一番古い記憶はなんですか。そう聞かれた時、用意している答えのすべてが嘘だったわけではない。夜、母が側にいた記憶が、その日のものだった。
 真っ暗な部屋で、明かりもつけず、セシリアは窓に背を向ける形で、ベッドに横たわる紗夜子を見ていた。月明かりに白い髪も肌も青白く、青い魔物のようだった。
「起きたのね」
 頷く。声が出なかった。言葉にならなかった。吐く時や、動物の鳴き声のような声が漏れた。手に何かが落ち、それが涙だと気付いた時、紗夜子の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「エリシアは死んだわ」
 セシリアはそこから動かなかった。ただ、遠くから告げた。
「頸椎にナイフが突き立っていたのですって。狙うなら頸動脈よ、紗夜子。教えたわよね?」
 獣のようなうめき声をあげることしかできなかった。母の声を聞いていたくなかった。この人のせいだ、という気がした。大好きなのに、大嫌いだった。いなくなってほしかった。消えてほしかった。この世に、存在していてほしくなかった。
「どう、して……」
 こんな力を、こんなことができる力があるのか。死が厭われることは知っている。だからみんな抵抗するのだということも。ただ、自分のしたことは絶対に許されないと思った。
「どうして、わたしなの」
 何故、生きる命があって、死ぬ命があるのだろう。殺されるその命を、誰が選んでいるのだろう。生が喜ばれ、死が厭われるのは何故なのか。幼児の紗夜子にはすべての疑問を明確に口にすることはできず、ただ尋ねた。
「どうして、わたしは、いきなくちゃいけないの」
 沈黙が痛い。セシリアは微笑んでいる。美しい彫像か絵画のように、生きている気配を感じさせない。ふっとその気配が、空気を揺らした。

「あなたが、誰かを殺しても生きたい、と思ったからではないの?」

 ひっと息を呑んだ。心臓が痛い。頭が割れそうに痛い。
 殺されたくなかった。死にたくなかった。刃物を握って命を狙う相手が、例えエリシアでも。でもそんなことをしたいわけではなかったと思うことは、許されることではないのか。誰も殺したくない。でも、死にたいわけではない。死にたくないけれど、殺したくない。
 でも、殺す以外の方法を知らない。
「そう思うことは罪ではないわ、紗夜子。生きたいと思う心は人間の素直な最大の欲求よ。あなたはそれに従っただけ」
 セシリアはなだめるようなことを言った。
「わたしは、罰される。ゆるされない」
 紗夜子は固い口調でそう言い、まだ涙を止められずにしゃくり上げた。
 セシリアは立ち上がった。青い光が床に格子の十字を描き出し、セシリアの影が十字を背負い、額に入ったような形で映し出される。
「では、その贖罪の道を歩みなさい」
 魔性はそう囁いた。
「お前の血でもって罪を贖いなさい。お前の命と運命を捧げ、永遠に戦い続けなさい。世界のあらゆるものを背負い、慈しみ、愛おしみなさい。生も死も受け止め、愛しなさい」



 すべてを受け止めることは。あらゆるものを否定せず、受け入れることは。贖罪に、なる。反発するよりも、抵抗するよりも、それがずっと楽な方法だというのは、やがて気付いた。正当性を訴え、生きる理由にした。死者は何も語らないからだ。安易な自己肯定の手段だった。
 ただ、生きたいという気持ちだけがその贖いに反する思いで、誰かを傷つける度に罪は重くなった。
『生きなくてはいけない』。何故なら『誰かを傷つけ、命を奪った分まで、罪を償わなくていけないから』。けれど、『生きるためには誰かを傷つけなくてはならない』

 永遠に、罪は、償えない。





 ある日、セシリアはいなくなった。紗夜子に何も告げないままだった。父は苦々しい顔をし、亜衣子は戸惑っていた。父がすべてを知っているというのは、表情を比べてみれば気付けたから、父に理由を尋ねた。
「父さん。おかあさんはどこに行ったの?」
 高遠は娘を見下ろした。いつでも蹴飛ばせるような位置で。
「父さん」
「お前はもう、私の娘でも、第三階層の者でもない」
 ぴしゃりと言った。冷徹な口調で、激情はなかったが、怒りが煮えているのは感じた。
「セシリアがいなくなった今、お前を庇護しておく理由はない。お前はこれより第一階層で生きる。高遠の名を名乗ることは許さん。娘として表に出ることも許さん。お前の父母はお前を捨てる。お前は高遠紗夜子ではない人間として、これから生きる」
「私は、紗夜子です。父さん」
 それ以外の何者でもないという意味を込めて言うと、父の嫌悪は深まった。「あれと同じような口をきく」と呟き、背を向ける。
「父さん」
「私だけのお父様よ。お前に呼ぶ資格なんてないわ」
 亜衣子がその後に続く。打ちはしなかったが、そうしたいというのがつり上がった目元から感じ取れた。
「亜衣子姉さん」
「姉と呼ばないで! 私の妹はあの子だけ。お前が殺した、あの子だけよ!」
 父と姉の姿が消えると、紗夜子はその場で辺りを見回した。広い部屋に誰の気配もなく、飛び出した廊下には誰の姿もなく、駆け下りた階段に咎める者はおらず、庭には薔薇も咲かず、玄関ホールに差し込むはずの光はなかった。
「おかあさん」
 呼ぶべき名は、今はひとつだけだった。
「おかあさん」
 しかし、もうその名も失われる。

 わたくしは紗夜子を愛しているわ。

 でも、私は、愛されていなかった。抱きしめられたことも、歌ってもらったこともない。厳しく叱られたことも、愛を持って微笑んでもらったことも。もしあの人が紗夜子が愛しているとしても、それは娘に対する愛ではない。

 あなただけ、エリシア、あなただけが、私を愛してくれた。

「エリシア」
 それは私の名前じゃない。
「お前はこれからエリシア・ブラウンと名乗る」
 そういうことか、と思った。自分の罪を認めろと、のうのうと生きるなと、そういうことなのだ。一生あの子を殺した罪を思い知れと、父と姉が与えた罰。



 ――私は、あなたを、許さない。
 最後だと言われた日、いつか姉が座っていた鏡台に座って、紗夜子は己がそう囁きかけるのを聞いた。
 あの子はきっと、私を許さない。

 だから私は、(あなた)を、許さない。


      



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