ライヤが案内したのは、街の隅、細い路地にある喫茶店だった。探すつもりで歩いても、注意深く目を凝らしていないと気付かないようなところだ。表に屋根から突き出した看板があるのだが、景色にとけ込んで、意識しないと見過ごしてしまうだろう。鼻のいい人なら、コーヒーの香りでたどり着けるかもしれない。
(うわ、牛肉のブイヨンのすっごいいいにおいがする。時間かけてそう)
 コーヒーと、何か野菜を煮込んでいるような匂いが漂っている。
「お、ライヤさん」
「よお、マスター、元気? コーヒー二つとモーニングひとつ」
 顔見知りらしい店主は、バンダナを巻いた細身の男性で、顎に傷があった。こっちこっち、とライヤに手招きされて、カウンターに座る。落ち着いた色味の木製のカウンターや、こだわりがありそうなガラスのランプが下がっているテーブル席を見ていると、まるで第一階層にあるような隠れた名店を思わせる。
「ここのコーヒーおいしいんだよー。滅多に飲めないんだけど」
「ライヤさんが来る時間帯が夜ばっかりだからですよ。夜はバーやってるんだ。カクテルも自慢なんだけど、でも、君は未成年か」
 と、マスターは紗夜子に向かってにかりと笑いかけた。ナイフを思わせる外見だが、思ったよりも人懐っこい人らしい。こういう商売をするから当然かもしれない。
「ライヤさんが美味しいコーヒーとモーニングをおごってくれるっていうので、楽しみにきました」
「豆は第一階層のどこにでも売ってる豆なんだけど、色々ブレンドしてね。これだと思った味を出してる。ちなみに、メニューのコーヒーは一品目だけ」
 ほら、とカウンター越しにメニューを指差され、広げてみると、確かにメニューには『コーヒー』としか書かれていない。よほど自信があるらしい。
「ライヤさん、モーニング、がっつりいきますか?」
「おうよ、がっつりいってくれ」
「がっつり?」
 ライヤが笑ってメニューを指した。『モーニング がっつり 400円/シンプル 300円』。がっつりとシンプルとはなんぞやと思うが、ライヤとマスターは久しぶりらしい近況報告を始めてしまったので、大人しく待つことにする。
 しかしマスターは働き者だった。はきはきとしゃべりながら、ぱきぱきと手を動かしていた。コーヒーの準備をし、トーストを焼き始め、ベーコンを炒めている。冷蔵庫のパック詰めの何かの封を切り、もう一つのフライパンに流し込む。様々な香ばしい匂いがしてきた。冷凍庫から取り出したのはハッシュポテトで、フライヤーの中に放り込んでしまう。おかしいと思い始めたのはそこからだった。トーストはバターを塗られバタートーストとなり、ベーコンは付け合わせに、フライパンのものはホットケーキ、ハッシュポテトはこんがり揚ったのは見ていたのでまだいい。そこに取り出されたのはサラダとヨーグルト。
 店内を見ると客は自分たちしかいない。でも、あれらの料理は頼んでいない。モーニングなのだからバタートーストは分かる。だがあの量は一体なんだ。
「はい、おまちどうさま。とりあえず、モーニングがっつり!」
「多い!」
 紗夜子は仰け反った。誰のものだろうと思った料理全部がカウンターに並べられてしまう。そこに「あ、忘れてた」とゆで卵をぽんと置かれた。
「私の知ってるモーニングとちがう!」
 太る、確実に太る! という分量なのに、トーストはもちもちしてそうな分厚さで、ベーコンはいい感じにかりかりで、ホットケーキはいいきつね色だったり、体重には気の毒ながらすごく美味しそうだった。
「昼近くなるとホットケーキはカレーになるんだ」
「もうモーニングじゃない!」
 これで四百円。店の経営が心配になる。
「ちなみにシンプルはトーストとゆで卵とサラダ。シンプルだろ?」
「……いただきます!」
 もう我慢できない。トーストにかぶりついて、うっとり目を閉じた。食パン自体がかなりおいしいのに、バターが濃厚ですごくいい塩味と甘さだ。
「美味しいです……!」
「あはは。じゃあ、コーヒーもどうぞ」
 付け合わせのインパクトで忘れていたが、コーヒーもあるのだ。口の中を空っぽにしてから、その華奢なカップに口を付ける。鼻を近付けただけで、もうそれが確実に美味しいことが分かった。一口飲めば、もう心の奥の凝り固まった飢えみたいなものがゆっくりと溶け出していく。
「ああ……おいし……」
「そりゃよかった。いやあ、うまそうに飲んでくれて嬉しいよ」
「本当に美味しいです。ありがとうございます。ライヤさんもありがとうございます、嘘偽りないほんとの味ですね!」
「だろー? あんまり教えたくないんだけど、さよちゃんは特別だから!」
 あ、と思う。嬉しそうに言う顔は、トオヤと同じだった。仲間のことを褒められると、自分のことのように嬉しそうにするのだ。
「ライヤさんって、トオヤとよく似てますね。でも、どうしてそんなによくしてくれるんですか?」
 きらっとライヤの目が光った。組んだ手を顎に載せる。
「だって、さよちゃんはオレの娘みたいなものだからね」
「……娘って……どういう?」
 繋がりがさっぱり見えない。紗夜子にはアンダーグラウンドに縁がなかったのだし。
「そうそう、オレと似てるなんて、あいつに言っちゃだめだよ。本気で怒るからね」
 ライヤはにっこりそう言っただけで答えてくれなかった。紗夜子は自分なりに(トオヤと親しいからかな?)と結論づける。含みがあったとしても、今の紗夜子には判別できなかった。
「どうしてあんなに嫌ってるんですか? ちょっと破天荒なところはあるな、って思いますけど」
「……あれは、十年以上前のことだった……」
 いきなりライヤはしみじみと語り始めた。

 こぽこぽと、湯が沸く音と、マスターが洗い物などの水仕事をする音だけが響いている。
「オレは第三階層に嫌気がさしてね。分かるんじゃないかなあ、ああいうところって、見かけばっかり取り繕うだろう? 地位とか権力ばかり意味が大きくて、そういうのがなんだかもう、馬鹿馬鹿しくなっちゃったんだよね」
 紗夜子は頷いた。
「ライヤさんは、第三階層にいてそう思ったんですか?」
「うん。子どもの頃から、オレは情報技術とか工学方面に強くてね、その英才教育を受けてきたから。我が両親ながら間違った教育をしたと思うよ。どんなところにでもいけるコンピューターというドアを与えて、鍵になる知識を仕込んだんだから。【エデンマスター】がすべてを統制しているということは、エデンのどこにでもアクセスできるということという意味にもなる。色んなことを見聞きしたよー。いいこともいけないこともね」
 第三階層にないもの。貧富の差。統制されきっていない人々。普通の生活。なにより、思想の多様さ。挙げられるものは数多いが、ウェブというのはその世界の縮図と言える。エデンでは、どんな性別、世代でも情報端末を持っているからだ。
「馬鹿馬鹿しいなりに、オレもあの場所を変えようとしたんだよね。だから【魔女】プログラムの元になる開発を進めてたんだー。巨大なサーバーをコントロールするプログラムの開発のつもりだったんだけど、厄介なのに目を付けられてさ、盗られちゃったんだよね。さよちゃん、サイガのくそじじい分かる?」
「じじい……ウォースラ・サイガですか、ご隠居の」
「そうそう、あのくそじじい」とライヤは頷いた。ご隠居は第三階層でも身分の低かった自家を、自らがエデン三氏に名を連ねるほどのものにした立志伝中の人物だ。息子に当主の座を譲り、今は第三階層の屋敷で暮らしている。あの、時も人も止まったような第三階層で成り上がっていくためには、よほどの力のある人物でなければならない。
「あいつが、オレから【魔女】プログラムを盗んだ」
 紗夜子は目を見開いた。
 物心つく頃に第三階層を離れた紗夜子には新聞やネットなどのメディアでしか見ることのなかった人物だが、くそじじいと呼ぶくらいあくどかったのか。
「最初はさ、協力者だったんだよ、開発の。でも途中で横取りされた。そのまま第三階層を追われそうになってね、こっちから見限ったの。アンダーグラウンドは、オレが【魔女】プログラム開発の続きをするにはうってつけの場所だった。そのとき、オレは妻を置いていったんだ。これが、トオヤがオレを嫌う一つ目の理由」
 唐突にライヤの話はトオヤとの関係に及んだ。それが本題だったはずなのだが、あまりにもあっさり言われたために、聞き逃しそうになった。はじかれるように顔を上げたとき、ライヤのしてやったりの顔を見ることになり、紗夜子は皿に向き直ったが、食事のペースを落とすことにした。
「言い訳をするとね、妻は人工臓器がないと生きられない身体だった。そのメンテナンス、器官の検査、投薬、そういったことは、どうしても第三階層の技術が必要だった。アンダーグラウンドに来たら、多分一ヶ月も保たなかったと思う。そんなところに、自分の命よりも大切な人を連れて行けるわけないじゃないか」
「トオヤは……」と言いかけ、止めた。彼は多分そういった状況は理解しているだろう。ただ子どものときの憎しみというものは、深く焼き付くものであることは、紗夜子は実感しているつもりだった。このとき思い出したのは、あのホテルの会場でのタカトオの顔。
「二つ目の理由が、あるんですか?」
 うん、とライヤは頷いた。どこか嬉しそうにも思えた。
「初恋を台無しにしたんだー」
「っぐ!?」
 むせた。口の中に何も入っていなかったのが幸いしたが、咳が止まらない。マスターがおしぼりを手渡してくれ、その中に空咳を受け止める。その頭の中には同じ言葉ばかりが巡る。
 初恋。トオヤの、初恋。現在進行形で恋している紗夜子からしてみれば大問題だ。
「同じように第三階層から来たやつでね。あんないい女はいなかったねー。美人だし、頭も良かったし、気品もあったし。でもかなりわがままで自分勝手で、子どもっぽいところがあって。そこがねーかわいかったなー。でもここからいなくなっちゃった。トオヤの初恋破れたり! だからかなー、さよちゃん、あいつに似てるもん」
「『だから』、って?」
「あれ? だってトオヤ……」
 言いかけて、ライヤはにまあっと笑った。最高の悪戯を見つけた顔にしか見えず、目を吊り上げて聞く。
「続きはなんですか!?」
「ふふーん、おっしえなーい」
 そう言ってコーヒーを啜って満足そうな息を吐いた。
『だってトオヤ……』、その続きが気になって悶々とする。口に運んだホットケーキは美味だがごまかされはしない。紗夜子がその初恋の人に似ていて、なんだというのだ。
(似てるから……好き、だとか?)
 思ってから、それはない、と首を縦に振った。どう考えても普段の態度は好意を持った人間に対するものではない。二の腕を揉まれたが、甘い雰囲気のかけらもなかった。ライヤでさえ褒めた初恋の人。紗夜子が恋されるには、美しさも頭も気品も足りない。
(綺麗になる? 勉強する? マナーを学ぶ? ……どれもすぐには無理だ……)
「さよちゃんはー、どうしてUGに味方してくれるの?」
 落ち込んでいるところに、ライヤはのんびりと聞いた。


      



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