Stage 09 
      


 毛皮のコートは不要になった。代わりに分厚いショールを肩にかける。場所を選べば、その格好は決して不自然ではない。場所というのは、ビジネス街や居住区ではなく、住民の気配が感じられないマンションの廊下や、繁華街の裏路地などのことをいう。歩けば太ももの形が露になる赤いドレスをさばきながら、ジャンヌは、かつて肌に触れるその辺りにできた血の染みを思い出さずにはいられなかった。
 あの名前も知らない白い少年は、ジャンヌの中では、今では、薄く白い皮の下をぱんぱんに血で膨らませたような印象を与えていた。フィクションの吸血鬼。赤い瞳をしていないのが不思議なくらい。血に飢えている――汚れを知らぬ少女の血に。
(……はあ。何くだらないことを考えてるのやら)
 ずり落ちたショールを巻き付け直す。しかし想像は止まらなかった。もしあの少年が本当に吸血鬼なら、紗夜子などうってつけだ。吸血鬼に同情して血を与えてくれるだろう。紗夜子という人間は、そういう馬鹿なのだった。
 頬と唇が持ち上がったことに気付いて、慌てて元の無表情を作る。
 しかし、ジャンヌは足を止めた。雨が降りそうな天候もあって、引っかかるお客は少ない。それでいいとも思っていたが、どうやら誰かの気配がある。商売女か、それとも適当な処理相手を物色している人間か、探りつつ歩む。
 路地の間にある人影は長身の女だったが、着ているものはスーツだった。同業者には見えないくらい、かなり印象の強い美女だ。横顔だけでそう思えるから相当だった。かたぎの女がこんなところにいるのだとすれば、隠れて誰かと会っているか、もしかしたら相手を捜しているのかだろう。
 女がこちらに気付いた。女の顔が影になったが、その瞳がぼうっと光っていた。ジャンヌは構えた。何か嫌な予感がした。
「――ハッ」
 あははは! と女は笑い出した。
「『司祭』のカメラ情報を見ていて、もしかしたらと思ったら。本当にこんなところにいるなんて!」
「……誰、あんた」
 ひとしきり笑った女は、ジャンヌの言葉に首を傾げた。
「ひどいですね、妹に」
「……妹?」
 まさか、失った記憶の関係する人間なのか。しかし、相手に見覚えがない。黒い髪、緑の瞳。魔女のような美貌と、戦闘員のような堂々とした肉体だが、赤い髪に青い瞳、どちらかというと童顔の顔と女っぽい身体をした自分とは、血のつながりがあるようには思えなかった。
 女は訝しげにジャンヌを見た。
「……記憶レコードの不具合? 改ざんが行われているのでしょうか。覚えていないのですか? 十年前のことを」
「十年前……?」
 女は手を差し出した。
「自分が何者か知りたくはありませんか? 私の手を握ってください。接続で、あなたの記憶レコードを追加してあげられますよ」
 ジャンヌはその手と、女の顔を見つめた。女の顔は真剣で、偽りはないように思えた。騙そうとするにしても、その顔を見ていると不思議と親近感を覚えるようになっている。
 でも、女の言葉は、まるで、ジャンヌが人間ではないかのようなことを言っている。
「……あたしの妹だって言ったわね」
「ええ。しかし血のつながりはありません。でも、同じところで生まれ、同じところで育ちました。私の他に、あなたには二人の妹がいました」
「過去形?」
「そうです。破壊されました」
 破壊、という言葉に違和感を覚える。でも、納得している自分がいるのはどうしてなのだろう。私は機械じゃない。
 でも、人間じゃないことは知っている。
 数ヶ月前、【魔女】エリザベスとの戦闘の後、入院した先で医師に言われていた。『あんたは四肢が生体義肢で、人工臓器なんだな』と。それまで身体の中身を確かめるということをしてこなかったジャンヌは混乱した。私は、どこまで人間なのだろうと。
 そうだ、確かにあの時、確かめよう、ちゃんと聞いてこよう(・・・・・・・・・・)と思ったのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。感じた不安はいつの間にか解消されている。いや、むしろ、『なかったこと』になっている。
 膝元から崩れ落ちるのと似た感覚を味わう。曇り空の色に、あの瞳を見た。
(あなたは……)
 すべてを知っていたのか。
「ジャンヌ。お姉様」
 女は呼ぶ。名前も知らない女は、名乗りもしないジャンヌの名を呼び、姉と呼んだ。
 一歩近付く。相手が幻影であることを祈りながら。
 二歩。三歩。女は待っている。顔かたちで判断するなら、相手の方がずっと年上に見える。
「あたしを姉と呼ぶのはどうして?」
「私より先に生まれたからです」
 当然のことを、微笑みを滲ませて女は言う。しかし、笑ったのは自分に対してだったらしい。
「あなたは、私たちに対して先に生まれた者らしい態度を取りました。あなたは、私にとってただ一人の姉なのです」
「あんたたちのことなんて覚えてない」
「記憶装置に手が加えられているからでしょう」
「あんたがあたしの記憶を戻してくれたとしても、あたしは、今のあたしを忘れないでいられる? 別の人間になったりしない?」
「私たちにはそこまでの能力はありません。私たち姉妹は、お互いの領域をコピー、ペーストすることしかできませんから。あなたが必要ないと思えば、記憶は削除できるはずです」
 泣きたい気持ちになるが、泣くわけにはいかなかった。失った過去を埋める手がそこにある。自分を失わないというのなら、その手を取る以外の選択肢はない。恐れたくなかった。かつて自分だったものに、脅かされたくはなかった。
 これがあたし。そして、いつだってあたしでいてみせる。
 ジャンヌはその手を取った。びしっと、全身の毛穴から針が突き出すような感覚を覚える。身体の全ての感覚が研ぎすまされ、世界のあまりの鋭さに首を逸らす。声が出ない。息ができない。でも、しなくても動ける――。
「……接続端子が除去されている……なるほど、あなたはもう、【女神】になることはないのですね……」
 頭の中で直接声が響く。
「ならば、【女神】に蓄積してあるジャンヌ・フローディアの記憶を、私を経由してあなたに移します。……安心しましたよ、ジャンヌ。あなたが〈聖戦〉に参加できない。私は、あなたを殺さずに済む」

 風が聞こえる。銃声が届く。戦いの音、混乱の声、誰かの泣き叫ぶ心の声までを聞いた気がする。ああ、あなた。声高く呼びかけるがそれはどこにも行けずに風になる。あなた。あなた。
 あなたを救うには、あたしはどうすればいいの?


 無線の音が、聞く者のない空間に響いていた。
『第一階層、中央区、ポイント二において『司祭』襲撃、現在交戦中。至急向かわれたし。繰り返す、第一階層、中央区、ポイント二において……』


      



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