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 八時間のフライトで、アンはほとんど口を利かなかった。彼もそれを認めていた。認める、なんて高慢な言葉を許す気はなかったが、放っておいてくれるのはありがたかった。しかし結局、後になればなるほど、心境が騒がしくなってきたアンがたまらず話しかけることもあった。そんなとき、眠っているとき以外は、ルーカスは映画視聴も読書もすべて脇へ追いやって、「なんだい?」と優しく話を聞こうとするのだった。
「クイールカントは今どんな様子なの?」
「特に大きな事件もなく、平和そのものだね。耳飾りの件を除けば、だけれど。だから今、国中で警察が走り回っていて、ニュースもその話題で持ちきりだ」
 そうなると、帰国したことを知られれば、騒ぎになりそうで怖い。一応の覚悟をするアンだ。
「国王陛下も王妃陛下もご健勝でいらっしゃったし、マクシミリアンも元気だったよ」
「あっ」
 思わず声をあげたアンに、ルーカスは「どうしたの?」と尋ねる。
「……母がユースアへ来たのは、あなたと結婚のことを言うつもりだったのね、やっぱり」
 ルーカスは目を見開いた。
「王妃陛下が、ユースアに? 非公式だよね」
「一人で行動していたから、たぶん。邪険にして追い返しちゃったの。顔を合わせるのが気まずいわね……」
 何か土産を持ってきた方がよかったかもしれない。ティッフェのネックレスとか、ガシューの財布とか、ディアの鞄とか。しかし、アンが城に姿を現せば、これ以上ないくらいの勝利の笑顔で出迎えられそうな気もする。
 そして、母がそのように行動したのなら、父も兄も、結婚のことは水際で止めるつもりだったのだろう。娘が帰国せねばならない事態が起こり、一番喜んだマリアンヌは、衝動を抑えきれず飛行機に飛び乗ったにちがいなかった。
 すごいね、と感嘆したのが他国の王子であったことに、アンははっと赤面した。
「今の内緒にして!」
「え? あ、もちろんだよ」ルーカスは少し面食らったようだったが「女神に誓って」と約束してくれた。それでもアンの顔はしばらく赤いままだったけれど。

 真昼から黄昏色に移り変わりつつあった空から降り立った黒い影は、機械ゆえに真っすぐな翼を鳥と同じように折り畳むことはなかったが、春風吹くオーラルランド空港に体を休めることになった。
 同じようにオーラルランドに一歩足を踏み入れたアンは、すっかり大きくなってしまった不安を抱え、目を閉じて息を吸い込んだ。ユースアよりは冷たい空気。雪解けが始まった温さと蕾を固く結びつける氷の気配を感じる。睫毛は震えた。まるで、過去に傷付いたときに目を伏せたのと同じように。

「アン?」

 音が帰ってくる。過去から現在へアンを連れ戻したのは、アンに傷を意識させる存在だった。
 私はあの頃とはちがう。アンは胸の内で呟く。あの頃とは違う、私は自由だ。誰にも『王女だから』なんて言わせない。
「送ろうか、クイールカントまで」
「いいえ。迎えが来ているから」目を向けたさきに、知った顔がある。相手もこちらを見つけているらしく、クイールカント王家の臣下として、少し厳しい顔つきでサラバイラのルーカスを見据えていた。
「ここまでどうもありがとう」
「こちらこそ、話に聞くよりも、素晴らしい女性だということが分かって嬉しかったよ」
「どういう意味?」
「またすぐ会うだろうって意味さ。僕たちはつながっているんだよ、アン」
 軽く握手をしたとき、さきほど手に触れられたことを思い出した。今こうして手を握っていることが握手なら、さっきの触れ方には、これとはまったく違う特別な意味があったのだと、今になって気付く。しかしそれを言葉にして指摘する前に、ルーカスは笑顔とともにあっさりと手を離してしまった。
 彼が背を向けると、SPたちが続く。キニアスだけが最後にアンに向かって一礼していった。空港の人々も興味深そうに彼らを見送っていく。オーラルランドでも、ユースアと同じように彼がとある国の王子だとは知っている人は少ないだろうけれど、ただ者ではないことが分かるくらいにはルーカスはハンサムだ。そして、そう思うくらいには、アンは彼に心を許し始めているようだった。
 自分の心境の変化が意外に速くて戸惑った。でも、悪いことではないだろう。アンは気持ちを切り替える意味でため息をつき、人混みの中に見つけた知った顔に近付いた。
「お久しぶりでございます、殿下」兄の側近であるネイダーはそう言ってアンに一礼する。不器用そうな尖った顔を綻ばせて。彼に向かって抱擁の手を広げ、頬にキスしながらアンも言った。
「久しぶりね、ネイダー! 元気そうで嬉しい」
「私もです、殿下」
「みんな元気? ユースアだと、クイールカントの情勢はなかなか聞こえてこなくって」
「ええ。それは是非、クイールカントでお確かめ下さい」

 国が所有している小型飛行機に乗り、ティタスの山を越えた。クイールカントの最西の街バリクの頭上を過ぎ、七人の聖女たちが歩んだとされるフィオレンティアの大街道が、王国の土地に絵を描くように濃く伸びていた。エーディタ河の支流が、話に聞き地図を見るよりも雄大に流れているのが見える。やがて、ティタスの夏の峰のような城が見えてきた。クイールカントの首都ミューダは、クイールカント国の土地の北側、東寄りに位置する、小さな城といくつかの聖堂を抱いた古い街だ。学んだことが真実ならば、この場所に最初にミシア女神が降り立ったのだという。
 着陸した飛行機から、車に乗り換え、ミューダに入る。城の正門をくぐり、正面につけた車から降りたアンは、ちょうど現れた茶色の髪の精悍な男性に、六年分の思いを込めて抱擁された。
「兄さん、苦しいわ」
「薄情者め、顔も見せないで」クイールカント皇太子マクシミリアンは、満面の笑みで妹を見つめた。「しばらく会っていない間に、ずいぶん綺麗になった。肖像画を描かせたいくらいだ。ユースアの空気はお前にあっていたみたいだな?」
「肖像画なんてごめんよ。美しくもない自分の姿を飾られる趣味はないの」自分のドレス姿の絵が掲げられているところを想像すると、身震いがする。それを他人が見るかと思うと。アンは息を吸った。「……王妃なら義務かもしれないけれどね」
 マクシミリアンは顔を曇らせる。アンはそんな彼に強い瞳で語りかけた。
「兄さん、もう事情は分かってるわ。私は、銀星の耳飾りを見つけるために戻ってきたのよ」
 兄は厳しく妹を見た。
「メールで言ってきたときは何の冗談かと思ったが……本気なのか」
「本気よ。私は、ルーカス王子と結婚するつもりはないの」
「両殿下。どうぞ中へ。風が出てきました」ネイダーが促し、マクシミリアンはアンの肩を抱いて中へ誘った。久しぶりの我が家だよ、と言って。

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