Chapter 3
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 春とはいえ、クイールカントはずいぶん肌寒い。空は春の色よりずいぶん重い灰色をしており、雨はしばらく雪の花に変わるのではないかという様子だ。今朝も少しだけ降ったらしく、地面は湿り、街の道には小さな水たまりができていた。車がはねとばす水を避けて、通行人は仕事や学校へと赴いていくが、周辺が開けているクイールカントのミュータス城では、ずいぶん静かなものだ。

 侍女頭のローリーが起床を告げにきたとき、アンはすでに身支度を終えて、テーブルの上でパソコンを触っているところだった。
「おはよう、ローリー」
「おはようございます、アン様。まあ、お早くていらっしゃいますね」
「向こうにいってから起きたい時間に目が覚めるようになっちゃって。起こしてくれる人もいないし」
 ローリーはにっこりした。「それは安心しました。いらぬ虫がくっついていないということですわね!」
 朝食の支度をしてもらい、とろりとした黄金のオムレツをしみじみと眺めた。これほどおいしそうなオムレツは、なかなか真似ができそうにもない。コーヒーは、水なのか豆なのか入れ方なのか、ずいぶんと豊潤で美味しく、幸せな気持ちになる。
 食事を終えたあとは仕事の続きだ。昨日の夜、部屋に引っ込んでから調子に乗って書いた文章を改めて見て呆れつつ、修正を入れる。メールは友人たちから。食事の件にブーイングを受けてしまったので、フォローのメールを送信しておく。
 すると、室内の電話が鳴った。聞き慣れた自宅の電子音ではなく、ベルが鳴る音に驚いて、慌てて受話器を取りにいく。兄からだった。
『おはよう、アン。私はこれからイチの聖堂に行く予定なんだが、お前はどうする? 昨日、耳飾りを調査すると息巻いていただろう』
「イチの聖堂……サンではなく?」
 兄は笑った。
『もうそこまで調べたのか?』
「インターネットっていう便利なものがあるのよ」とアンも応じた。
『そう、耳飾りは今回サンの聖堂にあった。イチの聖堂には今、大司教様がおられる。まったくのプライベートで会いに行く伝手はほしくないかな?』
「欲しい!」
『なら決まりだ。一時間で用意しなさい』
「三十分で行くわ」
 そう勢いよく返事をして、受話器を置いた。

 いくらミシア神教が、救世主教と比べて、物々しいとは言いがたい民衆に親しんだ宗教であっても。プライベートで会うとはいえ、相手は同じ大司教である国王と並ぶ身分の人物だ。幼い頃は王女として聖堂に礼拝しながらもっと無邪気に会っていたが、先日二十四になったならば、きっちりとした服装で挨拶するべきだろう。そう考えて、スーツケースから出してあった紺色のスーツを選んだ。寒いので首もとにはスカーフを巻く。ただ、寒くとも季節が春なので、白の入ったものを選んだ。
 着替えてから、仕事のデータを放りっぱなしにしていたことに気付き、慌ててファイルを保存し、パソコンの電源を切った。

 アンが駐車場にくると、マクシミリアンは本当に三十分で来た、と呆れた顔をした。上から下まで妹を眺め、複雑そうなため息をついた。
「化粧は……しているな」
「朝起きたら洗顔と薄化粧は鉄則なの。いつ飛び出していかなきゃならないか分からないんだから」
 一言ある顔をした兄に続けて言う。
「冗談よ。習慣なだけ」
「ならいい。母上のように、クイールカントに帰ってこいと言わなければならないかと思った」
 運転手はネイダーで、彼を使うところからも、これが兄の私用で、アンのために時間を割いてくれたのだと分かる。
「仕事は?」
「帰ってきた妹にあてる時間くらいある。気にするな。……なんだ?」
 ううん、と首を振る。横顔が、全然違うのだ。子どもの頃、大人しく利発だと評されていた兄は、いつの間にかその大人しさは悠然とした穏やかさに、利発さは折れそうな神経質さや理屈っぽさではなく、裏付けされた自信に溢れて、つまり兄は、すっかり責任と義務を負う大人の男性になってしまっていた。
「兄さん、変わったわね」
「そういうお前はずいぶん綺麗になった。そばかすを気にしていた十五のあの子はどこにいったんだろうな?」
 アンは呻いた。忘れてほしい。そばかすを隠すために煮出した紅茶を塗っていたりしたのだ。車中で、マクシミリアンは、それはそれは楽しそうな笑い声をあげた。

 イチの聖堂は、ミューダの郊外、大河エーディタの支流の近くに立てられている。聖装身具にも意匠されている太陽をモチーフとした象眼が、タペストリー、床のモザイクなど、建物内のいたるところにされていた。ここには、一ヶ月前まで太陽の冠が安置されていたはずだ。
 マクシミリアンが奥へ入っていくと、教主が彼に頭を下げ、やがて大司教が現れた。
「ごきげんいかがですか、皇太子殿下」
「ごきげんよう、大司教様。お時間をいただいて申し訳ありません」
「お久しぶりです、大司教様」
 骨張った手と握手を交わすと、アンよりも小柄な大司教は目を細めた。
「あのお小さい殿下が、よくぞ大きゅうなられましたな。お元気そうなお姿を見られて嬉しく存じます。私もこの通り、髭が伸びました」
 そう言って顎から伸びた白髭を撫でる彼を見て、サンタクロースの髭みたい、と言った過去が蘇ってしまった。よくもまったく違う宗教の聖人名を出したものだ。怖れ知らずの子ども時代を恥じ入る。なんとも言えなくなったアンに、大司教は朗らかに笑い声を立てる。今日は笑われる日のようだ。
「今日いらっしゃったのは例の?」
「いえ、そのことではなく……」
 マクシミリアンの否定に、大司教は意外そうな顔をし、アンの顔を見て、何故かにっこりと笑った。
「なるほど。悪い兄上ですな」
 アンは首を傾げるしかない。
「アンに、耳飾り紛失までの当時の状況を説明していただけますか? 妹は、耳飾りを見つけ出そうとしているのです」
 はっとしてアンも言った。
「お願いします。最後に耳飾りを見たのはいつだったのか、怪しい人間は見なかったか。お気付きになられたことはなんでもお話し下さい」
 大司教は頷き、二人を奥の部屋へと誘った。


「その日、我々はしきたり通り、七つの聖装身具をこのイチの聖堂に集め、聖棺に収めました。翌日の移動に備えてです」
 聖棺は聖装身具それぞれの箱をもう一度一挙に収める大きな箱。実質はそれを更に金庫に入れることになる。このとき、国王と皇太子、三人の公爵、大司教と副司教三名が立ち会い、中身の確認をした。
「すべての聖装身具に触れるのは大司教のみ。つまり、私と陛下です。主教たるウードローダー公爵、リカード公爵、副司教たちは、己の任されている装身具にだけ触れることができます」
「耳飾りを任されているのは……」
「サンの聖堂の主教、リカード公爵だ」
 大司教は頷いた。「聖装身具を収めた翌日、聖棺はサラバイラに移動しました。サラバイラに到着し、儀式の直前に遺失が確認された時点で、すべての者に身体検査をしましたが、どこにも見つかりませんでした。もちろん、リカード公爵からも」
 困ったような顔をしている叔父の姿が浮かんだ。ハーレン・リカード公爵は母の弟だった。マクシミリアンが自立心高く成長できたのなら、叔父は姉に苦労させられたのがよく分かる顔のまま大人になってしまった、そんな顔をしているのだった。
「聖職者と護衛、そして私たち。合わせて六十余名にすべて聞き取りを行いましたが、怪しい者も見なかったし、不意のこともなく、すべて滞りなかったということです。私も、特に引っかかりを覚えるところはありませんでした。警察の捜査も、同じところで立ち止まっているようです」
「サラバイラ側で何かあったということは?」
「ありません。あちら側に入っても、慣例通り、触れる者だけが聖装身具を取り出し、確認したのですから」
 ではやはりクイールカントでなくなったことになる。それも、聖棺に収めたその日から翌日までの疑いが濃そうだ。最も疑わしいのはリカード公爵で、もし犯人を彼だとするならば、身体検査で出てこなかったのならクイールカントで耳飾りを奪ったのかもしれない。結局は、クイールカント側に犯人がいるのだ。
 だが何のために? 国内情勢の混乱を目論んでか。クイールカント王家への信頼の失墜を目的とするならば、王制反対派が喜びそうだが、聖装身具に近付いたのはその王家に最も近い貴族や、国教としてミシア神教を保護してもらっている側の聖職者たちだ。
「銀星の耳飾りがなくなったことで、どんな得があると思う?」
 兄に尋ねる。彼は何度も検討したのだろう、澱みなく答えた。
「賠償としてお前がルーカスと結婚すれば、クイールカントはサラバイラの保護国となる。属国になったと考えて利益はないと考える者もいるだろうし、見方を変えれば得とも言える。サラバイラに金鉱脈が発見された話は?」
 アンはびっくりした。初耳だった。ITが興業されている国なら、金は使い道がたくさんある。その他、鉱物そのものを扱う産業だけでなく、金の価値で王国を豊かにする道もある。その上でアンがもしサラバイラに嫁ぐのならば、クイールカントは最終的に取り込まれてしまう可能性が高い。現代の世界情勢を見るに、国名は残っても、クイールカントがサラバイラの金銭的援助に依存している将来は、霧が晴れて見通せるくらい確かなことだ。
「あちら側には、クイールカントと結びつくことによる直接的利益はないわけね。だったらサラバイラに怪しいところは特にないかな。もしあちらに犯人がいるとしたら、クイールカントを貶める目的ということかしら」
「戦争を起こしたいのなら、そうかもしれない」
「貴族はともかく、クイールカント王家に犯人がいることは消していいわね。取り込まれることを望む君主がいるとは思えないもの」
 マクシミリアンは眉を上げた。
「父上も私も容疑者だったようだな」
「当然よ。私の自由がかかってるんだから、誰でも疑ってかかるわ」
 自信たっぷりに胸を張る妹を、兄は眩しげに見、そして苦笑した。「……お前が」とマクシミリアンは考え込むアンの横で口を開く。
「お前がルーカスと結婚するなら、彼自身の得にはなるかもしれないな」
 アンは目を剥いた。
「冗談!」
「お前はそうでも、彼はどうかな。お前に興味津々だったが」
「さっきから兄さん、あの人のことを身近な人みたいに言うのね」嫌そうに顔をしかめたアンを、マクシミリアンは笑った。肘掛けに肘をつき、楽しそうに。
「隣り合った国の皇太子だから、式典やパーティーでよく会うんだ。同じ、国を担う者として、影響しあえる大切な友人だよ。お前の話はよくした」
「悪口じゃないでしょうね?」
「変わり者だと言っておいた。手を出されたくなかったからな。それも、効果がなかったようだが」
「政略結婚なんて、どちらも不自由で縛るだけよ」
 だからこそアンは耳飾りを見つけ出そうと思ったのだ。
「身分に縛られるなんて、まっぴらごめんよ!」
「アン、大司教様が驚いていらっしゃる」
 冷静に兄が言い、アンは自分の物言いに気付いて小さくなる。しかし、大司教は笑ってくれた。しかし「お姿は美しく変わられたが、中身はまるでお変わりにならない」と言われ、ますます何も言えなくなる。

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