地下二層。
 地下三層には巨大な空間があり、一層もマンションが建つくらいの大きさであるためか、地下二層は天井が低く、通路的な印象があった。狭いが物や隙間があり、身を隠すところも多く、布の靴で走っていた紗夜子は、布が音を吸収して足音が消えていることに気付いて内心自分を賞賛した。これなら追われにくい。
 取りあえず上層への階段がある区画に向かう。しかし、目の前が激しく点滅を始め、足から力が萎えていった。頭と胃が反転するような気分の悪さが襲う。
(やば……)
 倒れかけ、なんとか自分でブレーキをかけて壁に寄り掛かる。脂汗が滲む。
「……パーティめし、食べてくればよかった!」
 空腹と貧血と足の痛みが一気に来た。視界の隅に入った細い路地に、身体を押し込んで隠れ、座り込んだ。何気なく空を見上げ、苦笑した。上は、真っ暗だった。空が見えると無意識に思い込んでいたのが笑えた。
 まだ決意したその日だというのが、信じられない。
 何度も決意して、なのに迷ってきた。でもトオヤの、発砲と爆発の光が顔の横からあたって、目が輝いているのを思い出して、これが最後なのかもしれない、と思った。自分の、いつでもそこにあった過去に背を向けていたことの。
 もう目を逸らせない。あの瞳の光に誓うなら、紗夜子はもう、過去から目を逸らすことはできないのだ。
(……エデンを変えるためには)
 これからのことを考える。合わせた手のひら、親指に唇を寄せる。手の中に息を吹き込むように、静かに息を吐く。
(【女神】を破壊する)
 現在のエデンは統制コンピューター【女神】の統治下にある。これが階層社会の頂点だ。統括を壊し、第三階層が掌握している都市運営の手段を奪えば、第三階層者が第三階層者たる階級は意味をなさなくなるはず。次の政治体系はアンダーグラウンドに理解があり、あらゆる民衆が受け入れられるものにすれば、UGは市民権を獲得できる。
(アンダーグラウンドがみんなに知られるようになることは必要じゃないのかな。今のままUGが認知されても、間違った認識のままだよね?)
 紗夜子だって、しばらく前までは、UGは単なる犯罪者集団だと思っていた。よく考えれば反政府的なものだと思えたが、そこまであからさまに第三階層に反抗しているという風には報道されていなかったと思う。
 だったら、アンダーグラウンドが何を目指して戦っているか、知ってもらうべきだ。
 ざり、と足音がした。息を殺して身を潜める。走ってきて忙しない息を吐く気配があり、声がした。
「紗夜子さん」
 紗夜子は詰めていた緊張を緩めて這い出た。
「ディクソン」
「無事だったようだね」
 そう言って携帯電話を振った。AYAが居場所を知らせてくれたのだ。
「大変だろうけれど、移動しよう。マオに逃げられた。多分、トオヤたちに報告がいったはずだ」
 頷く。先頭に立ったのはディクソンだった。地下三層も知らない紗夜子が、こんなややこしい通路ばかりある二層を迷わずに歩けるはずがない。
 狭く細い道を歩きながら、紗夜子は考えていたことを話した。ディクソンは言った。
「君が考えたことは、一度実践されているんだ。四年前に第一階層で起こった大規模テロの話をしたね?」
「うん、覚えてる」
 第一階層の各所で同時多発的に起こったテロ。建物や車両が爆発し、通行人や周辺の建造物を巻き込んで、大きな騒ぎになった。当時紗夜子は中学生だが、警戒レベルが高くなって休校になった記憶がある。
 そして四年後のその日、紗夜子はトオヤに会った。背後では、デモ隊が声をあげていて。
「第三階層は、何をしたんですか」
「四年前、UGは第一階層の反政府グループと協定を結んでいたんだ。けれど反政府活動を行おうとして支持者を集めていた矢先、第一階層でテロが起こった。場所はそのグループの拠点で、複数の拠点が襲撃された。これを、マスコミはUGの犯行と報道したけど、テロは第三階層者の仕業だろうと言われている」
「じゃあ……やっぱり第三は、UGに濡れ衣を着せたの!?」
「恐らくね」
 そんな、と紗夜子は言葉もない。拳を握る。許せないと思った。
「以後、アンダーグラウンドは第一階層と必要最低限連絡を取らないことを決めた。反政府活動は、すべてUGが被ることをしたんだ。私たちは、上階層の一般市民を巻き込みたいとは思っていないから」
「でもこのままじゃ、UGが悪者のままになるよ」
 ディクソンはなんとも言えない顔をした。今はどうしようもないのだと言いたそうだったが、言っては傷付けると気遣ってくれた顔だった。
「UGが単なる犯罪者たちの集団だと思っている人もいれば、反政府グループだと言っている人もいるよ。その他にも、第三階層の秘密組織じゃないかとかね。そういった噂はインターネットで一定に流布しているから、君が悲しく思う必要はないんだよ」
「でも、私は、みんなが悪く言われるのはやだ」
 うん、とディクソンは頷いた。笑いもせずに、同意してくれた。
「だったら君が、主張し続けてくれればいい。私たちを信じてくれればいいんだよ。そしていつか、そのために何かしてくれればいい」
「……『いつか』?」
「そう、いつか。今でなくていい。君にはまだ可能性がたくさんある。急いで何かしようとは思わないで、可能性をちゃんと育ててほしい。大人は、そのために未来を作っているところだから」

 いつか、同じようなことを言われた。急いで大人にならなくていいんだよと言った少女がいた。

 ――さぁちゃん。

 思い出された呼び声に、息を吐く。深く。

「でも私は」

 また同じ答えを口にしてしまう紗夜子は、もしかしたら間違っているのだろうか。

「今、が欲しいの。今。みんなを、守りたいの」

 そのためだったらなんだってできる、と、いつか答えた。
 私が変える。エデンを変える。
 その思いは、傲慢なのだろうか。



     *



「ディクソンさんってまじ強えっすね! 俺感動しました。組み合えて光栄でしたよ!」
 熱く語るマオは、興奮したのだろう、適当に仲間をつかまえて狭いところで組み合いもつれあいの運動を始めたものだから、トオヤは「疲れるまで戻ってくんな」と放り出した。汗臭い司令室なんてごめんだ。
 数時間後、逃げ切られてしまったらしい報告を聞いている頃、マオは戻ってきた。上半身裸で、シャツの汗を絞っている。「拭いてこい」と閉め出して、十分後、戻ってきた。
「あーサヨコたちに逃げられちゃいましたか、すんません」
「一人だとやっぱり無理だな。最低二人。三人がベストだな。二人掛かりでディクソンを止めて、もう一人が紗夜子を押さえる手でいこう」
「あのお……やっぱ三人でディクソンさんが一番強えんっすか?」
 そろりと妖怪みたく声を潜めながら、それでも溢れる好奇心で輝く瞳を隠そうともせず尋ねるマオ。トオヤはジャックと顔を見合わせた。
「そりゃあな」
「だって、ディクソン、俺らの先生やし」
 初耳という顔になったマオだ。
「ディクソンって、地上で軍に所属してたんらしんやけど、なんや騒ぎ起こして落ちてきたんやったかな。軍人やから喧嘩強いし、アンダーグラウンドで問題ばっかり起こして、最初鼻つまみもんやったんやで」
「へえええ! 今すっげー穏やかっすよね? 想像できないなあ。例えば何したんすか?」

 地上へのドアを「辛気くせえ」と言いながら蹴飛ばして破壊したり、アンダーグラウンドに大型バイクを乗り入れたり。大型トラックという噂もある。バーを一件破壊したとか、UGとタイマン張って百人切りしたとか、ホステスを拉致誘拐したとか。いや、これは拉致誘拐されそうになったので逆に人質を取ったのだったか。

 トオヤには思うところが色々あったし、ジャックもそうだったろうが、ともかくジャックは、「プライバシーにかかわるので秘密や」と指を立てていた。
「んで、暴れん坊の頃、ボスが引き取ったんやったかな。しばらくしたらめちゃ大人しなっててびっくりしたわ。だからかな、ディクソンが唯一頭上がらんのはボスやで」
「いいこと聞きました。何かあったらボス頼ります」
 で、とジャックはこちらを見た。
「現在時刻午前三時五十分! 夜が明けるわけやけど」
「地下一層には上がってないはずだ。カメラに映っていないし、近付いてもない。三層にも降りてないだろう」
「だったら二層で留まってるんすよね。巡回させてますし、人目についてないんだったら、どっかに潜んでる可能性高いっすね。睡眠取るんだったら第二街とか五街に空き家が結構あります」
「それか遠方に逃げられたかやな。それやったらまずいな。俺らが押さえたのは零街から半径五キロ。その日のサヨちゃんの体力を考えた結果やけど」
 自分もだが、ジャックもそれほど気力があるわけではない。仮眠を取ったが、昨日の今日でまだ回復していないのだ。疲れで血の気が下がってきたのか、冷静になったトオヤは自分の言動を思い返して頭を抱えた。
(親父の挑発に乗っちまったのは、やっぱりしくじったよなあ)
 後から何かが起こりそうだ。しかし、それよりも。
(紗夜子は、無事なのか?)
 第一階層でライヤにさらわれてから、姿を見ていない。突然こんなゲームに巻き込まれて、疲れていないだろうか。体力が底をついて倒れるようなことは、ディクソンがいるから大丈夫だろうが、無理をさせているのは間違いない。それにマオと仲がいいようだったし、突然追われることになって、傷付いていないだろうか……。
 マオがびくっと跳んだ。
「トオヤさん……なんかすげー俺のこと睨んでません?」
「……一発殴りてえ」
「え、謂われなく!?」
 紗夜子がマオに追われている姿を想像したら腹が立った。
「後手に回ってる感があるからー、そろそろ仕掛けていこかー」
 マオににじり寄っているトオヤを放って、ジャックが一同にのんびり声をかける。


      



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