覚えてしまった道を歩き、教会へと向かった。午前を示す濃い黄色の光が、今日も換気の風に揺れて、建物の隙間から投げかけられてくる。アンダーグラウンドの気温は天気に左右されないので大体一定だったが、やはり太陽が見えないということでやはり寒いような気がした。
 怖がっているせいじゃない、絶対に。
 歓楽街のある第一街は、日中は夜に比べて人気がなく、普通の通りになっている。昼間もなお暗いその裏道に入って、紗夜子は教会を目指した。すると、その道にめずらしく人がいた。男が、一人。
 男の子と言っても差し支えない年齢に見えた。二つ三つ年上というくらいだろう。時間をつぶしているのか、口から飴か何かの棒を出して、手持ち無沙汰そうに壁にもたれている。いわゆる『不良』な同級生に似ている雰囲気に、紗夜子はちょっと怯みつつも、顔を上げず、目をそらして通り過ぎようとして。
「っ!」
 腕を掴まれた。
「お前? 最近アンダーグラウンドに来たって女」
 少年は紗夜子を引き寄せて顔を覗き込み、興味を持った声で言った。
「これがジャンヌの言った、UG幹部三人組を誑し込んだ女? 色気あるようには見えねーけどなあ?」
「はあ!?」
 少年の目が、紗夜子の貧相な胸とショートパンツから出たタイツに包まれた足にじろじろ注がれているのに、殴りたい衝動を堪えながら。
「たらしこんだって、誰が!?」
「お前」と少年の指が紗夜子の鼻先に伸びる。
「ついでに教主様にも色目使ったって。まージャンヌもどっこいどっこいだけどな。『教主様は罪深いあたしが関係を迫ったから仕方なく! あああたしってなんて罪深い女! 教主様に告白しなくちゃ!』以下エンドレス、だもんな。教主も生臭だよなー。据え膳はおいしくいただくところは尊敬するけどさ。ジャンヌもさー、もうちょっと生産的な客選んだ方がいいと思わね? ちゃんと甲斐性のある俺とか、浮気しない俺とか」
「…………」
 なんだか、愚痴を聞かされているような。
 紗夜子は努めて冷静に口を開いた。
「……ジャンヌさんって、どちら様?」
「えっ、認識もされてねえの!? ったく!」
 ようやく手が解放される。少年は、どこか気まずそうに頭の後ろを掻いた。
「悪かった。ジャンヌから、調子乗ってるからちょっと忠告してやってくれって言われたんだけど、それを本気に取ったわけじゃなくて、トオヤさんたちが大切にしてるあんたのこと、ちょっと興味あったんだ」
 にか、と歯を見せて笑う。そんな風に悪びれない笑顔で言われると、怒りどころがなくなってしまう。はあ、と曖昧な返事をして、先ほどの問いを繰り返した。
「それで、その人、誰?」
「ジャンヌはUGで、娼婦やってる俺のダチ。そこの教会の教主様にお熱なわけ。で、あんたが最近うろうろしてるのを見かけたみたいで、自分がないがしろにされるんじゃって思ったんじゃね? 嫉妬する女によくあるよくある」
「『よくある』って! 言いがかりじゃん!」
「うん。だから本気じゃなかった。でもごめんな」
 だからそんな態度はずるい。後頭部を見ながら、ちょっと上からの気持ちで、うんと言うしかなくなった。
 すると、彼は何かに気付いたようにはっと頭を上げ。
「あれ? それじゃあ、ジャンヌが客盗られたって言ってたのも嘘か」
「は」
 紗夜子はぽかんとし。
「はあああああああっ!?」
 愕然としながらも男の襟首を掴んだ。「うおっ!?」と驚くのも構わず、首をがくがくと前後に揺さぶった。
「誰が、身体、売ってるって!?」
「お、俺は嘘だって分かってるから!」
「当然だろーがっ!!」
 突き飛ばした。こいつを前後不覚にさせても意味がないからだ。紗夜子は歯をぎりぎりと鳴らす。

 男にだらしない、股の緩い女というレッテルは、紗夜子にとって最も不名誉で侮辱的なものだ。父親から監視されているために、付き合う人間を増やさないようにして、ろくに誰かを好きになることもなく、好きにもならないようにしてきた。好きになってくれた人をも拒絶してきた。
 そんな状況で、それでも自分を好きになってくれる人を望む気持ちは自然と生まれた。砂漠で水を求める渇望と同じ。誰にも告げられない秘密を抱えながら、友人でも恋人でも、ありのままの自分を好きになってほしいと願った。ただ、それは男なら誰でもいいというわけではない。
 そんな自分の根深い願望を、根も葉もない噂を流して汚されたとして、黙っていられるか。ノーだ。

「我慢できない。ジャンヌって女、一発殴る!」
「ど、どこにいるか分かってんの?」
「どうせ教会でしょ! エクスにのぼせてるんならね!」
 あ、そこは冷静なんだ。男が呟いた。
 地面を踏み割り、蹴破る勢いで教会の扉を開けた。
「教主様――?」
 喜色を浮かべて飛び出してきた女は、目が合ったのが平凡な少女だと知ると、一気に冷めきった表情になって腕を組んだ。紗夜子は一瞬、そのまっすぐな立ち姿に息を呑んだ。
(赤い――)

 若い炎を思わせる朱金色の髪に目を奪われる。炎の柱のようにそれは長く、腿の辺りまでを覆っている。青い瞳は切れ長で、化粧気は感じられないのに睫毛が多く長い。ぷっくりした唇と、組んだ腕の上に乗った豊満な胸が女性的魅力を目に訴えてくるが、その長身と険しい気配にはアンバランスだった。
 どこかで見たことがあるような気がする、と内心で首を傾げた時、相手が言った。
「サヨコね」
「……あなたがジャンヌ?」
「そうよ」と答え、ジャンヌは唇を歪めた。上から下まで、値踏みされるように見られる。紗夜子は顔を上げた。身長は、相手の方が少し高いくらい。だったら見下ろされてたまるかとプライドが動いた。そうして、お互いに顎を高くあげ、胸を張って対峙したのだが、紗夜子には身長も胸もなかったので若干負け気味だったのは否めなかった。だから、声は子犬が吠えるように甲高くなった。
「適当な噂流さないでくれる? 迷惑!」
「鵜呑みにされるってことは信用がないってことよ、新米」
 間違ったことは言われていないので一瞬詰まった。第一印象に反して、ジャンヌは正論でもって攻撃を繰り出す。
「第三から狙われてるってだけでみんなから守られてるくせに、私も戦うとか言って。遊びじゃないのよ。戦争なの。あんたが戦線にいるだけで、どれだけUGに負担をかけてるか分かってる? 分かったら、大人しく引っ込んでなさいよ」
 どんと突かれた肩を押さえて、紗夜子は相手を睨みつけた。
「何よ、その目。怒ったの? フン、本当のことじゃない。あんたの銃には覚悟がないわ。がたがた震えて、ろくにグリップも握れていなかったじゃない」
「……見てないくせに!」
「見てたわよ。あたしもUGだしね。前回の【司祭】との戦闘、あたしもメンバーだったのよ。なのにあんたと来たら、勝手に上に出てあいつらに襲われるわ、戦闘に参加したと思えばがたがただわ……なに、あれ」
 ジャンヌは鼻で笑った。美女の冷笑は氷の槌、もしくは針のような槍だった。
「だからって……だからって、適当なこと言わないで!」
「あたしは人から聞いたことをマオに話しただけよ」
 その瞬間、その一言を叫んでいた。
「――……娼婦のくせに!」
 そして、鋭く乾いた音が鳴り響いた。紗夜子は頬を押さえながらも視線を弱くすることはなかった。ジャンヌは柳眉をひそめて吐き捨てる。
「生きる手段もその覚悟もないお嬢ちゃんよりマシよ。北部Aサーバー襲撃作戦に参加許可もでないんじゃね!」
 怒りに輝く瞳でジャンヌは告げた。
「あんたに戦う力なんてないのよ」
「ストップ! そこまで!」
 掴み掛かろうとした紗夜子は後ろから羽交い締めにされ、腕と背中をしたたかに誰かにぶつけた。蹴飛ばすつもりで相手の顔を見ようとしてやると、静かな顔のディクソンがいた。視線を少し外せば情けない顔をした少年がおり、その隣にはトオヤの姿もあった。彼が、二人を呼んだのだ。
 厳しい顔つきをしたトオヤが紗夜子のところへやってきた。紗夜子は抵抗する力をなくした。
 何を言われるだろう。どう蔑まれるだろう。でも、何を言われても退くつもりはなかった。私は、誰かと心とからだを通い合わせることを、あの女みたいに軽く考えてはいない。
 すると、トオヤは頭を下げた。
「ジャンヌ。悪かった」
 紗夜子は呆然とした。――謝るんだ。
「トオヤに謝られる謂れはないわ」
「それでも。悪かった」
 ジャンヌは大きく胸を上下させた。
「考えた方がいいわよ、その子。使い物にならないんじゃない?」
 紗夜子は意志とは関係なくびくりと身体を震わせてしまった。
 トオヤが何か言う前に、ジャンヌは大きく手を振った。
「分かったならさっさと行って。あたしの邪魔しないで」


      



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