紗夜子はダイアナに部屋に押し戻された。磨き上げられた爪が光る手を振り払おうとすると、それよりも早くにっこり笑って顔を覗き込んでくる。
「サヨコ、着替えてくれる? 代表代理があなたとお食事をと言っているそうだから」
 彼女がぱんぱんと手を打ち鳴らすと、メイドたちが衣装とアクセサリー諸々と持って現れる。その人数に圧倒された。しかも、みんな美人だ。
「まずお風呂でぴっかぴかになりましょうか。ごしごしするけど痛くないから大丈夫よ、たぶんね。その後はオイルマッサージ、美肌マッサージ。ぎゅうぎゅう押さえつけるけれど大丈夫、ちょっとの我慢、二時間は絶対かかるけど。ヘアケア、ネイルケアで足先から一番長い髪の毛までお手入れ。しばらくじっとしてなきゃいけないけど、その頃には動きたくなくなってるから大丈夫」
「いやだ!」
 ダイアナとその後ろにずらりと並んで揉み手をしながらにっこり笑う女性たちに、UG部隊と敵対するよりも恐ろしさを感じ、後ろへ下がる。
「い、いやだ!」
 ダイアナはそれを無視して促した。
「これからのことを考えたら、こんなのは序の口よ。存在感こそすべてなんだから、舐められないようにしないと。あなたはタカトオとエガミを背負って立っているようなもの。そしてエデンの次期統制者候補なのだから」
 顎を引き、考える。
 ――『統制者』とは?
(エデンの統制者……それってエデンの統制コンピューター以外のものなの? 私が候補。人間でない【魔女】たちも、候補)
 エデンという都市そのものの存在が、とてつもなく薄気味悪かった。初めて聞く『エデン統制者』という言葉。エデン運営者たる三氏を支配して、なのに他の人々に存在を秘されているというのは、人形に似て、別の生き物のような存在感を、まだ何も知らない紗夜子に植え付けていた。
「……統制者って、何なの」
「あなたは賢い子だわ、分かっているでしょう?」
「…………」
 紗夜子が想像するその存在の名は。

「――カミサマ」

 ダイアナは微笑んだ。自らの一言に底知れぬ大きさを感じ、震える紗夜子に、まるでカミサマの遣いのように、誘うように、優しく。
(私が、候補……)
 私はいったいどうなるの。
 自問したのは一瞬だった。身じろぎした瞬間に、紗夜子の襟元につけていた鋏のブローチが、呼ぶようにきんっと光った。
(……こんなところで不安になってる場合じゃない!)
 その存在を思い出した紗夜子は、胸とともに力強くブローチを握りしめた。
 自分がいるところは、敵の本拠地。これからどうなるかは紗夜子自身の行動にかかっている。七重と会ったのも、彼女の代わりに表舞台に立っている江上氏に会うのもその前段階に過ぎない。
 何もかもが自分を巻き込み、まだはっきりと掴むことのできない流れの中で、紗夜子が間違いなく感じているのは、自分は確かに怒っているということだ。
 紗夜子はダイアナに向かって言い放った。
「会うよ。その、代表代理って人に」
「その意気よ、サヨコ」とダイアナたちは紗夜子の意図など知らずに拍手をする。





 紗夜子が意気込んだあまり喧嘩を売りにいくような体でどすどす足音を立てて別室に消える頃、ジャックは車の後部座席に収まって移動中だった。
 先程乗ってきた車とは比べ物にならないほど、見るからに高級な車だった。ボンネットに触って怒られるのはもちろんだが、金色の輝くエンブレムを引っこ抜いたらどれくらい怒られるかな、と考えてにやにやする。
 ボディーチェックをされて向かった先は、また巨大な洋館だ。館までは庭師がうろついているような洋風庭園で、物珍しく見ていると先導する秘書という男が鼻で笑った。まあ笑われるだろう。ジャックの見た目は現在非常にここにそぐわないし、都市に初めて足を踏み入れた自由人かと思われても仕方がない。都市の保護を拒否し野人とも称される自由人と、都市に住みながら人権をほとんど認められていないUG、どちらがましだろうか。
(なんにも縛られへん分、自由人の方がええやろなあ……)
 それでもUGが戦うのは、ここでのすべての便利から離れられないということが大きい。UGに限らず、人々の多くは、生体義肢や人工臓器という自らの肉体の改造を行っており、そのメンテナンスや維持のためにどうしても専門の人間、機器や知識が必要になる。都市を出て暮らしていくためには、機械の手足はいつか錆び付くもので邪魔になるものだった。
 手足を機械に変えてまで都市の改革を求めてきた歴史は、いつの間にやらUGを都市に縛り付け、都市に執着させている。

 新しい世界を目指すなら、都市なんか捨てたらええねん。新しい都市作ったらええねん。そうしたら戦わんでええやんか。

 子どものジャックの言葉を、仲間たちは臆病者と笑った。アンダーグラウンドに生まれた時点でUGに片足を突っ込むようなものだから、上を望む者の多くがUGになった。後は歓楽街の仕事へ出たり、医者に弟子入りしたりとアンダーグラウンドを支える者になった。UGは戦う存在だった。体術を会得し、銃を持ち、それでも足りぬ者は手足を機械にして能力の向上を図った。UGになることは通過儀礼に近かった。
 不思議だった。何故、それ以外の道を選ぼうとしないのだろう。
 本部の大人たちから『新しいエデン』の構想を聞いても、そんなものかとしか思わなかった。すべての人間に都市を動かす権利があり、政治家となれる可能性がある世界。階層の概念が払拭される新しい世界。もしそれが実現すれば、確かに新しい都市が始まるだろう。けれどそこには恐らくまた別の戦いがあり、差別と偏見は自分たちが生きている内にはなくならないだろう。それに立ち向かうことは崇高に違いない。
 けれど、UGは、ただ戦うことに固執しているとしか思えない。――都市など、捨ててしまえばよかったのに。

「野蛮人やな」
 呟きは室内の警備たちに届いたはずなのに聞き流された。それが現実だ。
 しばらくして年取った男が現れた。執事だろうと見当をつけて、ジャックは立ち上がる。
「旦那様がお呼びだ」
「はいはい」
 わざと神経を逆撫でする。老練の執事は、こちらを見た時から変わらない生真面目な顔のままだが、ジャックが廊下に出ると、年若いメイドたちは露骨に顔をしかめた。
 また入念なボディーチェックの後、通された部屋は、左右を棚に囲まれた応接に使うようなところで、ざっと目を配ったところ、セキュリティシステムは万全、人的警備も、ジャックの後ろに二名ついているからしっかりしているだろう。棚のどこかには警報装置がついているに違いない。
 奥の窓際に立つ人影。長身で、髪を撫で付け、上等のスーツに身を包んだ五十がらみの男だ。半分こちらを振り返った顔は、血を分けているはずの少女の面影はないなと思う。
 それは今考えることではないかと、ジャックは微笑を浮かべると、踵を揃えて直立し、胸に手を当てて一礼した。
「ジャックと申します。お召しにより、参上いたしました」
「報告書は」
 名乗り返すこともしないのは、彼が三氏の一人、タカトオだからか。
「こちらに」とジャックは分かり切っていたことに気分を悪くすることなく、コートの裏に収めていた分厚い封筒を取り出した。それをがたいのいい秘書が受け取り、高遠氏に持っていく。たくましい腕と太い指が封筒を捧げるところを見ながら、何人秘書がいるか分からないが確実に全員武術のプロだな、と口笛を吹きたくなった。
 高遠氏は書類をざっと眺める。読み終わるまでジャックは指まで揃えて直立し、微動だにしなかった。行きつ戻りつして書類を読み終えた高遠氏が目を上げたところで言った。
「以上が、ライヤ・キリサカ、トオヤ・キリサカの報告になります」
「アンダーグラウンドの工学技術の向上に貢献とあるが」
「ライヤ・キリサカはアンダーグラウンドのUGのトップと懇意になり、技術開発者として受け入れられました。UGの肉体改造による戦闘能力、武器開発の向上は、彼の功績が大きいのです」
「トップの名は」
「ジョーカーと呼ばれています」
「君はトップの息子ではないのかね」
 ジャックは瞬間的に笑みを浮かべた。
「よくご存知ですね」
「エガミの情報はタカトオの情報だ。そういう契約を交わしたのだからな。トップの息子が裏切りとは、お前も業が深い」
 実の娘を殺そうとしたりするあんたには言われとうないわ、とジャックは笑顔の裏で思う。だからこそ業が深いと言ったのだろうが。
(これがサヨちゃんのお父さんね……)
 もう一度書類を一瞥し、用がないと判断したのか、秘書に渡しながら高遠氏は言った。
「キリサカは落ちたな。第三階層家の誇りを失った。礼を言おう、UG。キリサカの除籍に一役買ってくれた」
「除籍? 戸籍でも消去するのですか」
「その辺りの事情をよく知っているようだ」
「まあ、付き合いは長かったものですから。戸籍が残ったままだというのは聞いていました。何故か分からないけれど、と言っていましたが」
「私にも分からん。『アレ』の考えることは我々には理解できんということか」
(『アレ』。……現統制者かな?)
 統制者とは、エデン三氏の頂点、エデンマスターを操作できる者、という情報を、すでにジャックは得ていた。その候補者が紗夜子であり、【魔女】たちである。
 この親しい口調から察せられるのは、この男は統制者と面識がある、そしてかなり親しい間柄だということだろう。何も考えていない振りをして、あはは、とジャックは追従の笑い声を上げる。
「高遠氏にそう言われれば、私など理解のりの字にも到達できません。その方にはUGとしてたくさん一泡吹かされましたから」
 ふん、と高遠氏は笑った。否定しない。
(ほぼ確定やな。サヨちゃんを認定したのは統制者、キリサカの戸籍を残してんのも統制者や)
 高遠家と霧坂家、双方に関わりのある人物――まったく思い浮かばない。
 要調査やな、とメモしておく。
「他に何かお知らせすることはありますか?」
「今はない。だが要請があればすぐに出頭したまえ。『アレ』も、アンダーグラウンドでキリサカに接触したお前に興味を持つだろうしな」
 会談は終わった。一礼して退出する。武器と見なされて取り上げられたネックレスを返却してもらい、それまでの態度とは一変、コートのポケットに両手を突っ込んで、ぶらぶらと歩く。
(『アレ』。『アレ』ね。名前呼ばんとこーみたいな感じやったな)
 それが高遠氏の物言いか。それとも『アレ』、エデンマスターが旧知の人物なのか。そして、その存在は、キリサカとも知り合いの様子。顎を撫でる。キリサカの方はそんなことは一言も言ったことがない。
 ライヤ・キリサカには、UGにも伏せている内情があるようだ。そしてそれは、トオヤも知らない。
(なんや、俺らにも知らされてないことがあるみたいやな)
 知らないのは先鋒部隊だけか、それとも、UG全体か?

 その時、ざっと周囲を人が取り囲んだ。ジャックは一通りの顔を見て、理解する。正面の男が、ばきばきと拳を鳴らしながら笑っていた。
「第三階層の礼儀を教えてやろう、UG」


      



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