リアはトオヤを抱えたまま、人のいない路地をするすると通り抜けていく。
「どこに隠れるんだ」
「誰にも見つからないところ」
 だがトオヤには、彼女が地上に向かっているように思える。何故なら、扉を抜け、パスコードを入力し、通路を歩いているのは、まぎれもなくアンダーグラウンドの表層から、地上へ向かう道なのだ。
 こんな勝手をしてはいけないのに、と彼女の目を見つめた。銀色の目。まるで銀細工で出来た睫毛。水晶と銀の瞳。
 彼女が何故アンダーグラウンドにやって来たのかは知らない。気付けば父と共にいて、アンダーグラウンドに存在していた。多分第三階層者で、両親の友人だとは聞いていたけれど、研究に没頭する父と疎遠になりつつあるトオヤは、正確なところを聞けずにきた。本人に訊こうにも、彼女は綺麗すぎるし、空気が違う。めいっぱい光を浴びてきたにおいがするのだ。けれど、その光のにおいはどこかアンダーグラウンドの闇に似ていて、リアを見ていると怖くなってくるのも確かだった。
 不意にリアが笑う。ぎくりとした。心を読まれたように思った。
「あなたは不思議な子ね。ライヤに似ていないのに、彼と同じ目をするのね。……私を、憐れむ目」
 ああ、と彼女は嘆息する。
「いいえ、アヤにも似ている。あの子も、私を憐れむ目をしていた。可哀想な人だと言って……」
「母上?」
「ええ、アヤ・クドウ。愛らしいけれど美しくはなく、心優しいけれど完璧ではない女。ライヤが選んだ、彼のたった一人の妻……」
「リア、痛い」
 身体に回る手がぎりぎりと音を立てるので主張すると、それはすぐに緩まった。気付けばすぐ前に階段があり、トオヤを抱き上げたまま、リアは一歩一歩、日の光射す方向へ上がっていく。
 そして、風と空と光を浴びた。
 そこはマンションの一階だった。空は青く、トオヤにとって、雲がずいぶんめずらしいものになっていた。風のにおいは澄んでいる。油のにおいも、酒や吐瀉物のにおいもしない。
 世界って、こんなに澄んでいるものだったのか。
 見上げた先に、雲に覆われた階層が見える。あそこからやって来たのだと、今更ながら驚いた。あんな高いところから、あんな深いところへ、自分たちは移動してきたのだ。
「さあ、行きましょう」
 リアが下ろしたトオヤの手を引き、二人で歩いた。どきどきしながら第一階層を観察する。人が多い。車も。建物も密集しており、第三階層に広がっている森などもこの階層には影も形もないようだ。子どもの姿があまり見られず、大人たちが多い。頭上を高くそびえ立つ建物群を見上げて、こんなところではぐれると大変そうだと考えた。
 もうここまで来ると、かくれんぼなど言い訳だと気付いていた。早足になったリアに置いていかれないよう、必死に足を動かした。一体、リアは何を望んでこんなところに来たのだろう。
 無表情がゆえに威圧する美しさを放つリアに、過ぎ行く人々は振り返らずにはいられないようだ。思わず足を止める者もいる。車の中で寝ていた男は飛び起きて窓に張り付いた。
 リアは街の中心部であるビル群に向かった。辿り着くまでにトオヤの足はくたびれていた。それでも手を引くリアは、ひとつのビルに入り込んでしまうと、屋上まで上がり、恐らく第一階層で最も高いところまでトオヤを連れていった。
 防護用の柵を張り巡らせたところまで、リアは果てなどないかのように進んでいく。そして、ふっと空を見上げた。
 光線がまろやかな輪郭を描き出し、美の女神の石像が動くのに似た緩慢さだった。その陰影は、トオヤの瞳に焼き付く。
 天上の世界が見える。第二階層、第三階層だ。でもリアは更に遠くを見ているように思えた。彼女の銀色の瞳は、一体何を見ているのだろう。同じものが見えたらいいのにと思ったが、同じものを見ることはできなくとも、こう言うことはできた。
「リア、寂しいの」
 そこで初めてトオヤに気付いたというように、ガラス玉のような感情のない目で、彼女はトオヤを見た。
「『寂しい』?」
 リアの美貌に亀裂が走る。唇が裂けるがごとく笑みが引き攣ったのだ。
「私の胸を掻き乱し、我を忘れさせ、苦痛を与えるのはあなたよ。あなたがそこにいるだけで、私は思い知らされる。彼が彼女を愛したこと、私はひとりぼっちだこと、そしてそれは永遠にそうだということ!」
 ああ、と彼女は顔を覆ってよろめく。
「私が、この私が! 選ばれた人間として産み落とされたはずの私は何も手に入れられない! なんて無意味な玉座! なんて無意味な生! すべてが手に入らない玉座はただの椅子、何も手に入れられないというのに、私は空虚を抱えた王にならなければならない!」
 取り乱した彼女を見るのは初めてだった。恐怖が胸を占め、泣き出しそうになりながら、それでも彼女に近付いた。
「近付かないで!」
「リア、リア! 大丈夫だ! 誰も、リアをひとりにしないよ!」
 彼女が覆った手の中で喘ぐ。
「『誰も』、では意味がない。私は……」

 ――……が、ほしい……。

 それが何なのかは、響き渡ったクラクションの音で掻き消えてしまい、トオヤは永遠に手にすることができなかった。銀薔薇が泣き叫びながら刺を出している姿に、全身が刺すように痛む。苦しくなり、歯を食いしばった。
 だが、ここで泣いてはいけない。

「リア。寂しいのなら、誰かを守ればいいんだよ」

 魔女とも聖女ともつかない女性は、このときまるで少女のようだった。

「俺は、寂しい。母上がいなくて寂しい。でも、母上が言ったことを守ろうと思う――母上が言ったことを守れば、俺は、母上とずっと一緒にいる気がするんだ」

 ――みんなが未来を目指せる世界。平等をうたうことができる世界。
 ――そんな世界があれば、誰かが犠牲にならなくてすむわね。
 ――誰か一人の存在で、世界をあがなわずに済むわね……。

「でも母上の言ったことはすごく難しくて、そのための力が全然足りないから、俺は強くなるって決めたんだ」
 自分の決意を口に出すことは初めてだった。ジャックも、ボスも、父でさえも知らない。ただ、揺るぎないはずの人が弱々しく顔を覆ったのを見て、気付いてほしかったのだ。
「誰かを守る力。それは俺にもあるし、あなたにもある」
「……アヤが、……そう言ったの……?」
 リアは、ぼんやりと母の名前を出した。トオヤは頷いた。
 唇を結び、目を閉じて、何かを抱くように片腕を抱いたリアは、風の吹きすさぶところでしばらくそうしていた。トオヤは悩んだ末に、彼女の背中にそっと頬を押し付け、目を閉じた。
 やがて、大きく息が吸い込まれ、背中が上下した。手に触れられ、見ると、リアが弱々しく微笑んでいた。
「……帰りましょうか」
 その手を繋いだ。
 手は冷たく、儚く消える雪よりも、幻のように思えた。





     *





「そうね」とリアは言った。もうすぐ、泡を食ったアンダーグラウンドの人々が二人の姿を見つける。その少し前の会話だ。

「守り方はそれぞれ。愛し方がそれぞれであるように、すべては千差万別だもの。あの子は世界をあがなう一人を否定したけれど、己にあがなう力があるのなら、それを使うでしょう。――だったら、私は」

 彼女は小さく、トオヤの母の名を噛み締めていた。
 でもその記憶は、十年もすればもうすっかり忘れ去られてしまったから、もう「なかったこと」に等しいかもしれない。


      



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