかって少しだけ暗く、大きな銀の瞳を宝石のように引き立てていた。砂糖菓子のような綺麗な鼻筋。真っ白な肌に薄い唇は笑みを刻む。なのに可憐という印象はない。華やかで、辺りの空気を硬質に変え、たじろがせる美しさだ。

 停止していた息が、小さく震えを持って吐き出された。
(……男の人、だ)
 その声はどう聞いても男性のものでしかなかったために、紗夜子は安堵の息を吐いた。
 彼はするすると衣を引きずって、祭壇の蝋燭を長いものに変えた。よく見てみれば衣装には十字架の縫い取りがあり、この教会の人間であることに間違いはないようだ。目が合い、微笑まれた。紗夜子は素早く目をそらし、唇を引き結んだ。
「美しい唇ですね」
 逸らしたはずなのに思わず見てしまった。すると、目の前に甘い香りが巻き起こり、ふわりと髪をなびかせて、いつの間にか彼が紗夜子の前に膝をついていた。
 目が離せなくなる。息が出来ない。彼の銀にきらめく瞳が、紗夜子の唇を、目を、捉えていく。
「…………」
 頭の中でがんがんと音がしている。言葉がかき消されていく。

 しかし、唐突に、五感に訴えていた重力が消えた。
 彼は距離を取った。適切で、紗夜子にとって安全な距離を。
「あなたの小さな胸を震わせている、その暗く重い悲しみを吐き出したいのなら、僕はここにいますから、いつでも、どうぞ」
 絶世の美貌がにっこりとした。紗夜子は目をぱちくりさせる。妖しい艶は薄まり、思ったのは、「これって素の喋り方?」というどうでもいい疑問だった。だったらすごい。舌を噛んだことがないのだろうか。
「あの、すみません。だいじょうぶです。すみません」
「あなたの綺麗な声は歌うべきであって、謝罪の言葉を口にする必要はありません。あなたの美しい気持ちは確かに受け止めました。でももし、苦しいと感じたならいつでも言ってください。僕のような者にできることはそれしかないというのが心苦しいですが」
 はあ、としか、答えようがない。
「あの……あなたは? 勝手に入ってきて『あなたは?』もないですけど……」
「いいえ、僕の名を聞いてくれる優しさに感謝します。僕は名もなき教えの教主エクスリスです。教主でもエクスでも、お好きなように呼んでください」
「教主?」
「ええ。何かを教えているわけではありませんが、道に迷った方の相談相手をしています。ここでは、そういった穏やかな話し相手が少ないでしょう? たまたまこの教会でそういったことをしていたので、『教主』という呼び名が定着したようです」
 カウンセリングのようなものだろうか。でもなんだか煙に巻かれそうな気がした。秘密を明かすと、取り返しがつかないことになりそうな予感も。
「エクスは……アンダーグラウンドの人?」
「いいえ」とエクスリスは微笑んだ。
「あなたと同じですよ、サヨコ」
「……!」
 驚いて、発作的に胸の前を握りしめてしまう。
 エクスリスは笑っているだけだ。紗夜子の驚愕に気付いているのに、こちらから聞かねば口を開かないだろうと思わせる、悠々とした笑みを浮かべている。
(……『同じ』)
 それは、どういう意味で?
 口を開きかけた時、割り込んできた携帯電話の着信音に、紗夜子は少し息を詰まらせ、ゆっくりと動いて電話を取り出した。メールの着信を知らせるランプが光っている。サブウィンドウにはAYAの文字。
『・トオヤやジャックが心配しています。』
 それだけの文面を読んで折り畳む。すると、また鳴った。
『・無視しないでください。』
 分かってるよと思い、エクスリスに目を戻したが、彼は首を傾けて少女のように笑うだけだった。
 ため息をつき、一応返事を打っておく。
「『分かった』、っと」
 ありがとう、と書かなかったのはちっちゃなプライドの問題だった。機械の機嫌取りができるほど余裕があるわけではなかったからだ。
「ご用事ですか?」
「あ、いや……心配してるって言われただけです」
「それはよかった。いくら闇がいつでも慕わしくとも、人が常に優しいわけではないのですから。ああ、誰か来ましたね」
 入り口を見ると、扉が開いた。
 彼はこちらに近付きながらダウンジャケットのポケットから取り出した携帯電話を操作し始めた。紗夜子も手の中の電話を見た。AYAめ、と顔をしかめる。
(トオヤにメールで知らせたな)
 トオヤは紗夜子を一瞥し、そしてエクスリスに目を移して、何故かすごく嫌な顔をした。
「あいっかわらず気色悪い面してるな」
「お久しぶりですね。率直さが変わりないようで嬉しいですよ。影に浸っても己を失わないあなたの強さを羨ましく思います」
「長口上も相変わらずか」
「し、知り合い?」
 呆気に取られながらもかろうじて尋ねると、はい、とエクスリスが親しげな眼差しをトオヤに向けつつ答えた。
「彼のことはよく知っています。けれどトオヤは僕には会いたくないようで、なかなか顔を合わせることはなかったのです。僕は彼のことが好きなんですけれども」
 エクスリスはトオヤを見つめた。
「強靭で、柔軟で。トオヤにあるのは自由です。僕はそれを好ましく思うのですよ」
 トオヤは辟易したように首を振った。
「……お前の顔と口にうんざりするんだよ」
「それは、僕が『彼女』と似ているから? それとも、僕が君の過去を知っているから?」
 トオヤの目が鋭くなった気がしたが、エクスリスは笑みを崩すことはなかった。ナイフか何かを取り出して切り結び始めそうな、痛い沈黙があり、やがて、はあっと感情をため息にしたトオヤが、対峙を放棄して踵を返した。
「帰るぞ」
「あっ、ちょ、……お邪魔しました。失礼します」
「また、いらしてください。あなたとお話ししたいことがたくさんありますから」
 軽く会釈した形で、紗夜子は彼を注視した。同じ、という単語が浮かぶ。

 何が同じで、あなたは何を知っているの。

 彼は手を振ることはなかった。多分、紗夜子がもう一度来ることを確信しているせいだろうと、視線を感じながら考えた。
 トオヤに遅れて教会を出ると、彼は少し離れたところで待っていた。紗夜子が現れると歩き出す。それを追いかけた。
 振り返った教会もその周りも、冷たさを感じるくらいに静まり返っている。だからだろうか、扉が完全に閉まり、声が聞こえないくらい教会から遠ざかってから、トオヤは口を開いた。
「あんまりあれに近付くな」
 気に障ったのは、射撃場でのやり取りが解消しきれていなかったからだ。
「……なんで?」
「あれはエデンそのものだ。気を抜くと、喰われる」
 紗夜子は黙り込んだ。吐き出す息は、もう白くもならない。落ちた声だけが重く低くなった。
「どういう意味で」
 まさか人食いではあるまいと思ったが、トオヤは否定もせずに「色々」とだけ言って、それ以上教えてくれなかった。


      



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