紗夜子は一度引き金を弾いたまま降ろせなくなっていた銃を、その時ようやく下げることができた。吐き出した息はかすかに震えて、まぶたの裏にはエリザベスの組織部品が吹き飛ぶ光景が焼き付いていたが、大きく息を吸って顔をあげた。

 トオヤの手が、招いていた。なんだろう、と弛緩したためにぼうっとしていた紗夜子の肩が叩かれ、振り返ると、ディクソンが立っていた。
「おいで」
 導かれるまま、未だ緊張感の漂う最前線に立つ。
 トオヤがエリザベスを拘束したまま、息を吐いた。
「自爆装置とかついてねえよな?」
「あんな美しくないもの、搭載してるわけないでしょう。第一世代ならともかく」
 ぼろぼろの肢体でエリザベスは嘆息した。心から美しくない、と呆れているようでもあった。
「あくまでも己の力で勝利すべし、というのがあたくしの美学なの。ね、エリシア、あなたはこうして守ってもらえて、本当にかわいらしいこと」
 エリザベスは微笑んだ。
「早く死んでしまえば楽だったのに」
 紗夜子はぎくりとしたが、自分を奮い立たせて詰問した。
「エリザベス。私を狙っているのは、高遠氏なの」
「そうよ」
「……どうして?」
「生きていられると困るから」
 エリザベスは、口を開け、身体を震わせ、哄笑した。
「今更傷ついた顔をしたってだめよ! 気付いていたんでしょう? あなたは高遠家に生まれてはいけなかった。けれど殺せなかったから追いやるしかなかったのよ、捨てられたエリシア!」
「それが今更こうして狙うのは?」
 トオヤが突きつけた銃口の先から、エリザベスは婉然と彼の顔を眺めた。そんな表情ができるのは、彼女の性質なのだろう。背中を撫でさすられているような気がして身震いする。これが【魔女】なのだ。エデンが抱える怪物。
「殺せないという大義名分が破棄されたからよ」
「誰に対しての大義だ?」
 唇を歪めたエリザベスに銃弾が撃ち込まれた。彼女は大きく身体を跳ねさせた。弾は彼女を貫くことはなかったようだが、痛みに顔を歪ませている。その目の前で、トオヤが彼女を見据えたまま、もっと巨大な銃を準備しているところだった。次はこれで撃つ、という意思表示だ。
「人間っぽい身体って不自由だな」
「……本当にね。痛覚なんて、どうして装備させたのかしら。第三世代に生まれたかったこと」
 疲れたようにエリザベスは目を閉じた。
「……あたくしたちが大義を掲げているのは統制コンピューターに対して。統制コンピューターは全市民の保護を保証するものだから、あたくしは勝手にその子を殺せなかったのよ。あなたたちUGにも、あたくしは命令がなければ手を出せなかった」
 その時、紗夜子の目に、エリザベスの目に重なった誰かの視線が捉えられた。

 透き通った。慈しみに溢れ、人よりも深く、しかし誰よりも高みにある。心を捕らえて縛める魔力。どんなものもゆったり微笑んで眺めることのできる寛容さ。恐ろしいくらいに美しい双眸。

 全身が硬直した。動けない。

(なつかしい)



 瞬間、周囲から光が迸った。紗夜子は動きが一瞬遅れ、その溢れてくる二つのものを直に浴びることになった。
「な……!?」
 彼らを攻撃する二つは、光と音だった。電話の音、ボタンの点灯、空調の音、テレビの大音量は不明瞭で、映像の光はめまぐるしい。パソコンからの音楽、ディスプレイの明滅、オーディオプレイヤーから最大音量でラジオなども流れてくる。太陽が落ちてきたような光の渦。音で地面が割れそうだ。
 それらは聞こえない歌をうたっていた。


 めざめなさい。
 めざめなさい――!


「【魔女】が予言をあげるわ、紗夜子」
 エリザベスが叫ぶ。無数の機器をコーラスに、ソプラノを歌うように。

「あなたは逃げられない。何者からも。自分からさえも。罪はあなたを苛み、あなたを滅ぼす。あなたは失い、絶望する。あなたは常に孤独で、歩みを止めることは許されない。果てない荒野を許されることなく行く。あなたの名前を教えてあげる」

 世界が終わるような混沌とした光の中、エリザベスは告げた。

「お前の名は罪」

 そして彼らに叫んだ。
「サヨコ・タカトオの存在によって、UG、お前たちには運命が訪れる! 破壊、裏切り、反乱が起こり、否応なく戦いの運命に巻き込まれていく。お前たちの戦いに、終わりがくることなどない!」
 風も吹いていないのに強風に煽られているかのように身が竦む。
「紗夜子!」
 それを切り裂くような声が紗夜子の名を呼んだ。
 息をのみ、目を見開いたが、光にまだ目が慣れない。それでも、声の主が手を伸ばし、引き寄せ、肩を抱いて紗夜子を支えたのが分かった。冷たい手の感触。
 エリザベスが笑う。
「その銃ではあたくしを撃てないでしょう?」
「撃てる」とトオヤははっきりと断言した。
 彼女も気付いたのだろう。見る影もなく破壊された右腕が、少しだけ動いた。
 エリザベスが紗夜子を見る。
「あたくしを撃つの……?」
 とろりとした誘うような目で囁く。
「もう、二度と、戻れないわよ……?」
 しどけない姿で寝そべる異形の女は、まさに【魔女】の名にふさわしい魔性だった。それに、一人ではないのに、一人で立ち向かわされている。トオヤの手は離れ、紗夜子は揺らいだ。足下を吹く風が冷たくて泣きそうだった。肩が冷たく、背中が寒い。なのに、誰も、助けてくれない。
 とどめをさすのは紗夜子だと、彼らが与えた試練だった。
 ここで泣きわめき、縫い止められ動かない近距離の的を外すようなら。
 今度こそ、紗夜子は戦う資格を取り上げられる。
 エリザベスを撃てば戻れない。紗夜子は、完全にエデンと敵対する。

(私の)
 私の願い。
 たくさんの思いが巡った。復讐したい。殺したい。怖い。恐い。取り戻したい。
 その中で、トオヤの言葉が全部を包み込んで、その奥の、その先のものを指し示した。
 ――『未来』を、と。
 思いも言葉も全部嘘じゃない。
 けれど、あの、彼に暴かれたものが、紗夜子のすべてだ。

「私は生きる」

 呟いた。力が、奥底から噴き出した。
「生きてやる。誰にそしられても、誰に死ねと言われても。絶対に生きて、生き抜いてやる。あんたたちなんかに絶対に殺されない」
 生きたい。思いもしない最期を迎えることになれば、紗夜子はきっと叫ぶ。みっともなく足掻いて、助けてと縋り付く。
 そんな無様な状況をも覚悟して、それでも生きていく。
「私が死ぬとき、それは、私に罰を与えられる人が罰を下したとき。その人が『もういい』って言ったとき」
 綺麗でもなんでもない。未来という言葉が含んでいる光さえない。
「それまで――私は、生きたいだけ生きる」
 朝起きて仕度を整え、朝食を食べ、生活し、昼食を食べて好きなことをし、夕食食べ、風呂に入り、自由な時間を毎日過ごして、眠る。
 それが、欲しい。
 ありふれたその日常が欲しい。

 ――ただ、生きる。
 それが答えだった。

「それが私の未来だ!」

 エリザベスは微笑み、紗夜子は弾いた。

 地面に向けられた音がひとつ。機械生命体の額を貫いた。中からはじけるようにして、オイルと人工血液が飛び散り、紗夜子の頬や腹部に散る。赤い液体の中で、きらきらと人工的な生体組織が輝いていた。

 ふと、また肩を叩かれた。
 違う。それまでぐずついていた空が、ついに泣き始めたのだ。
 土埃が泥濘に変わる中、UGたちが撤退を始める。倒した敵の前に立ち尽くす紗夜子の隣に、トオヤが立った。言葉はなく、涙もない。乾いた荒れ地のような寂しい気持ちが心に広がっていた。
「決めたな」
 頷いた。でも、それで限界だった。
 身体を反転させ、トオヤにしがみついた。
(戻れない。私は、もう戻れない)
 ぎゅう、と彼のシャツを握りしめる。涙はやはり出なかった。けれど、無性に胸を掻き乱されてならなかった。こうして繋ぎ止めてもらわないと、崩れ落ちてしまいそうだった。手を伸ばしたのは後悔したくなかったからだ。
 そうして、はっと彼の傷に気付く。肘から指先に向けて滴るのは、雨だけでない。青と赤が混じった紫色の液体。生体義肢を本物に見せかけるための、組織をスムーズに動かすためだけのものだ。
 彼の偽物の左腕は、とても冷たい。本物の血が通っていないからだ。同じように左足もそうだ。彼の驚異的な身体能力は、純粋な人間のものではない。サイボーグ。それも、戦闘のために特化した四肢を備え付けたのがトオヤだった。
(おんなじ道だ)
 不意に紗夜子はそう思った。
(私が戻れないと思う道を、私が進む道のずっとずっと先を行っているのが、トオヤなんだ)
 そう思えば、その手がすごく憧れのような、覚悟のようなものに思え、紗夜子は彼の手を握りしめた。トオヤは一言も慰めは口にしなかったが、黙って立っていてくれていた。揺るぎなく。
 腕は、硝煙のにおいがした。


      



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