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 キニアスに開けられたドアから乗り込むしかなかった。話し合いの必要がある、と判断したからだ。アンは加害者であり、彼は被害者だった。彼の言い分を聞く必要が、加害者にはある。
 座席にもたれていたのは、想像した通りの男だ。やあ、と陽気に笑う彼は言った。
「君の運転する車は、子猫というより猪だね」
「危険な目に遭わせたのは謝るわ。怪しい車に追いかけ回されたの」
 ルーカスは真顔になった。
「どういうこと?」
「そのままの意味。買い物をしていたら、ずっと同じ車がついてきていて、左折を繰り返して同じ道に戻ってきたらまだいて、振り切ろうと思ったらああなったの」
 彼は心を込めて、ゆっくりと言った。
「怖かったろう」
 アンはため息まじりに頷く。汗で濡れた額に、髪が張り付いている。
「ええ、とてもね。事故を起こしかけてごめんなさい。人を巻き込んでいたらと思うとぞっとする」
「妙だな」とルーカスは呟いた。
「私が謝ったのが?」
「君が素直なのは知っているよ、子猫さん。普通、尾行ってものは気付かれた時点で止めるものだ。わざと追い回すなんて、まるで」
 言いかけて、止める。
「なに」
「なんでもない」
「言いかけたのなら最後まで言って!」
 さきほどの恐怖を小さく爆発させたような苛立ちで叫ぶと、ルーカスは舌打ちした。
「なら言おう。泣かないでくれよ? ……わざと追い回したのなら、君に事故を起こさせるつもりだったんじゃないか、と思ったんだ」
 顔いっぱいに疑問と不安を浮かべたアンは、やがてその表情を強ばらせ、彼の顔をうかがいながら、恐る恐る尋ねた。
「つまり……私を殺す気があったってこと?」
 ルーカスは、それみたことか、という息を吐いた。アンはおろおろと視線をさまよわせ、彼に言っても仕方がないのだが、訴えた。
「そんなことしても、何の意味もないじゃない! 私は王位継承権を放棄した人間なのよ? 例えこのまま結婚しても、あなたにとって意味も価値もあるかどうか!」
「価値がない?」ルーカスは低く言った。「本当にそう思う?」
 ルーカスはドアを開けると、外に出てこちら側に回り、アンの方のドアを開けて、「出て」と言った。命じるに近い声。それでも戸惑って顔を見上げていると、「行こう」と言って手を取って外へ連れ出した。
 路肩ではキニアスがアンの車の番をしていた。近付くと、彼はそこから少し離れ、二人の行動を見守っている。
「車のキーは?」
「ささったままだけど……?」
 アンの車の助手席を開けたルーカスは、アンをそこへ押し込んでドアを閉める。「キニアス、後ろから来い」そう言っている声が少し開けた窓から聞こえる。そうして、自分はさきほどまでアンが座っていた運転席に収まり、慣れた手つきでエンジンをかけてしまった。
「どこへ行くの!?」
「いい車だ」とルーカス。
「古いけれど、よく手入れされてる。でも僕なら座席は茶色にするな」
 黒い革の座席は、こまめに拭かれているのか汚れひとつ見当たらない。傷もだ。アンもそれに気付いていて、話の脈略が未だ掴めないまま、頷き、言った。
「でも茶色は甘すぎるわ」
「黒は色気がない。ドライブするのに必要なのは、気持ちのいい音楽、いい会話、甘い雰囲気だよ」
 つまりドライブするつもりのわけだ。アンは座席にもたれた。「シートベルトをしてくれ」と言って、アンが観念してベルトを止めるまで待ち、ルーカスは車を走らせる。

 車は大通りから、郊外へ抜ける道に出た。昼が近くなって、少しずつ混雑が緩和されてきた道は、やがて閑散としてくる。アンがむっつりと前だけを見て、ティタス山脈の峰を数えていると、ルーカスは堪えきれなかったといった様子で、笑いながら口を開いた。
「どこまで調査は進んだ?」
「まだ三日よ。分かるはずないじゃない」
「でも推測くらいはしただろう? 聞かせてくれないか」
 アンは渋々、これまで見たこと、そして考えたことを話した。ルーカスは、認めるのも悔しいくらい達者で安全な運転を見せながら、時々短く相槌を打って、話の勢いを殺さず聞いていた。
「クイールカントに犯人がいる、と考えたのか。立ち会った聖職者、公爵たちが怪しいと」
「でも例えそうだとしても、政略結婚する意味があるとはそんなに思えないの。そうなったときに、彼らにどんな利益があるのかしら。クイールカントに王子がいて、サラバイラの王女を迎えるならともかく、私とあなたが結婚するなら、クイールカントはサラバイラの下につくことになるでしょ」
「現状では、そうなるだろうね」とサラバイラの皇太子は否定しなかった。
「どうやって耳飾りを探すつもりだったんだい」
「それぞれの主張に矛盾はないか、見落としはないか確かめるつもりだったの。その上で怪しい人をあぶり出そうとしたんだけど」
 現状、アンの目にとまった人物も、怪しいところもない。かけた時間が足りないのだ、圧倒的に。
「探しても見つからないなら、出てくるようにすればいい」とルーカスは言った。
「相手が困ることを考えてみたら? 耳飾りがなくならなかったらこうはならなかった、ということを予測してみる」
 言われて、アンは頭を働かせてみた。唸りながら、ゆっくりと考えを口に出してまとめていく。
「第一には結婚だけど……つまりクイールカントとサラバイラが結びつくことはないわよね。クイールカントにはなくてサラバイラにあるもの……お金?」
「甘い雰囲気とはかけ離れてるな……」ルーカスが不意に呟いた。
「何か言った?」
「悲嘆に暮れただけ。それで?」
「でも私を狙ったっていうことは、結婚されたら困るってことよね。クイールカントとサラバイラが結びついて、かつ私が結婚すると困ること……?」
 全然思いつかない。結びついてほしいのだったら、結婚しかないのではないだろうか。国が欲しいなら結婚を、というのは、歴史上何度も繰り返されてきた常套手段なのだから。
「君と結婚したいやつがいるのかも」
「まさか。いたとしても、殺そうと思う?」
「君が手ひどく振ったのを恨んでたら?」
 アンは低く言った。
「怒るわよ」
「すまない、口が過ぎた」
 謝っていても本音はどうか。黙って窓を見やると、いつの間にか、ティタスの山は目前に、緩やかな丘を登っている。
 麓ではすでに雪は溶け、柔らかな緑が大地を彩り、木々は固い芽を綻ばせているようだ。突き抜けた平原の道に、彼は車を止め、「着いたよ」と言った。

 アンがここはどこなのだろう、と辺りを見回している間に、彼は外からドアを開けてくれる。差し出された手に誘われて、アンは、風の吹く広い高原の上に立った。
 場所としては、ティタスの、小さな山をひとつ登ったところだろう。緑が萌え広がり、花が咲き乱れている。青い花はブルーベル、白い花はスイセン。国境を越える人々はただ通り過ぎるだけなのか、足が踏み入れられた跡もなく、庭のように整理された気配もなく、ただただ広がっているばかりだった。自由で、蹂躙されることもなく、どこまでも広がっていく。風を感じ、好きなところへ行ける。遙かには街が見え、農園や河、道路や街道が、箱庭のような作り物めいた美しさで大地に描かれている。本当にここは、美しい女神の箱庭なのだ、と思わずにはいられなかった。

「寒くない?」声がして、アンは一人でないことを思い出した。彼が自分のジャケットをアンの肩にかける。そのとき手が触れ、アンは仕方なしに微笑んだ。思いがけず、微笑みしか浮かばなかったのだ。
「こんなところがあるなんて知らなかったわ」
「本人が気付いていないということは多々あるものだ。クイールカント人が、この場所を知らないみたいにね。君自身は、君とドライブできるという価値がどれほどのものか、まったく気付いていないだろう?」
 呆れてしまった。自分とドライブできる価値なんて、取るに足らない。河原で小石を拾うように簡単なことだ。けれど、王女という身分はそれを簡単に許してはくれなかった、という過去が、アンにはある。
「ドライブくらいいくらでも付き合うわ。その人が政略結婚の相手じゃなければね」
「政略結婚の相手にも、恋をしてみる価値はあると思うけど?」
 この人の瞳は固い宝石のような青なのね、とアンは少し怖い気がした。強い色だ。逃がさないような。
「結婚は義務だと言い切ったくせに」
「そう。義務で君と結婚できるのなら、それ以上のことはないと思ってる」

 ここに来てようやく、『逃がさないような』ではなく、『逃がさない』つもりなのだと気付いた。この人は私の分からないところで私を好きでいるんだわ。でなかったら、会って数日の女に言えるだろうか。政略結婚の相手に、アンは決してそんな言葉を言えないのに。

「君は自分に価値はないと思っているようだけれど、君が僕の名前を呼ぶことにさえ金より重い価値があるなんて君は知らない。今の僕には望みがあるんだ。『それはなに』って聞いてくれる?」
 アンは顎を引いた。萎縮している自分がいる。
「……それはなに?」
「君が僕を愛してくれること」ルーカスは一言口にして、絶句したアンに向かって笑う。「だから皇太子殿下と呼ばずに、ルーカスと呼んでくれないか」

 このとき、ルーカスはアンの手を取った。しかし紳士のように跪いて手を押し抱くのではなく、皇太子として王女に対する敬意を払うのではなく、恋いうる者に殉教するように、指先を、自分のそれですっと握り、ある種の恐れと愛おしさを込めて、そっと。遠くから見れば、二人が王族なんてことは誰も気付かれなかったはずで、ルーカスの言葉も、ありふれたような、しかし胸に響く愛のささやきだった。

「君に会いたいと思った。君と別れてから、どうやってもう一度会おうか、何度も考えた。結局僕は翼なんて持たないし、声を届ける不思議な力も持たない。だからここに来たんだ、アン。思いひとつを抱いて。君を危険から遠ざけるためにミシア女神が僕をここまで導いたのなら、この思いにも意味がある。僕はその意思に従おう。覚悟ができた」

 戸惑うアンに、ルーカスは言った。

「アン・ミシュア。君が危険にさらされないように、僕が守る。耳飾りの捜索に協力しよう。そしてその上で、君に僕を愛していると言わせてみせる」

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