紗夜子に情報封鎖ができるなら、それは知り合いに限る。アンダーグラウンドの、数少ない知り合いに。ここに来て日の浅い紗夜子に接した人間は、ごくわずかに限られた。だからこそトオヤたちは、最初に零街の自宅へ向かい、佐々波のところを尋ねたのだ。
 それでも見つからないということは。
 見上げた、きらめく看板。煌煌と灯る光にそびえ立つ、朱色と金の建物。アンダーグラウンドの最大の高級酒場、光来楼に、トオヤは足を踏み入れた。
 女主人を呼び出し、行方を尋ねると、「自分で探しな」という言葉で蹴り飛ばされた。騒ぎはすでに一層に伝わっているらしく、仕事を放り出した娘たちや、客たちまでもが、女主人と対峙するトオヤを見守っている。トオヤは上を見上げ、手すりから身を乗り出している少女たちから、目当ての二人を呼んだ。
「リン、ラン。お前たち、知ってるな」
 びくっと二人は飛び上がり、顔を見合わせて笑った。やっぱりか、と息を吐く。
「邪魔するぞ」
「客の邪魔するんじゃないよ」と言っただけで、女主人は拒まなかった。

 階という階、部屋という部屋を見た。知り合いが呑んだくれていたり、トオヤを新しい酌婦だと思い込んで抱きつこうとする輩が現れた。酔っ払いを殴り飛ばしたり蹴り付ける度に、トオヤの焦燥はひどくなった。紗夜子には絡まれた前科があった。また同じことがあったら。今度は連れ込まれたりしているかもしれない。悪い方へ考えが行き、もやもやは拳に乗せて、不逞の輩を押しのけた。
 だが、いくら巨大な店だといっても限定されている建物なのに、自分でもよくわからない焦りで探しているせいか、なかなか見つからない。ここまでくれば裏しかない。出入り口は見張らせているので中にいるはずだ。
 喧噪はいっそう大きくなっていた。それが自分が喧嘩騒ぎを起こしたせいだということに、トオヤは気付かない。耳に、通信が接続される微かなノイズが聞こえた。
『トオヤさん! 目標発見、表玄関で、うわっ!?』
 身を返した。四階にいたのが二階まで駆け下り、玄関のホールまでやってくると、見張りにつけていたUGはリンとランに抱きつかれ、笑い声を響かせていた。
「こちょぐりこちょぐり!」
「や、やめ、ぎゃははは! と、トオヤさ……!」
「おつかれ。後は俺が行く」
 引きはがしてやる手間が惜しいので、トオヤは表へ飛び出した。多分、女たちに抱きつかれてラッキーなのだから構わないでいいのだ。
 道の左右に目を走らせると、ひらひらした黒いスカートが、蝶々のようにひらめいているのが見えた。走りにくそうなヒール音が響いている。
「こら、紗夜子、待て!」


 紗夜子は盛大にびくついた。そのせいで足がもつれて転びそうになった。だが足を止めることはできない。まだ二日目、時間にすればたった二十四時間程度だ。ここで捕まるわけにはいかないのに、状況は、思いに反して最悪のコンディションだった。せっかく匿ってもらえたのに、靴を変える暇もなく、いつの間にかぼろぼろになってしまったパンプスで走っている。体力も底をつきかけだ。だから、この足ではトオヤに敵うはずもない。
 後ろから追いかけてくる足音がする。誰かにぶつかったことも音で分かった。石畳は靴底と相性が悪いからか滑りやすく、ヒールは溝にはまりかける。スカートは制服のミニよりも頼りなく魚のひれのごとく泳ぎ、しかし必死の形相に風情もない。
(何か! 何かない!?)
 走っている視界に、ゴミ箱が見えた。考えたのは一瞬もなかった。紗夜子はそれを足場に、屋根の上に上る。
「なっ!?」
 辺りから悲鳴とも歓声ともつかぬ声が上がる。いや、歓声のようだ。酔っ払いたちがやんややんやと、それぞれに声援を送っている。
「頑張れ、逃げ切れ!」
「トオヤ、しっかり捕まえろよ!」
「落ちるな、行けー!!」
 紗夜子は屋根の上を走り出した。丸くなって寝ていた猫が、びっくりしたように尻尾を膨らませて飛び退き、それを避けるためによろけたり、手入れをしていないらしい瓦や屋根の上のごみを蹴飛ばす羽目になった。降ってくるものに、地上の人々は悲鳴を上げた。
「待てっ、紗夜子!」
「何で、追いかけてくるの!」
「お前が逃げるからだ!」
「トオヤに捕まえられたら意味ないんだよ!」
「知るかボケ!」
 ボケって言った! 反転して蹴り飛ばしにいきたいと思ってしまったが、こうなったら逃げ切ってやる、という気持ちに変わった。平均台だと思えば怖くない。こんなところで怯んでいられない。
 距離が開いたところを飛び越えると、地上から声が上がるのが気持ちいい。
「紗夜子っ」
 走っていると、胸が苦しくなってきた。それは何故か、次第に涙になって視界を歪ませた。

 走れ、と何かが叫んでいる。走り続けろという声が聞こえている。
 すぐ変われるなんて思ってもいないし、今の自分にはそんなことしかできない。
(あげたいんだよ、トオヤ。私は、あなたに自由をあげたい)
 自由という言葉を使っても、何かもっと別のもののような気もした。何かをあげたくてたまらなかった。自由に駆け回る足。束縛のないこと。それよりも、もっと大きな何か。

 がく、と足を踏み外す音が、やけに大きく聞こえた。身体が傾ぎ、覚悟もできなかったのに。
「…………!」
 落ちることはなく、支えられていた。
 一飛びに距離を詰めたトオヤが、片腕で紗夜子を抱え、もう一方で二人分の身体を支えていたのだ。

 籠った風が下から吹き、ここがものすごく不安定な場所だったことに今更ながら気付く。
 トオヤは、何も言わない。
「トオヤ……」
 その目を見ていて覚えたのは恐怖心だった。
 怖い。すごく、怖い。すごく会いたかったのに、何を言われるか、ものすごく怖い。
(こわい、たすけて)
 助けて、トオヤ。心は、今自分を追い詰めているその人に縋っていた。誰か助けてと呼ぶのではなく、目の前のトオヤを呼んでしまう。自分を追い込んでいるのがそのトオヤであってもだ。もう分からない。答えがない。どうすればいいのかマニュアルなんて知らないし、あったとしてもここで開くことはできない。検索エンジンに頼ったって、フォームに入力するキーワードが思いつかない。

 今、鼓動を速くして、涙を生み出そうとする、縋り付きたいと衝動になろうとするこの気持ちは、なんて名前なのだろう。

「トオヤ、私……」
「頼むから」とトオヤは言葉を掻き消した。
「逃げるなら、逃げるって言ってからにしろ」
 意味を取れずに、トオヤが引き上げてくれるままに、屋根の上に座り込む。どういっていいか分からない顔で、彼の顔を見つめた。
 はーっと、ため息がした。
「ばらばらになるのは、もうたくさんだ」
 胸を突かれた。
「ご、ごめん、トオヤ。ごめん」
 ごめんね、と何度も繰り返した。離れ離れになるのは、紗夜子だって嫌だったのだ。
 でも、怖いという気持ちは、また離れてしまうかもしれないという不安から来ているものではないようだった。
「ごめ、」と言いかけた口を、「もういい」とトオヤは大きな手のひらで塞いだ。

「言いたいことがあるなら、ちゃんと言え。受け止める。一人が不安なら、守るから。……俺の言いたいことは、それだけだ」

 手が、下ろされる。

「『共犯』、なんだから」

 目を丸くしたまま、トオヤの、いつもとは違う儚い笑い方を見ながら、理解していく気持ちがあった。

(こわかったんだ)
 これが間違っているとしても、思い込みでも。思った以上は、自分の気持ちであることは変わりない。



(もっと心を暴かれそうで……こわかったんだ。私が、トオヤを好きだって気持ちがばれてしまうのが、こわかったんだ……)



 追いかけて、捕まえてくる。手を引いて、連れていこうとする、そのつながった場所から、トオヤはすくいあげるように紗夜子の気持ちを知ってしまいそうな、そんな恐れがあったのだと知った。
 その手が大切すぎて、離したくないから。
 知りたいと思うから、知られてしまうのが、こわかった。

「トオヤ……」

 ぴるるるる! と響いた携帯電話に、心臓が飛び跳ねた。どくどく鳴る胸を押さえて、紗夜子は目を白黒させる。かーっと、顔に血が上ってきた。
(い、今!)
 言おうとした、言おうとしちゃった! と汗がどっと流れた。
『やあやあ、かくれんぼ終了、おつかれさま!』
 洩れ聞こえてきたのはライヤの声だ。みるみる、トオヤの顔がこれまでに見たことのないような鬼の形相になる。
「てっめえ……くそ親父!」
『さよちゃん、おつかれさま! よく逃げたねー、予想外だったよ。これから審議にかけるからね。大丈夫、君はうまくやったよ』
 言われて、ほっとした。言い方からすると、トオヤは指揮官に戻れそうだ。
「紗夜子……お前、何やったんだ」
 え、と目を瞬かせる。聞いていないわけないのに、どうしてそんなことを聞くのだろう。
「ライヤさんと賭けをしたの。トオヤの能力を示せるように、三日間かくれんぼするって。長く逃げれば逃げるほど、能力を見られる試験みたいなの。合格したら、トオヤに先鋒部隊の指揮権を返してくれるって」
 トオヤの周囲から、温度が消えた。みるみる氷点下を示すような、重々しい空気が漂い始める。
「親父……てめえ、俺に言ったよな? 紗夜子を捕まえれば指揮権戻すとか。んで、紗夜子には、逃げ切れば俺に指揮権を戻すっつったのか。…………てンめえ、図りやがったな!!?」
『人聞き悪ぅい。真剣になるようにしてやったんじゃなーい』
「――ツブス!!」
 電話を叩き付けるように切ると、トオヤは屋根から飛び降りようとして、ものすごい顔のまま振り返った。
「じゃあ、お前が俺たちに不信感を抱いて逃げようとしたっつーのは嘘だな!?」
 目をぱちぱちした。
「なに、それ」
「……だったらいい!」
 そう言って身軽に飛び降りてしまった。義足を使った全速力で、ライヤのブレードもかくやという速度で一気に地下階層へ走っていく。その背中がほれぼれするくらい強いので、ふわあ、と口を開けて魅入っていた。
(やっぱり、トオヤは走っていくが一番輝いてるのかも?)
 笑みが浮かび、笑い声を閉じ込めるみたいに小さくなって笑った。

 スカートを風に巻き上げられ、恐る恐る立ち上がる。屋根の上から眺めたアンダーグラウンドの一層目は、ごみごみとした地下の街だった。悪趣味な色彩の電飾が輝き、屋根はひしめき合い、決して空など見えないけれど、閉ざされた頭上からは天からの光が強く降り注いでくるような気がする。アンダーグラウンドの人々にしか見えないそれに、みんな手を伸ばして、目指していく強い意志を胸に秘めている。
 深い場所から、世界を目指す。

(行こう)

 捨てたい過去と、逃げられない現在。秘めてきた傷と怒りや憎しみといった衝動に、今ようやく気付いた温かな恋心を胸に。非日常、今はこれこそ日常。
 そして、紗夜子は言った。



「…………どうやって降りよう……」


      



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