「どこ行くん」
 ジャック、と紗夜子は振り返ろうとする。彼の髪に、頬が触れる。後ろから抱きすくめられ、ごくんと喉を鳴らし、言った。
「……行かなきゃ。ううん。行きたいの」
「あかん」
 胸にかっと炎が灯った。ジャックは、紗夜子が誰のところへ行こうとしているのかを分かっていない。
「トオヤが苦しんでるんだよ!?」
 感情を吐き出すままに名前を出してしまうと、ジャックはそれでも首を振った。
「ジャック。……アンダーグラウンドに戻る気はないの?」
 彼が潜入捜査すべく紗夜子を売ったなら、許そうと思った。
 けれど、ジャックは笑うために弾んだ声で言ったのだ。
「俺なー、このまま義務を果たしたら、第二階層にネットワーク技術者として戸籍もらえんねん。それとUG、どっち取るかって言ったら決まってるやん?」
「でもジャック、話し合いの場をもらうって」
「トオヤの言う通りやで。そんなん通るわけないやん」
 けたけたと笑いながら、手を振る。
「俺らは戦うしかない。戦って手に入れることしかできんようになってしもたんや。高度文明に生きとって戦争でしか変化でけへんとか、ちゃんちゃらおかしいわ」
 辛辣な台詞に呑まれた。そして、思い知った。
 ジャックは、戦いを憎んでいる。
 どうしよう、と思った。胸元についたままのブローチを握りしめていた。どうしよう、トオヤ。
(私じゃ、元通りにできないよ)
 自分が壊したのだと思わずにはいられなかった。高遠紗夜子という存在が、アンダーグラウンドの先鋒部隊の三つの柱を壊してしまったのだ。
「君は重要人物や。ここで逃げられたら困る。トオヤは大丈夫。トオヤは強いもん。俺もおらん、ディクソンもおらんようになったろうけど、一人の状況にはいつか慣れる。トオヤは戦わんで済む道、見えるようになったはずや」
「……そうなったらトオヤは、戦う理由がないんじゃないよ」
 ジャックが腕を緩める。声を低め、硬直と抵抗を止めた紗夜子の胸にはこれが答えだったのだという確信があった。

「ジャックがいなくなって……ディクソンさんもいなくなって。そうなった時に戦いをやめてしまったんなら」

 そして、ああ彼はなんて不器用で素直じゃないんだろうと泣き笑ってしまう。その表情はけれど笑顔にはなれず、切なく悲しい訴えになった。

「それが戦う理由なんだよ。トオヤは、ジャックやディクソンがいるから戦えるんだよ!!」

 誰かを守りたいんだね。その上で、みんなと共に生きたいと思ってるんだ。
 あなたは、自分のためには戦わない。
 それを歪んでいると取る人もいるだろうし、間違っていると言う人もいるに違いないけれど、トオヤのそれは一つの理由だ。
 なのに守りたいと思っている人たちが、彼を理解しないのは悲しすぎる。崇高な理想よりも、トオヤの理由は親しみがあって暖かいと思う。
 だからこそ、胸を焼き、駆けていきたくなる。守りたいと思う。戦うことを止めないでと叫んで、その心に前を向いていてほしい。
 それこそが、紗夜子の希望。目前から射す高い場所からの導きの光。

(大丈夫だよ。トオヤは強い。弱いのは私だ。ここにいることしかできない私だ。何度も立ち止まってしまう、あなたに守られる私なんだよ)

 手を取られる。
「行ったらあかん。あかんで」
 首を振る。言葉が出てこない。
 でもジャックの方がずっと必死だった。
「行かんといて」
 どうしてそんな声で縋るの。ずるいと思った時、影が落ちる。覆い被さるようなそれは、紗夜子の見上げる顔に、唇に、熱となって落ちてきた。目を見開いた瞬間、腹部に鈍い衝撃があり、意識が暗転した。


     *


『今行く』

「今行くって」
 無理だろそれは。思わず苦笑した。自分の返信メールが非常に暗かったのを払拭するくらい、どうしようもないなあいつは、とおかしかったのだ。
 アンダーグラウンド、零街。佐々波医師のところへ定期メンテナンスに来ていたトオヤは、どんな魔法を使ったのか、紗夜子からのメールを受け取った。そこにはいきなり、つよくなりたい、とあって、トオヤの胸には自己嫌悪の嵐が吹き荒れた。あれだけ偉そうなことを言っておいて、このざまだ。
「今行くって。無茶苦茶な」
 トオヤは医院を後にし、零街を抜けて、地上への扉の一つに立った。現在集中管理中の出入り口には、内側からも外側からも監視が厳しくなっており、何の権限もないトオヤが気軽に出入りできるところではなくなっている。無機質な扉の向こうには長々と続く地下道があり、階段があり。地上へ至る道は遠いが、そこから第三階層は数倍の道程がある。
 紗夜子が簡単にやってこれるはずはないのに。
「今行くって」
 また呟いてしまった。よっぽど、ツボに入ったらしい。額を押さえ。髪をかきあげ、しばらくして髪を握りしめた。後悔するように目を閉じ、眉を寄せる。
(……出来るはず、ねえのに)
 出来るはずがないのに駆けてこようとする。権限の有無とか可能性とか、その行動の先の行方、後始末、すべて考えずに、紗夜子は言ったのだろう。短くも彼女の発作的な感情を表したメールには、しかしそれ故に力強さがあった。羨むくらいの真っすぐさが。
 そうだとすれば、己のなんという卑小さか。

 トオヤは足を半歩下げ、少し迷うようにそこに留まった後、くるりと扉に背を向けて走り出した。地下へ。更なる地下階層、アンダーグラウンドの中枢へ。


      



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