「では、その【司祭】は我が闇の元へ下ったのですね」
 夢うつつに拾っていた声が、急に言葉と文章という形を持った。目を閉じた黒の視界に、エクスリスの声は光る目のようにはっきりとしていた。
 続いたのはため息で、何故かすぐにトオヤだと分かる。
「お前の闇ってなんだよ」
「僕の闇はすべての者の闇。僕たちの誰をも平等に慈しみ、包んでくれるものです。あるいは、すべての者の心の内に存在するもの。感情や欲といったものもあれば、願いを叶えようとする衝動もあります」
 びくりとする。
 ――『あなたの意志ひとつで、その銃はあなたの願いを叶えてくれる』
(私の……願い……)
 高遠を引き摺り降ろしたい。復讐したい。標的である【司祭】に銃口を向けたあの時、あの戦いの、衝動の刹那にめまぐるしく巡ったものを思い出そうとする。

 鳴り止まない銃声。敵を撃ち抜く銃弾。血と部品が飛ぶ。爆破された駅で起こった火災とその煙、そして土埃が風によって渦を巻いた。そのただ中、一人突撃したトオヤに、足掻いた【司祭】が照準を合わせた。
 咄嗟に思った。トオヤを助けたい。迷ってなんかいられない。怖がるな。落ち着け。あれを倒すんだ。そんなことを考えていたように思う。
 引き金を弾いた。
 紗夜子の銃弾を受けた【司祭】は、まるで中身から爆発したかのように、腕をばらばらにして倒れた。
 その時のぞっとするような感覚が、再び背中に突き抜ける。
 まぐれか。それとも何か別のものか。あの銃弾は、銃を武器として扱ってまだ浅い、実戦経験がないに等しい紗夜子の願いを、いともたやすく叶えたというのだろうか。

「……お前の説教、説教なのかなんなのか分かんねえ」
「根本は理解していると思いますよ。僕たちの根は皆共通して闇です。トオヤ、人は、闇の存在に気付いて初めて、自分の姿を理解するのです。夜、窓ガラスに映った自分を見て心臓が跳ねるのはそういうこと。闇の中に見える自分こそ、己の真実の姿に他なりません」
 トオヤの応えはなかった。エクスリスが笑みを漏らした気配が漂う。
「残念です。あなたと僕は同じ第三階層出身だというのに、君はほとんどあの場所の闇に浸らなかったのですね。非常に、残念だ」
「――っ!」
 驚きが飛び出した勢いで起き上がっていた。
 場が、止まる。
 やがて、トオヤが嫌そうに額を押さえてため息をつき、エクスリスは美貌に完璧な微笑を浮かべた。
「眠り姫の目覚めですね。気分はいかがですか、紗夜子」
「だいじょうぶですけど、その前に! トオヤ、第三って」
 あなたはやっぱり第三階層の人間だったの。
 教会の長椅子の上、かけられた男物のジャケットを握りしめて、紗夜子は食いかかった。トオヤはぶっきらぼうな調子で応える。
「第三は第三だろ。第三階層。つーか寝たふりして聞いてんの、趣味悪くね?」
「うっ……それは……ごめん……」
 すると、突然目を手で覆いかぶされた。大きな手のひらに視界を遮られ、う!? と妙な悲鳴ともうめきともつかない声を上げてしまう。ぐらぐらと頭を揺らされ、おもちゃのように頭を翻弄されてしまう。
「けど一番趣味が悪いのはこいつだ。お前が聞いてんの知ってて喋ってやがったな」
「良き交際は相互理解からですよ」
「ほらな、悪いとも思ってねえ」
「あ、う、も、もういいから離して……!」
 何故か首元からかあっと血が上っているのを感じて主張すると、トオヤは手を離した。ばたばたと手を動かして顔を扇ぐ。なかなか火照りは静まらないが、とにかく尋ねた。
「トオヤって、やっぱり第三階層出身……?」
 トオヤがすうっと冷たく目を細めた。
「『やっぱり』? ……お前、今Jのつく人間の死期決めた」
「ちょ……Jだとは限らないじゃん!」
「じゃなかったらそのJが殴られ損なだけだから心配すんな」
 紗夜子は内心で悲鳴を上げた。
(ごめんジャックーっ!!)
 トオヤが「黙ってんのもなんか気持ち悪かったし、まあちょうどいいけどな」と一転してけろりと言ったので、汗をかきながらもきっとだいじょうぶだと信じることにする。
「俺は第三階層、霧坂家の霧坂遠矢。キリサカは政治ゲームに失敗して失脚して、親父は第三に愛想つかしてアンダーグラウンドに降りたわけ」
 そんな奥さんが家出てったみたいな、と思ったが飲み込んだ。
 第三階層には、エデン創設時の血筋を維持しようとする思想がある。元々都市運営者として第三階層に居住する一族だ、個々の家名に対する自尊心はかなり強く、より優秀な後継を育てようとする。いずれ、エデン運営者に代表される人物になるためだ。高遠、江上、サイガは、現在その代表格とされ、三氏の通称で呼ばれている。その争いは伝え聞くに熾烈で、霧坂家のように失脚するということは、あり得ないことではない。
(じゃあ、トオヤは第三階層に戻るために……?)
 ちがう、そういうわけじゃないだろうと直感的に思った。富裕層である第三階層から、アンダーグラウンドに物心つくかつかないかくらいの子どものときにやってきたトオヤは、きっとそんなものには執着しないという気がする。だったら、とジャックの言っていた『UGの戦う理由』を思い返してみる。
「……エデンを変えたいから、UGとして戦うの?」
「そうだな」
 紗夜子はじっと彼の目を見た。トオヤの瞳は奥底から光を放つ澄んだ黒をしている。生きるという意思が強い目だ、と思う。
「本当に? トオヤは? トオヤは、どう思って戦ってるの」
 聞かなければいけないと思う。強い思いに突き動かされて、紗夜子はしつこいくらいに問いかけていた。
 トオヤは、軽いため息と共に目を伏せた。
「俺はUGだ。UGが戦う理由がそれなら、そうなんだろ」
(……! 誤摩化した……!)
 嘘も言ってないけど、別の答えもあるような言い方だ。ふくれるべきか指摘するべきか、ほんの一瞬迷った隙に、トオヤが新しい話題を口にしている。
「目が覚めたんなら、お前も聞くか、報告」
 無精無精ながら妥協する。多分、これ以上問いつめても無駄だ。鍵のかかった扉を言葉で叩いても、鍵がかかり、内側からしっかりと押さえつけている限り、決して開くことはないだろう。つまりはそれだけ、まだ紗夜子に信頼がないということで。
(やっぱり、ちょっと……寂しいけど)
 努めて明るく声を出した。
「さっきの戦闘の? っていうか今何時? 外、黄色いけど、もしかして一日経っちゃった?」
「捕虜にした【司祭】が死んだ」
 紗夜子は言葉と表情を失った。
 ぼわりと水底で音が響くように、堂内に淡々と声を響かせてトオヤに報告する。
「自分の生体義肢の骨子を、こう、ぼきっと折ってな、自分の喉に突き刺しやがった。第三の手先とはいえ、見事な死に様だよな。……反吐が出る」
 自殺。
 あれだけの戦闘で被害が、死傷者が出ていないはずがないが、その原因が失われたという、目の前に降ってきたそれは確かに重かった。あの【司祭】は自ら死を選んだ。そのことが悲しいわけでも、悔しいわけでもなく、ただ、ずしんと胸が重くなった。
「それでもいくつか情報は入った」と言うトオヤを、少しでも軽くなるよう息を吐き出しながら見上げる。
「エリシア・ブラウン殺害命令を出しているのは高遠氏、あの【司祭】は高遠氏の秘書でもある【魔女】エリザベスの配下だったらしい。で、その【魔女】クラスのアンドロイドは、現在三体が行動していることが確認できた」
 そこでトオヤが言葉を切った。黙っていたエクスリスを振り返り、彼にも聞かせるような位置に身体をずらして、話を再開する。トオヤは紗夜子とエクスリスの間で指を三本立てた。
「一体は、高遠の【魔女】エリザベス。二体目は江上の【魔女】、三体目はサイガの【魔女】とそれぞれにいるみたいだな。サイガの【魔女】はテレサ。これは五年くらい前からUGと何度か交戦してるから確認済み。江上の【魔女】の名前は確認できてないが、秘書の誰かが怪しいな」
 テレサという名前には覚えがなかった。顔も思い浮かばない。高遠家以外の第三階層者と交流を持ったことがないから当然だが、気をつけなければならない相手だと記憶に刻む。
「けど、三氏が協力して何かをするわけじゃねえらしい。【魔女】は個々に、それぞれの主の手足として動いてる」
「【魔女】って、人間と変わらないように見えるよね。そういうのって、【魔女】自身不満に思ったりしないのかな。やっぱり作られたものだから開発者に服従するのかな」
「開発者じゃないぞ、高遠も、江上もサイガも」
「あれ? 【魔女】って三氏が作ったわけじゃないの? エデンの守護者だっていうから、てっきり」
「【魔女】のプロトタイプ、素地のAIを作ったのは霧坂だ」
「ええっ!?」
 と声を上げはしたものの、第三階層は英才教育を受けた者たちの宝庫だ。あんな封に人間と変わらない人工頭脳を作ることなんて、造作もないのかもしれない。第一階層にその技術が流れてこないのは、第三階層の階層主義を表している。
「で、どう思ったんだ?」
「え?」
「エリザベス。お前が一番接触を持ってるだろ。不満に思ってる節、あったか」
 考えてみる。
 いつも高級なスーツを着こなし、化粧もほとんど必要ない美しさと、高く品のある声で話すエリザベス。見下すような視線は高遠と同じで、並んで立てば主従の関係に見えるのは間違いない。
「……どっちかっていうと、高遠の秘書としての特権を享受してる感じだったかな。私に感情移入する風でもなかったし……」
 ふうん、と何か考えているような相づちを打たれた。
「……情に訴えようとか思ったの?」
「当然だろ。ま、無駄か。高遠を心酔してるようなら」
 もしかしてと思って問いかけると、そんな言葉が返ってきた。道具扱いされる身としては慣れているけれどやはり切ない。
「話を戻すぞ。で、そのAIを、開発者の霧坂が失脚した後に三氏が手に入れて、共同開発の名目でボディを与えた。共同開発なのに、一氏に一体、自分の命令しか聞かないように振り分けたわけだ。だが、【魔女】の名目は守護者。けど、実際は手先として動いてるけど、UGの排除のみのために作られたにしちゃ、高給取りだ。守護者という名前の意味、守護というのは名目で何か目的があるのか」
 答えをくれると思ったのに、そこで彼は大きく嘆息し、頭をかいた。
「……っていうことを聞き出そうとしたところで、停電。その瞬間に半狂乱になって自殺だ。まったく、いい身分だよ」

「――闇が降ったのかもしれませんね」

 ふと、静かに佇んでいたエクスリスが声を発した。トオヤが不審の目で白い男を見た。紗夜子も、今の話とどう関係があるのか首をひねった。
「あ?」
 穏やかな微笑みをたたえて、「天啓ですよ」と教主は言う。
「神に。死ねと命じられたか、死ぬ必要があると感じたのでしょう。神の声を聞く【司祭】ならありそうなことです」
 また眉を寄せて考えてしまうようなことを言って、エクスリスはその笑みのまま用事があると言い出し、裾を引きずって奥へと引っ込んでしまった。
 紗夜子とトオヤはなんとなく顔を見合わせる。
「……帰るか」
「あ、うん……」
 腑に落ちないが、何とも言えない不安な気持ちで腰を上げた。
「で、いつまで握りしめてんだ」
「え?」
 はたと、指された上着に目を落とした。土埃と、少し焦げたにおいがする。トオヤのものだ。あの戦闘でずっと着ていたなら、その汚れは当然だった。
「あ、返す……ありがと」
 ん、と言いながら、トオヤは汚れを気にする様子もなくそれを羽織った。ぼろぼろで汚れていても、着ていないと少し寒いからだろう。冷たくなったタイツの足をさすってから、教会を出た。

(……一氏に一体、【魔女】がいる意味、か……)
 紗夜子は第三階層にずっといたわけではないから、エリザベスが高遠の元でどんな仕事をしていたのかは知らない。第一階層に降りて迎えにくるあの時くらいしか彼女に会ったことはなく、その素性を尋ねるようなこともしなかった。興味がなかったからだろう。幼少時の自分は、ずいぶん虚ろだったから。
 最初の戦闘の時に初めてエリザベスの異形の姿を見た。【魔女】としての本性を表したのは、あれが初めてだったのだろうか。
 私を、殺すためだけに。
(私にそんな価値、あるのかな……)
 自分でも分からない何かに、価値を見られているような気がした。
 その時、思考に滑り込んできた声があった。
(……エクス)
 立ち止まる。気付いたトオヤが振り返る。
(エクスは、もしかして、知ってる?)
 手に触れながら言われたことを思い出そうとする。血が、どうとか言わなかったか。生まれについて何か言わなかったか。怖がらないでと言っていて。
 彼は、紗夜子が誰なのか知っている。高遠紗夜子だと知っている。
 なら、紗夜子が『本当は誰』なのか、知っているのではないか――。

「紗夜子」
 ぺちんと手のひらが軽く頬に触れ、はっと我に返った。どこかほっとしたような顔のトオヤがいて、また頭を揺らされる。
「あてられたな。分かったろ、もうあいつのとこには行くな」
 思わず、うん、と頷いていた。
 エクスリスに会うと、見なくていいもの、気付かなくていいものを、見せられてしまいそうだと思ったからだった。
 底知れないと言ったジャック。食われると言ったトオヤ。そして紗夜子は思った。

 ――堕とされる……。

「トオヤ、エクスは……全部知ってると思う?」
 ずるい問いかけをした。だって、トオヤは、まだ『全部』を知らない。
 トオヤは紗夜子を見下ろし、次に目を背け、前へと歩き出した。追いかけていくと、まるで食虫植物を解説するかのようなことを舌打ちしてから言った。
「それが手なんだよ、あいつは」


      



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