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 パーティのその日、アンは、母と、侍女頭を始めとした女官たちによるアクセサリーなどの選別を行い、身体をしっかり磨いて、入念な化粧をし、兄からプレゼントされたイブニングドレスを身につけた。兄の好みなのか願望なのか、胸も背中も開き過ぎていないものだ。それでも、アンに似合うところを想像してくれたのか、黒い色は肌の白さを引き立ててくれるように思えたし、髪をアップにして鏡に映った姿は、たぶん、王女らしくなくはないと思う。たぶん。この歳になって、王侯貴族の現れる会に出席したことがないから、自分がみっともなくないのかは全然分からないので不安になる。
 ルーカスの迎えを知らせた侍従が、アンを導く。表に出たアンは、テールコート姿の彼をすぐに見つけてしまった。

 どこの誰とも変わらない服装をしているというのに、正装の彼は、まさに皇太子という威厳と優雅さを備え、彼の夜会での姿を知らないというのに、女性たちから注目されているところが容易に想像できてしまう。青い瞳が大きく見開かれたことに、アンは怯える。とんでもない姿で出てきてしまったのでは、とどきどきしたが、文句なしと頷いてくれた人たちの顔を思い出して、なんとか微笑んだ。
「驚いた。とても綺麗だよ」
「連れ歩いて恥ずかしくない?」
「それどころか、綺麗すぎて見せたくないよ」そう言って、つと唇を見た。「今日の唇にキスしたいな」
 アンはにっこりした。どれだけ時間をかけて作った顔だと思っている。「手袋を叩き付けられる覚悟があるようね?」

 車に乗り込み、リカード公爵邸へと向かう。運転席に座るキニアスも、今日は正装だ。しかし、運転手もできる側近なんてめずらしい。この人にできないことはなかったりして。そんな他愛ない想像をするアンだ。
 到着すると、リカード邸の人々が車を開けにきた。降り立って、久しぶりに、幼少の頃さんざん迷惑をかけた屋敷を見る。ルーカスのエスコートを受けて、会場となる広間に入っていった。
 すでに招待客は集まりつつあるらしく、二人の到着は遅い方だったらしい。食事を始めている人々がおり、よく見れば知っている顔も何人かいて、アンたちに挨拶にやってきた。その誰も彼もが、アンの隣にルーカスが、あるいは、ルーカスの隣にアンがいることが驚きらしい。
「お二人は、いつ頃からお付き合いが?」
「最近です。マクシミリアン殿下の紹介で」ルーカスが答えれば、それはそれは、と相槌を打ち、しかし品よく好奇心を底に潜ませながら、何か話題となるような情報を引き出そうと話しかけてきた。これが嫌なのだ、とアンはやって来て三十分にもならないのにうんざりしてくる。もちろんそんな正直な表情はできないので、愛想良く笑って受け答えする。
「殿下、アン」キャサリンがやってきたのは、アンにとって救いだった。彼女はラベンダーと水色の中間のようなドレスを着ていて、髪はすべて下ろし額を出して、少女らしいのに大人っぽい、不思議な魅力があった。
「こんばんは、キャサリン」
「ご招待ありがとうございます。夜に見るあなたもとても綺麗だ」
 ルーカスが褒めると、キャサリンは頬を染めた。
「ありがとうございます……殿下は相変わらず褒めるのがお上手ですね。アンにはちゃんとおっしゃいました?」
「言ってもらったわ、ちゃんと。そういうところ、抜かりない人だものね」社交辞令だったにちがいないけれど。批難が混じった目を受け止めて、彼は言う。
「僕は思ったことしか言わないよ」
「ミシア教徒だからよね」
 アンはルーカスから手を離した。
「アン?」
「叔父さまにご挨拶に行ってくるわ」
 手を振って、同じ爵位持ちの人々と会話している男の元へ歩いていく。ちょっと気になって振り返ると、また別の人間がルーカスを捕まえていた。アンが離れたことで、少しずつ女性たちも集まってきているようだ。思ったのは、そういうものよね、ということだ。そういうものだ。アンに彼を縛る立場にないし、自分だって縛られたくないのだから、これでいい。
「ハーレン叔父さま」
 声をかけると、男性陣の目がアンに向けられた。
「アン!?」
 仰天した声が上がり、叔父はせかせかと近付いてきた。
「お久しぶりです、叔父さま。お元気そうで嬉しいわ」頬にキスを贈り、アンは周囲の人々にも、ごきげんよう、と微笑んだ。彼らは一様に笑顔で頭を下げてくれる。
「ああ……会えて嬉しいよ。でもどうしてここに」
「キャサリンから招待状をもらったの」アンはにっこりした。あまり嬉しそうに見えないけれど、一体どうしたのかしら。「お疲れでしょうに、とても華やかな会ね」ちらりと見回すと、どうしてもあの二人は目立っていた。儚い美貌の公爵令嬢と、柔らかく爽やかな美丈夫の隣国皇太子。
 ハーレンは嘆息した。「耳飾りの件があったが、どうしても取りやめられなくてね。会社の十周年だから、クイールカントと関係のない人々との交流があって」
「分かります」とアンは頷いた。クイールカントは小さい。自国での評価を重んじるより、他国の他者を重んじなければならないときは、多々あるものだ。そんな風に、本当は、アンはキャサリンのように、ルーカスの相手を務める必要があるのだが。
「耳飾りは確かにあったんでしょう? どうしてなくなったのか、まったく分からないの?」
 いつも困った顔に似た笑顔を浮かべている叔父の顔は、もっと困ったようになった。人々に失礼を申し出、アンを少し離れた壁際に呼ぶ。すると、ルーカスとキャサリンを見てささやいている人々の声が、嫌でも耳についた。
「お似合いね。お二人は、ずいぶん前から親しいんでしょう?」
「よくキャサリンがいるパーティに、ルーカス殿下の姿を見たわ。もしかしてそういう仲なのかしら?」
「殿下は決まった方がいらっしゃらなかったから、もしかするかもしれないわね」
 無責任なおしゃべりだ。「身分もちょうど……」と話は続いたが、アンの前で叔父がため息をついたので、そちらから気を離す。
「私は耳飾りの管理を担当していたから、最後までそれを持っていた。だから一番怪しいのは私なんだが……どうしてこうなったのか、分からないんだよ……」
 責任のほとんど負ってしまった叔父は、ずいぶん忙しない口調で呟いた。
「本当に、どうしてこうなったのか」アンを見る目は、いつもの彼に似合わずぎらぎらしていた。「アン、君は、陛下に言われてここに来たのか? 陛下から、何か伝言を受けたんじゃないか?」
 どうしてそんなことを言われるのか分からなかった。
「いいえ、何も言われていないけど」
「じゃあ陛下のご様子は? 私に関して、何か仰っていたか?」
「いいえ。一体どうしたの、叔父さま」急に心配になってきた。今やハーレンの形相は変わりつつある。「私は、キャサリンに招待されただけよ」
 叔父ははっと愛娘の姿を探した。ルーカスと話しているキャサリンは、夢見るような表情で彼を見つめている。
「まさか……なのか?」ハーレンは何事か呟き、ふらりと、さまようようにどこかへ行ってしまった。アンはルーカスたちから目を離せなかったことから我に返って叔父の姿を探したが、もうすでにどこにもいない。まさか、と思う。本当に、ハーレン叔父が関係しているのか? それとも、父と何かあったのだろうか。
 ルーカスのところへ戻ろうとして、はたとその必要があるのかと考え直した。

 キャサリンの表情は完全に恋をする人そのもので、アンが行けば彼女の邪魔をすることになってしまう。手袋の中で手が汗ばんでいく。うまく握りしめられない何かがある。キャサリンの邪魔はしたくない、でも、自分の中で「立ち去る」という選択肢が選べない。
 嫉妬だ。それから、恐怖。キャサリンに対して嫉妬の炎が燃えているのと、自分は邪魔者なんじゃないかと巡らせた想像による恐怖。そして、自分が積み重ねてきたものが次第に崩れていく感覚がある。
 キャサリンはルーカスが好き。アンは彼女の邪魔をしたくない。何故なら従妹が好きで、悲しませたくないからだ。ルーカスは彼女を拒絶しない。彼はきっと冷たい態度は取らないだろうけれど、どうしてというわがままな欲求がアンの胸を揺さぶってくる。どうして、私だけだと言ってくれない、何故キャサリンがそこにいるの。そして、叔父は何を考えている、何を知っている? 父と叔父に何かあったのか。分からない。
 分からない。自分の気持ちすら分からないのに、何が解き明かせるというのだろう?

「うわ!? あ、失礼!」背中からぶつかった相手が、アンを睨むのではなくそう言った。「アン・ミシュア殿下?」
 振り返ると、黒髪に青い瞳の見知らぬ男性が、離れようと焦って足をもつれさせたアンを支える。
「大丈夫ですか、殿下」
 見てみると、彼の右手は不自然にあげられている。どうやら、カクテルを零してしまったらしい。ぶつかったせいだと気付き、アンは真っ青になった。
「ごめんなさい! 衣装が……」
 一瞬何を言われたのか分からない顔をして、袖口が濡れているのとアンの顔を見比べた彼は、笑って肩をすくめた。「大丈夫です。黒だから目立ちませんし」ひょうきんで余裕ある態度に、今のアンは救われる。
「ルーカス殿下といらしたのでは?」
 アンは二人の方を見た。まだ一緒にいる。別の女性たちに笑みを向けていた。
「ふられてしまったみたい」彼の真似をして肩を持ち上げると、相手はつかの間目を丸くして、笑ってくれた。
「では、少しだけお相手願えますか? こういうところは、少し苦手で。エリオ・モクソードと申します」
「アン・マジュレーンです。アンと呼んでください。モクソードさんは、お一人なんですか?」
「エリオとお呼び下さい。友人に連れられてきたんです」と彼は答える。意外だ、相手などよりどりみどりに見える。ルーカスとはタイプがちがう、がっしりとした明らかなスポーツマンタイプだ。
「でもこういうところは苦手で。相手がいないということにも引け目を感じるし、いたらいたで大切にできないと分かっているので」
「大切にしようとする気持ちは伝わると思うわ。恐れるより、試してみればいいと思います」
 にやっと、エリオは悪い顔になった。「試してもよろしいのですか?」
 アンは笑みをこぼした。「試してごらんになる?」

「困るな、それは」

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