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 話があるから、とマクシミリアンは部屋に残り、アンは礼拝堂へ戻った。壮麗な太陽の紋章を見上げると、自分がどれほどこの空気を懐かしんでいたかを考えさせた。クイールカントを離れたものの、救世主を信仰するわけでもなくいた自分は、やはりミシア教徒なのだ。光と真実と断罪の女神を尊ぶ心を持っている。
 そしてアンは、やはり自分は自分の心に正直でありたいと思うのだった。だから、自由であり続けるために宣言する。
「耳飾りは見つけるわ。絶対に」
 反響することはなかったが、しっかりと胸に刻まれるように、アンの耳には聞こえた。

 代わりに響いたのは、扉が開けられる音だった。古い木製の、重たい扉が開かれ、入ってきたのは小柄な人影で、彼女からはこちらがよく見えたようだ。びくりと身体をすくませると、そこで立ち止まってしまった。
「……アン?」
 風のささやきかと間違えるほどの小さな声が呼ぶ。アンが外の光の眩しさに目をすがめると、影が段々と覚えのある形を見せ始めた。そして、彼女はこちらに向かってゆっくりと歩み寄ってくる。繊細な金を思わせるブロンドに、青い瞳をした女性。
「キャサリン? キャサリン・リカード?」
 彼女はゆっくりと微笑した。
「そうよ、アン・ミシュア。あなたの従妹」
 きゃあっと歓声を上げて、アンは彼女を抱きしめた。昔から細くたおやかで人形のようだった彼女は、アンの二つ下、二十二歳になっても、雪のような儚い美貌は健在だった。
「アン……どうして帰ってきてしまったの……?」
 耳元で泣き声のような声がして、アンは目を瞬かせた。泣いているのではと思った彼女の顔は、静かで繊細な微笑を浮かべて、続けてこう言うのだった。
「……ユースアで元気に暮らしていると思っていたわ。あちらには、たくさん楽しいものがあると思っていたのに」
 悲しんでいるのは気のせいか、それとも本当にそうなのか。よく分からないままに、彼女を励ますつもりで、アンは明るい声を出した。
「もちろん、ユースアは大都会よ。高層ビルの群れに、きったない空気!」
「変わらないのね、アン」キャサリンはきっと本物の笑顔を見せてくれた。やはり彼女は守らなければならないか弱く心優しい従妹のまま。昔はよく比較されて、彼女の方が品がいいと揶揄されたこともあったが、懐かしい従妹の顔に、安堵も覚えた。
「キャサリン?」と大司教とともに、マクシミリアンが現れた。キャサリンはマクシミリアンの顔を見て、はっとしたように身を強ばらせ、しかし慣れた動作で礼をとった。
「お久しゅうございます、殿下」
「伏せられていると聞いていた。お加減はよろしいのですか?」
「病気をしていたの?」
 彼女は微笑み、言う。
「私は弱いから」
 確かに昔から病気がちで線の細い子だったが、抱きしめたときのあまりの細さは、病み上がりのためだったかららしい。心配そうにうかがうアンに一度微笑み、キャサリンはマクシミリアンに向き合った。
「ご心配いただきありがとうございます、殿下。この通り、元気です」
「大司教様にご用事ですか」
 キャサリンは「……いいえ」とためらいがちに否定した。
「いいえ。ただ、お祈りを」
 アンもだが、マクシミリアンも不思議そうな顔になった。キャサリンの父はリカード公爵だ。彼女の邸の近くには父親が主教として管理しているサンの聖堂があり、もし病み上がりだというのなら、そちらに行った方が負担がないはずなのに。マクシミリアンは表情を緩め、太陽紋の前に彼女を誘った。
「では、私たちは失礼しましょう。アン、行こう。大司教様、お時間をいただき、ありがとうございました」
「女神へまことが届くことをお祈り申し上げます、マクシミリアン殿下。国王陛下にも、ご同様に」
 その言葉にマクシミリアンは少し立ち止まり、顔をしかめるような笑い方をして頷いた。
「失礼します、大司教様。またお会いできますか?」
「あなたが望まれるかぎり。ごきげんよう、アン殿下。どうぞ、ご自分の信じられる道を行かれますように」
「さようなら、アン」キャサリンが言い、アンはまたね、と手を挙げた。

 聖堂を出ると、タイミングよくネイダーが車を回してきた。乗り込むと、兄の優秀な側近は「さきほど入られたのはキャサリン様ですか」と尋ねる。マクシミリアンがそうだと肯定すると、言った。
「では、お一人で参られたようですね。誰もつけず、一人で歩いてこられました」
「一人で?」公爵令嬢が供の者もつけずに一人で出歩くなど、危険にも程がある。キャサリンなら尚更だ。倒れる可能性だって、今日の状態だとあり得るのに。
「はい。きょろきょろして、辺りを警戒しながら」
「一人になりたかったのかしら……」
「本当は大司教様に用事だったのかもしれない。何か告白しにきたのだったら悪いことをしたな」
「兄さん。それってなんだか、キャサリンに何かあるような言い方だわ」
 マクシミリアンの笑顔が意地悪になる。
「誰でも疑ってかかるんじゃなかったのか?」
「キャサリンは違うわ。目的がないもの」アンはきっぱりと言い切った。すると、兄は他愛ない冗談を聞いたように含み笑いをして、窓の外を見始めた。
「なに?」
「いいや。キャサリンも大変だと思っただけだ」
「それって私が意地悪してるってこと? そんなわけないじゃない、私、彼女が好きよ」
「お前はそう言うけれど、まことの愛情があると思っているのか?」
 不意にマクシミリアンが言った。アンはつかの間怯み、唇を尖らせて答えた。
「あるでしょう、当然」
「その愛というのは無償の愛のことだ。人は誰しも、愛の裏に欲を持っている。あるいは闇に潜む感情を。私はお前を愛しているけれど、時々、憎たらしいと思うことがある。愛しているけれど、結局は私の手のひらで転がせると思うと、嗜虐にも似た愉悦を覚えることすらある」
「その言い方、嫌だわ」
「悪いとは思うけれど、本心だ。ミシアの尊ぶ真実」
 アンは目を逸らした。兄の顔をうまく見ることはできない。

 兄は知らないのだ。アンがどれだけ兄を、彼が妹を思うように、羨望しているか。そう、彼の言葉は羨望だ。理性と知性、勇敢と気品を。身につけた兄を羨ましく思う。アンは彼と同じようにならなければならない自分を将来に求められた時、早々に見切りを付けたのだ。決してアンは自分が王女だということを割り切れないし、いつまでも己と、己に対する他者の本心を疑い続けるだろう。そして、相手を支配しているという喜びとは正反対に、アンは、自分は自分であり、兄と違って自由なのであるということに悦びを覚えている。

「私は兄さんを羨ましいと思うし……自由であることが嬉しいとも思うわ。結局、無い物ねだりなのよ、私たち」
 指先を合わせて、ずいぶんかさついて固くなっているのに気付いたり、自分はやっぱり城で生活できないと仕事をしていて広すぎる部屋の空間に思ったり。兄はそんなことはないのだろう。
「私が言いたいのは、お前は自分の愛を疑わねばならないし、他人の愛も疑ってしかるべきだということ」そう言ってマクシミリアンはアンの額にキスをした。「私はこれで城に戻る。送っていこう、どこへ行きたい?」
「じゃあ警察へ……」
「捜査状況は教えてくれないと思うぞ。命令できるのは国王だけだ」
 アンはむっと唇を尖らせた。「捜査局長を紹介してくれないの?」
「昨日さんざん言ったろう?」
「任せておけないわ。一ヶ月しかないのよ。ルーカスとそういう約束を交わしたの」
 しかし兄がにやにやしたのに気付く。アンが噛み付く前に、一言を放った。
「お前こそ、彼を知り合いのように言うんだな」
 かっと顔が火照った。車中で兄の笑い声が響く。

 結局、捜査局長を紹介してもらうことはできなかった。「これは国家の信用の問題でもあるから」と、こわい顔をしたマクシミリアンは、決して捜査の邪魔をしないようにと、長々とした言葉で厳命し、「お前が動けば犯人が動いてしまって、更に事態が混乱し、取り返しがつかないことになるだろう」と理由を告げて、アンを帰城させてしまった。しかも図ったようなタイミングで、原稿の校正が入り、パソコンの前に縛り付けられたアンが解放されたのは、サンの聖堂の鐘楼が十二時の鐘を鳴らしてから、二時間も経った後だった。

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