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 帰国の知らせはあっという間に広まっており、たくさんの人々から挨拶を貰った。侍女たちの中には見慣れぬ顔もあったし、いつもなら真っ先に飛んでくる者の姿が見えないので尋ねると、定年を迎えて、という言葉が返ってきた。六年という時間が決して短くはないことを思い知らされたが、それでも二十四歳のアンが歩く回廊は、幼い王女の悪戯が見つかったときに走って逃げたところであったし、古びた花瓶は、彼女が落として割ってから新しいものに換えられ、六年の歳月を経たものだった。

 ミュータス城は、敷地内にいくつかの宮殿を内包しており、王族がそれぞれ所有、公邸としている。アンは王位継承権放棄と同時に、自分の宮殿だけでなく領地も父に返したのだが、宮殿だけは、言うなれば自宅のお前の部屋なのだから、とアンのもののままになっていた。家族が集うのは国王の宮殿で、マクシミリアンは、王位継承権を放棄したとしてもアンを客人として迎えることはせずに、父の私室へと導いた。
 部屋に入った瞬間に、父が収集している古書の香りと生けられている花の香りで、胸がいっぱいになり、アンの口からは自然と父を呼ぶ言葉が洩れていた。
「父様」
 国王でもなく陛下でもなく、この人は自分を育ててくれた父なのだと胸には思いが根を張っていた。両手を広げた父の胸の飛び込み、皺の多くなった顔にキスをする。
「アン。おかえり」
「ただいま、父様。元気そうだけど……つかれているわね」
 兄に受け継がれる大らかな微笑みと品のよさで、国王セドリックは娘に言った。
「すまない、アン。お前を巻き込むつもりはなかったのだが……」
「いいのよ、家族は助け合わないと。兄さんにも言ったけれど、私は耳飾りを探し出すつもりよ。詳しい状況を教えてくれる?」
「授受移動の日は今から約一ヶ月前。警察が捜査しているが、手がかりすら見つからない。大きな犯罪組織が絡んでいる可能性もある。お前を巻き込むわけにはいかないよ」
 マクシミリアンが言い、そのとき、「そうよ」と声が響いた。
「あなたは王女。そして、花嫁になるんだもの!」
 扉から現れたマリアンヌは、そう言ってアンに「おかえりなさい」と笑いかけた。何の後ろめたさもない明るい表情に、アンはなんと言っていいのか分からず、抱擁を交わしあう。
「母上、それはまだ確定ではありません」
「耳飾りがなくなってしまったのよ。クイールカントは責任を負わねばなりません」マリアンヌはきっぱりと言い切った。王妃として、国を負う者の一人として、好ましくはあっただろうが、彼女自身を知っていると、自己陶酔と夢ばかりで出来上がった砂糖の城のような言葉だ。顔をしかめたマクシミリアンに、兄と父の苦悩が思われた。それとは対照的に、マリアンヌは、これから楽しいことがあることを知って心待ちにしている童女のようである。
「きっとその日、世界で一番美しい花嫁になるわ。素晴らしいドレスを仕立てましょう。ベールはうんと長くして」
「その辺りにしなさい、マリアンヌ」父がたしなめた。「アンは帰国したばかりで疲れているんだよ」
「晩餐の用意を始めさせてもよろしいでしょうか?」
 控えていたネイダーが言い、国王は頷いた。

 晩餐室に移動し、久しぶり家族四人揃っての食事となった。アンがここを出てから変わっていなければ、三人は、普段はそれぞれの公邸や招待を受けた場所で、各々食事をしていたはずである。そのせいか、父も兄もさかんに言葉を交わし、母はそれに余計な口を挟んでは、のんびりとアンに話を振った。山に囲まれたクイールカントには高価な、海の幸をふんだんに使ったディナーは、アンがユースアで食する贅沢なキャビアよりも美しい風格で、口にすればとろけるように美味だった。
「ユースアでの仕事はどうだ? うまくやれているのか」
「順調とまではいかなくても、食べていける程度には」
「だからクイールカントに戻ってくればいいのに……」
「アンが自分で選んだ道なら、私たちは応援するよ。マリアンヌもそれでいいね?」
 セドリックが言うと、マリアンヌも不満げに肩をすくめてだが頷く。
「でも王女なのは変わりないのに……」
「マリー」
 機嫌を損ねた母は唇を尖らせて魚料理を口に運んだ。
「母様は、私に結婚のことを告げにユースアに来たの?」
「もちろんよ。クイールカントの王妃、あなたの母親としてね」
 悪びれない顔だった。アンはため息をついたが、それ以上の言葉は堪えた。せっかくのディナーがまずくなりそうだったからだ。
(母様に裏はない、か)
 実は密かに母を疑っていたアンだった。母は、自分の望みが叶えられることを喜びとするため、時折無茶な行動を起こすことがある。クイールカントからユースアまで単独行動することなど序の口で、娘に国に戻ってきて欲しがっている彼女が、無謀な手段に出たのではないかと思っていたのだ。父親が学者で母親を早くに亡くしたマリアンヌは、自分で行動を起こすことが可能で、意見も強く、勇気があり、夢に向かって真っすぐに突き進む精神力、悪い言い方をすればわがままを抱いた強い女性だ。そんな彼女が、娘を手の中に戻すために行動を起こさないと言えるだろうか。彼女は王妃であり、各聖堂に安置されている聖装身具に近付くチャンスなどいくらでもあったはずなのだから。
「耳飾りなんて、誰が盗むのかしらねえ。陛下とマクシミリアンは、こちらから移す時に確認したのでしょう?」
「そうなの?」兄を見ると肯定が返ってきた。結局この話になるのかというような渋い顔をしたが、話してくれる。
「クイールカントの聖堂で中身を確認したのは、大司教、副司教三名、陛下、私、リカード公爵、ウードローダー公爵。受け渡しに動いていたのは、クイールカント側の聖職者と、我が王家を含む三家から派遣されてきた護衛たち。それだけで六十名はいたはずだ。聖装身具は金庫に保管され、中身を確認できる者しか開けられる者はいなかった。しきたりどおり、サラバイラに入っても、儀式が始まる前まで開けられることなく、しかし、従来通り儀式の前に開けてみたら……」
「銀星の耳飾りが消えていたってわけね」

「……すてき!」

 一同の手が止まった。正確には、マリアンヌを除く三人と、給仕係たちの手だ。
「マリー……」
 さすがの台詞に国王が批難の目を向けると、マリアンヌはきらきらとした目で子どもたちの顔を見た。
「だって、そんな貴重なものを盗み出すなんてどんな手を使ったのかしら? 目的は? 一体誰が? アン、もしこれがサラバイラのルーカス殿下だったらどうする?」
 子どもたちはぎょっとした。
「母様!」
「いくらなんでもそのおっしゃりようは名誉毀損で不敬罪です!」
 父は止められないのをいち早く悟って食事を再開している。そのため、母は夢見る少女となって、とんでもないことを口にし始めた。
「ルーカス殿下だとしたら、あなたと結婚したくて盗んだってことになるもの。素敵なラブロマンスでなくって?」
「私と彼は先日初対面だったのよ!」
 マリアンヌは目を見開き、父も驚いた顔をした。
「会ったの? いつ」
 しまった。つい口を滑らした自分を呪い、目で兄に助けを求めたが、知らぬ顔をされる。追究される隙を見せたのだから、自分で解決しろということだ。苦し紛れに言った。
「……空港で」
 嘘をついたが、気付かれなかったようだ。まあと口を開けていたマリアンヌは、次に笑顔になった。
「良い方だったでしょう? 夫として申し分ない方よ」
 女性を惑わすイビル・スピリットが憑いているとしか思えない。リンドグレーン夫人も、ルーカス・ジークを申し分ないと考えていたようだし、母もそうだとするならば、彼はミシア女神を惑わそうとして現れた至上の美を供えた悪霊と同じものみたいだ。どんどん彼に惑わされていく女性が増えていくみたい!
「そんなことよりも、耳飾りよ」アンは思考を振り払うように、強い声で言った。
「父様。兄様でもいいわ。明日、捜査関係者を紹介してくれる? 話を聞きたいの」
 アンの言いたいことを察して、兄がどうしようもないと首を振った。
「捜査の邪魔をさせるわけにはいかない」
「邪魔じゃないわ。私も捜査するのよ」
 独自にね、と言うと、アン、と名を呼ぶ声は強く、アンは口を閉ざし、兄の声を大人しく聞くしかなかった。マクシミリアンは諭す方向に出たのだ。
「一ヶ月だ。一ヶ月、クイールカントは捜査した。関係者を聴取し、状況を検分した。しかし何も見つからなかった。万が一犯罪組織が関わっていたらどうする? お前がその中に飛び込んでいくかもしれないなんて、考えただけでも恐ろしいことは止めてくれ」
「アン。お前が動くと、クイールカントが責任を果たすことを渋っていると思われても仕方がない、ということは理解できるだろうか? 我々は決断を迫られているのだよ。あと一ヶ月もない間に、クイールカントはサラバイラに答えを出さなければならない」
 父にまで言われてしまっては引っ込むしかなくなってしまう。けれど納得しきれないわがままな性が、アンにルーカスとの約束を口に出させた。
「ルーカス殿下が、私に『一ヶ月以内に見つけられれば』と言ったのは……」
 あまりにも哀れだったから、だとしたら腹立たしい。責任を逃れようとして駄々をこねていると思われているのは心外だが、あちらからしたらそう変わらないのかもしれない。王女の身分で表立って捜査を始めてしまうと、王家もアン自身も、国内外の心証が悪くなるのは必須だ。
「よくできた方だ。お前のわがままを受け入れられるとは」と父は彼を変な方向に評価した。アンが顔をしかめると、父は言った。
「今日はゆっくり休みなさい。明日からのことは、マクシミリアンに頼んでおこう。あまり兄さんを困らせることのないように」
「ドレスを仕立てましょう、アン!」母が手を打ち、アンは兄の顔を見ながら、どうやって明日から自分の自由を手に入れようか必死に考えを巡らせていた。




 晩餐が終わり、各々の公邸へ戻る。残っていた諸事を片付けた後、マクシミリアンは父と話す時間を得た。マリアンヌの目をかいくぐり、アンの今後を話すには、皆が寝静まった時間を見計らわなければならなかった。側近のネイダーを連れ、取り次ぎに取り次ぎを重ねて父を訪れた息子は、ちょうど呼ぼうと思っていた、とその父から言われることになった。彼の心配も、突如帰国した娘にあった。
「あの様子だと自分で捜査局長を見つけて食いかかりかねない。適度に抑えてやってくれ」
「心得ています。……捜査の状況はどうですか」
 国王の顔が愁いを帯びた。芳しくないのが見て取れる。
「容疑者が多い上、身分が邪魔をしている。容疑者たちはいらぬ腹を探られたくないし、警察も、探って機嫌を損ねたくもない、という状況が膠着を生んでいるね。それ以外の方向も捜査しているようだが……」
「不埒者が聖装身具に近付けた可能性は低い。しかしもう一方の可能性も、『なんのために』という動機が分からないのですね」
「戦争か、併合か……そのどちらかとは思うのだが」
 それを言うほど怪しい動きをしている重臣も貴族もいないことは、マクシミリアンも感じていた。
 クイールカントは、山脈に囲まれた閉鎖的な土地柄で、救世主信仰を受け入れきらなかったという民族性から見えるように、非常に保守的で信仰心が厚い。隣国のサラバイラはそれとは比べて比較的開けていて、豊かな鉱脈を有している土地柄、鉱業やIT産業に乗り出し、この二十年で近代化した街は多い。
 もし犯人の目的として二つの可能性に比重をふるなら、クイールカントとサラバイラを併合しようとする方が重いはずだ。クイールカントとサラバイラの外交は頻繁で悪いものではなく、今回のことも、相手側はゆとりがあるからか、クイールカントの謝罪と待機、調査期間の二ヶ月を認めている。だからやはり併合させようという策略の初動なのか、というのが国内関係者の見方だった。
 セドリックはため息をつき、不意に面白がるような口調で言った。
「マリーはアンを結婚させたがっているようだね」
「大きな話題がほしいのでしょう。国内には、あの人が満足する事件が少ない」
「自分から離れていった娘が許せないのかもしれない。彼女に逆らえるのは、恐らくはこの世でたった一人、アン・ミシュアだけだから」
 遠い目をしたセドリックは、マクシミリアンの目に気付いて「マリアンヌは、その気になれば教皇にさえ反抗するだろう」と笑ったが、息子の身としては、有り得そうな気がして口にもしてほしくなかった。
「そう考えるとアンはまさしくマリアンヌの娘だ。言い出したら聞かない。本人は決して認めないだろうから、言おうとは思わないが」
「賢明な判断です」
「その情熱を利用する私はひどい父親だな」
 両手を後ろで組み、品よく笑うセドリックに、マクシミリアンは微笑んで頭を下げた。
「父上は、クイールカントの国王なれば」
 口にせず暗黙の了解で今後の動きを確認すると、マクシミリアンは公邸に戻った。自室のパソコンはメールを受信しており、親友とも呼ぶべき人物に、その返信を書いた。


『アンが帰国した。元気そうだ。明日から予定通り行動を開始する。
 すべて順調だ。すべて。』

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