いくつかの夢の断片が、紗夜子の眠りにちらちらと散らばる。光り、輝き、あるいはその白さを失って黒く塗りつぶされ、粉々になり、消える。
 紗夜子。
(おかあさん)
 どうして今になって現れるの?
 絶望を思い知らせるために、とあの人は微笑を浮かべた。ころころと笑う鈴の音の声。吐息はメロディ。銀のまつげは翼のように麗しく、見つめる目は宝石に命を灯したよう。
 その目がゆっくりと別の方向へ向けられる。
 さぁちゃん。
(えぃちゃん)
 黒い髪を切りそろえ、茶色の、花が咲いたような光彩の瞳をした、エリシア。大好きな姉。でも姉と呼ぶことは彼女自身が許さなくて、「えぃちゃんって呼んで」と言っていた。だから紗夜子の中では、姉は『えぃちゃん』でしかなくて。
 エリシア。
 それは私の名前でもある。あの子をXXした、その烙印。
 生きるべきは、あの子だった。

『お願い、誰かを殺すなんてこと、しないで……!』

 叫んだ彼女の胸に、ぱっ、と赤い花が咲いた。はらはらとこぼれる大輪の花弁。人形のように目の光をなくし、空を見上げて崩れ落ちる姉の姿は、服すら例外なく花吹雪になった。風が巻き上がり、紗夜子の視界を覆う。目を閉じた一瞬に、顎を掴まれた。側に女神の瞳があり、それは純度の高い鏡になっている。銀色の瞳に映る姿は――。
(私じゃない)
 ぞっとする。姿形が同じなのに、その目は、女神と同じ色だった。
(私じゃない!)
 唇が囁く。

 わたしはあなたを愛しているわ。

 ジリリリリリリリ、と響き続ける乱暴なベルの音に、紗夜子はベッドの上で身体を跳ねさせた。白い光がゆらゆらと揺れて窓から差し、それでもほの暗い部屋に、闇の温度も湿度も高い。額から汗が流れ、胸が重く、手足がじっとりとして冷たかった。浅い呼吸を繰り返し、紗夜子は目を閉じ、どっと寝返りを打った。
(夢……)
 夢でない証拠に、携帯電話が鳴り続けている。アナログ電話のベルの音だ。最近その音を誰に設定したのかを思い出し、ため息まじりに通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『やあ、さよちゃん! 起きてた?』
「寝てました」
『その割には声がはっきりしてるけど?』
 夢見が悪かった、とは言いたくなかった。まだ全身が冷たい。
「どうしたんですか」
『あ、不機嫌は不機嫌なんだね。起こしてごめんよー。あのねえ、誰か護衛を連れて、荷物届けてほしいんだよね、第一階層に』
「なんで私なんですか」
 信頼できるUGはたくさんいる。彼らを頼れば、紗夜子になど頼らなくとも、安全で確実に運び屋の仕事を遂行できるのに。抑揚のない声は無意識だった。いつかの自分の声になっていたことに紗夜子は気付いていないし、ライヤも知らない。受話器から聞こえてくるのは「んー」と分かっているか分かっていないのか判断のつかないのんきな声。
『君くらいかなあと思って。エクスリスに平然と会えるの』
 一瞬、どきっとする。ベッドから起き上がり、座り込んで、乱れた髪をかきあげた。髪の先まで撫でて、ため息をつく。
 トオヤに頼めばいいけれど彼はライヤからの直接な指示ならなかなか了承しないだろうし、ジャックはエクスリスに対して畏怖を覚えているらしい。ディクソンは分からないが、彼は危険なものへは最初から近付かないタイプだろう。
 そんな風に、まるでエクスリスが危険、みたいな考え方をしている。確かに底知れない人だが。
「……分かりました。場所、どこですか」
 ライヤはメールで地図と住所を送ると言う。アンダーグラウンドを出るときに連絡することを伝えて、電話を切った。
 アドレス帳で呼び出す相手を決めなければならないのだが、選んでしまうのはトオヤだった。エクスリスと一人で会う勇気はなかったし、とすれば彼と対したときに負けない相手がいい。
 でも、やっぱり一緒にいたいという理由が一番なのだけれど。
 呼び出した電話番号を前に、深呼吸をひとつ。ボタンを押し、コール音を聞いているとどきどきしてきた。(平常心、普通に、いつも通りに)と心の中で唱えていると、コール音が鳴り止み、遠くにざわざわした音がする。
『紗夜子?』
 耳を澄ませていたところにいきなり呼ばれて、心臓が飛び出しそうになる。
「あ、あ、トオヤ?」
『どうした。また何かあったか』
「エクスから荷物をもらって、届けてほしいって……ボスさんが」
 ひとつだけ嘘をつく。ライヤからだと断られてしまいそうだと思ったからだが、罪悪感がどっと押し寄せる。しかし完全な嘘とは言えないはずだ。ボスはライヤの親しい仲間なのだろうし、第一階層の拠点はUGの拠点でもあるのだから。
『エクスリス? ……ふうん、どこに行くって?』
「後でメールで教えてくれるって」
『分かった。今どこだ?』
「うん、今、へ……」
 部屋、の言葉を紡ぎ出す前に、自分がぼさぼさの髪をして、寝汗をかいたままの寝間着で、裸足でいることを思い出す。『ああ、部屋か、迎えに行く』という答えが返ってきた瞬間、悲鳴を上げそうになった。
「い、一時間待って! お願い!」
『ん? おお、構わねえけど』
「ありがとう、じゃあ一時間後に!」
 電話を切って、ベッドから飛び降りた。
 思わず気合いの入れた服装になりそうだったが、そんな浮ついた服装はできないと思い直し、万が一交戦してもいい動きやすい服装を心がけて、腰にホルスターを巻いた。銃弾を確認し、収める。髪はまとめあげて頭の高いところで団子にした。朝食にヨーグルトをかっ込んでいると地図と住所のメールがきて、部屋の片付けをしていると、インターホンが鳴る。もう一時間。
(というかトオヤすごいよ、あの夢の気持ち悪さがなかったことになったよ)
 まだ肌に触っているような気がするが、目覚めたときのような吐き気はない。今は違う意味でどきどきしている。はーい! と大声で返事をし、靴を履いて扉を開けた。
 トオヤは金髪を上にまとめあげ、軍用ズボンに革のジャンパーを着ている。服に見える余りの部分には、武器が仕込まれているのだろう。そのぶかぶかの袖で手を挙げた。
「はよっす」
「おはよ!」
 彼はちらっと紗夜子の後ろに視線を投げた。紗夜子は慌てて靴を突っかけ、リビングを隠すためにトオヤを押し出してドアを閉めた。戸締まりをして出発する。
「ボス、お前に頼んだのか」
「あ、うん……あの、私が一番暇だと思ったんじゃないかな? あはは……」
 ふうん、とトオヤが不思議そうな声を出す。
「まあ、お前、【女神】候補だし。第一階層のアジトを見に行くにはちょうどいいしな」
 そう勝手に納得してくれたので、ほっとするのと同時に罪悪感で胸がちくちくする。

 教会に行くと、中は静かだった。ジャンヌの姿があるかもと思っていたのだが無人だ。参拝客もいない。そもそも、見たことがなかった。
「エクスー?」
 呼びかけるが、答えはない。現れる気配もない。
「あいつから受け取れって言われたんだろ?」
「うん。……ちょっと来るのが遅かったのかな。それとも奥にいるのかな」
 トオヤも紗夜子と同じ方向へ視線を投げた。いつも彼が現れる奥の、ぽっかり開いた扉のない入り口が見える。朝の光に満たされているこの時間帯は、電灯も火もない薄闇の通路が続いている。
「よし。ちょっと探してみるか」
「え!?」
 紗夜子が躊躇したのに、トオヤは何の躊躇いもなく祭壇の向こう、奥の通路へと、底の厚いごついブーツを鳴らして進んでいく。
「と、トオヤ、それは……」
「気にならね? あいつのプライベート空間」
 なる。なるけれど。怖いというのが七十パーセントくらいある。エクスリスは底が知れない。何を考えているのかも分からない。見ただけで寒気がするし、自分に何が起こっても仕方がないという感じを覚えさせる。近付く者は容赦なく奈落へ叩き込む、笑いながら。自分は道を示しただけで、手は汚していない。そんな印象なのだ。
「トオヤは怖くないの?」
「別に。怖いっつーのは、理解できないから怖いんだろ」
 肩をすくめると、向き直った入り口を覗き込んだ。
「それに……今、行かなきゃなんねえ気がする」
 その低い声に、響く何かがあった。予感や、巡り合わせといった何かである気がした。紗夜子はごくりと喉を鳴らすと、トオヤの後ろについて、暗がりを進み始めた。
 初めて入るところだったので、緊張しながら足を進める。通路は白い石を切って磨いたような、つるつるとした狭い道だ。奥に行くほど暗いようだったが、目がだんだん慣れてきて、この道がゆっくり螺旋のようなカーブを描いてゆっくり下っているのが分かるようになった。途中にいくつか扉があり、トオヤがノブに手をかけてみるとあっさり開き、客室のような簡素なベッドとテーブルと椅子が置いてあるだけの部屋、書斎らしい本ばかりの部屋もあり、鍵がかかっているところもあった。
「……トオヤ」
「あ?」
「なんか……暑くない?」
 下へ行くほど、むっとした熱気が感じられるのは気のせいだろうか。ライヤたちと第三層へ降りたときは、少し寒いくらいだったのに。暖房が入っているにしては、こんなところにも? という気がする。
「確かに……。それに、さっきから何か聞こえる」
 紗夜子は耳を澄ましてみた。こぉお……という、空洞を空気が流れるような音はする気がする。
「どういう音?」
「テレビとか、パソコンとかが動いてるのが分かる音、っつーのか……そういう、何か機械の音」
「私には何も聞こえないけど……」と言いながら足を進め続けて、一瞬、きぃん、という甲高い音が耳鳴りのように響いて、足を止めた。
「どうした」
「私にも聞こえた……」
 頭を動かすと、耳鳴りのような音がする。古いパソコンのファンの音に似ている。
(何の、稼働音?)
 気付けば、低い振動が伝わってくる。一度パソコンに似ていると思うと、ぐううんと響くその音が、何か読み取りをしているような音に聞こえてきた。
 お互いに、この先に進むべきが逡巡する間があった。それでも、先ほど感じた予感のようなものが、忙しなく紗夜子を追い立てた。行かなければならない。知らなければ。この先に何があるのか……。
「……行くぞ」


      



<< INDEX >>