インターホンが、ぽーん、と響く。静かなマンションでは、室内へ来訪者を知らせるその音がよく聞こえた。紗夜子はドアに耳をつけて中の様子をうかがったが、今日も、物音ひとつしない。
 唇を尖らせ、もう一度インターホンを押してみるが、部屋の主が現れる気配はなかった。仕方がない。でも紗夜子はちょっとした意趣返しにドアを爪先でがつんと蹴った。

 今日のアンダーグラウンドは比較的静かだった。第一階層で起こったUGによる都営ホテル襲撃事件から、もう十日以上が経っている。第一階層から上での正式名称は都営ホテルテロ事件だが、UGとしては紗夜子を奪還するためだったので、テロという言葉は正確でない。
 核心的な位置にいる自分が、ちょっと照れくさくなり、変な顔をすることで複雑な気持ちを堪えた。思い出したのは、その後の集まりでのことだったからだ。


 襲撃作戦から後に起こったアンダーグラウンドの鬼ごっこの後、UG本部はUGの戦闘員全員を、地下四層の施設へ招集した。その場には紗夜子も招かれた。
 ボスは、全員に、先鋒部隊がUG本部の先鋭であることを確認した上で、本部からの命令は絶対であること、第三階層への偵察、密偵、襲撃等は本部の命令で行われることを全員に通達する名目で、一部の人間、主にトオヤたちに言い聞かせるように口にし、そうしてUG本部から正式にトオヤ、ジャック、ディクソンの、先鋒部隊復帰が内示された。また、マオたちの階級も上がったらしい。静聴の中でラッキー! と叫んで、後衛部隊の大人たちから苦笑をもらっていた。
 そしてボスは紗夜子を呼び……。


 ぐりゃりと自分の顔が無意識に曲がった。頭を振る。
(いや、もう考えるのは止めよう!)
「あ、聖女だ」
「ちわーっす聖女ー」
「っ!」
 がつん、と目の前に星が散った。聞きたくはなかった言葉を拾ったため、そのまま壁に頭をぶつけてしまったのだ。
 額から上のところを押さえてしゃがみ込みと、近くにいたUGたちがわらわらと集まってくる。
「大丈夫か!?」
「聖女、お前どんくさいな」
「聖女で清らかだからじゃね?」
「キヨラカってどんくさいかあ?」
「わかった、天然なんだ!」
 わははは、と心配しているどころか頭上で朗らかに交わされる会話に、紗夜子は痛みのせいもあって呻いた。
「せ、【聖女】は止めて……」
 アンダーグラウンドの首領は、UGたちに前でこう言ったのだ。


「彼女はサヨコ・タカトオ。正式に【女神】候補の認定を受けた少女だ。アンダーグラウンドは【女神】候補である聖女サヨコを擁立する。やがて迎えるその日に、エデンを神の手から人の手に戻すために!」
 一斉に迸った歓声に面食らって愕然とした紗夜子だった。助けを求めるべくボスの顔を見ると、微笑まれた。傍らではライヤがにやにやしながら片目をつぶっている。さすがに気付いた。
 かつがれたのだ。
 アンダーグラウンドに住む人々は、反階層社会、反第三階層派のレジスタンス組織である。そんな彼らが、統制コンピューター【女神】の候補、次期統制者の候補の一人を保護、擁立するなら、彼らの活動は多少なりとも正当化して見られることになるのだ。そのためのサヨコ・タカトオ奪還作戦だった。

 自分にそんな価値があるようには思えなかった。圧倒的な声と興奮を目の当たりにしながら、渦が生まれているのを感じた。それはきっとそこにいたすべての人の感覚にあった。エデンは、これから大きな転換気を迎える。そのただなかに自分たちはいるのだ、と。

 それからアンダーグラウンドでの紗夜子の通称は、不本意なことに、本当に望まないところで「聖女」なのだが、あれほど熱狂的に迎えられたはずなのに、実際に呼ばれた感じはどう聞いてもあだ名レベルだった。誰も敬意を持っているわけでも、ありがたがっているわけでもない。別に崇められたいわけではないけれども。


「一人でうろついてていいのかあ? トオヤたちどうしたよ?」
「そう!」と勢い込んだサヨコに彼らは仰け反った。
「どこにいるか知らないかな。ずっと避けられてるっぽいんだけど」
「避けられてる? マジで?」
 UGたちは意外そうに顔を見合わせた。
 鬼ごっこのその日から、紗夜子はほとんどトオヤの顔を見ていない。ということは会話すらしていない。メールを送ったが返事が来ない。トオヤがたむろしている司令部に顔を出すが寸でのところで行き違う。かくなる上はと早朝に自宅に押し掛けてみたが成果はない。
 これは絶対、怒ってる。
 鬼ごっこが仕組まれたことだったとはいえ、どうやらトオヤの怒りに触れてしまったようだ。すれ違いはあったと思うが、私自身は悪いことをしたつもりはない、と紗夜子自身も少し苛立ち始めていた。
 しかし、それはあっという間に萎んだ。会えないというのは寂しいし、顔が見えないというのは毎日がうまく回っていないようで気持ち悪い。UGたちに問いかけたはいいものの、俯いた。
「嫌われたのかなあ……」
 ぽつんと。しょんぼりと。小学生の女子が肩を落とすような気持ちで、心細くなった。
 トオヤを好きなのだ、と恋心を自覚した今、避けられることは特大のダメージになった。

「聖女……」
 いい歳した男たちが、頬を染めて赤ん坊か幼女を見たような顔をしている。膝を突いた者がいて、紗夜子は慌てた。
「だ、大丈……」
 肩をぽんとされた。
「お前…………まじかわいいな!」
「…………は?」
 は? と顔をしかめる紗夜子に、身体を気持ち悪くくねらせながら、一人が言った。
「『嫌われたのかなあ……』って! どんだけ好きなんだよー!」
 固まった。岩のように。身体の中からぐぐーっと熱が昇ってきて頬がかあっとしたかと思うと頭がぼうっとなり、ぱん! と弾けたように思った。目の前が点滅する。声は詰まり、届かない。
「ち、ちがっ……!」
「ずっと一緒にいるもんなー。トオヤ顔いいし。くそ、あのイケメンめ!」
 真っ赤になった顔で何も言えず口をぱくぱくさせて、好き勝手言いあうUGたちの声を聞いている。「あのイケ声!」「パツキン!」「どうせ床上手!」ぱかーんと殴られる音。トオヤの悪口なのか賛辞なのかよく分からない。熱くてくらくらする頭では何を言っているのかはっきりしない。
「そうかやっぱりかあ」
 これまでの謎が解けた、という納得の仕方をされて、また真っ赤になった。
「ちがう! そんなんじゃないからっ!」
 もしトオヤに知られてしまったらしんでしまう。
 はははは、と彼らは子どもの癇癪を見守るごとく爽やかに笑った。らしくないと言われるような調子で、紗夜子は地団駄を踏む。
「本当にちがうから! その顔やめろー!」
「言わねえ、言わねえよ。心配すんな」
「そーそー。影ながら応援してるぜー」
「余計なことしないから安心しろよな。トオヤなら第一街の辺りで歩いてるの見たぞ」
 涙目になって睨み上げる。
「万が一変な噂を流したら一人一人闇討ちしてやる……」
 UGたちの顔が一瞬引きつった。ちょっと気分が晴れて紗夜子は笑った。
「ありがとう。行ってみる」
「がんばれよー」の声と指笛に見送られて「だから、やめー!!」と手をばたつかせ歯を剥き出した後は、笑い声に見送られ、逃げるように走った。

 常時灯は真昼の白で、天井があって空が見えないだけで、普通の街のようだった。かなり長く続くようになった息はやがて切れてきたが、駆けているのが楽しくなってくる。トオヤはどこにいるんだろう、と考えると、別の意味で胸がどきどきしてきた。頭上を見上げる。空が見えなくても、すごく楽しかったし、嬉しかった。
 教えてもらった第一街は、今は半覚醒状態のようなけだるい空気が漂ってきていて、店の住人から言わせれば朝日が白いといったところか。むっとこもった臭気は若干収まり、辺りは夜の喧噪を想像できないほど静まり返っている。そこへばたばたと自分の足音が響くのは、宵っ張りの住民からしてみれば迷惑な話だろうが、気持ちのいいことでもあった。
 少し歩調を緩めて周りをうかがいながら歩く。AYAを頼ってもよかったのだが、最後に接触したときの自分の行動に後ろめたさを覚えていたので、AYAは紗夜子の中では最終手段になっている。
 こうして探しまわっていることは、ある意味で楽しいものだと感じる。何故なら、とても必死になっているのがおかしいので。
 どうやら、かなりたちの悪い風邪を引いているらしい。すごく重症な、恋愛という風邪に。

 第二街と第四街に別れる通りの変わり目まで来て、どちらに行こうかと悩んだ。第二街は第一街と比べて比較的静かな歓楽街と飲食店街を形成している。第四街は住宅街と工場の地区だ。
 しばらく考えて、にっとした。
「第二街だよね、やっぱり」
 早朝、紗夜子が自宅に来る可能性を察知したり、あの部屋に寝に戻ってもいないのなら、彼の食料事情に多大な影響が出ているだろう。誰かの世話になるか、食べに出ているに違いない。だから、飲食店がある第二街だ。


      



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