Chapter 5
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 ルーカスは物言いたげな側近の目に、鏡越しに気付いた。黙ってネクタイを捧げ持っているが、その常に風の立たない水面のような目にありありと批難が浮かんでいるのは、自身の後ろめたさが相まって、更にルーカスを追い詰めるものになっている。
「ユミル、何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
 しかしいつものようにユミル・キニアスは言った。
「殿下のお決めになったことですから」
「そんなに気に入らないか」質問を変える。イエスかノーで答える問題に。すると彼は「わたくし個人としての回答は」と前置きし。
「イエスです、殿下。そのなさりようは褒められたものではありません」
「きっぱり断定してくれて嬉しいよ、ユミル。僕もそう思っていた」
 ルーカスの脳裏にちらつくのは、誰よりも輝いているのに、誰よりも悄然としていたアン・ミシュアの姿だ。これから彼の行うことは、アンを一方では助け、大部分では裏切る行為に等しく、また、彼の『相手』をもてあそぶ行為に等しい。しかもそれをアンに黙って行おうというのだから、我ながらたちが悪いと考えている。
「殿下がご自分を悪いと考えられているのは分かります。わたくしは殿下の良心です。殿下のお考えになられることは、わたくしの考えること。わたくしの考えることは、殿下の本心であり、良心、あるいは悪心といったもう一方の心です」
 いつも乱れのない、影のように寄り添う側近は澱みなく言う。一方で鏡を見ているルーカスは、王子も人間だな、と思う。鏡像の自分は、苦い顔をし、これからすることを歓迎していない様子だ。

 こんな『王子』という存在に、どうして姫君たちは恋をするのだろう。王子が恋の歌をうたうことで姫君と真実の愛を交わし、永遠をなせるなら、どうしてこれまで巡り会ってこられなかったのかいつだって、彼の恋は真実だったはずなのに。
 彼の言葉を最初から疑ってかかったアン・ミシュア。彼女といると楽しかった。誇り高く、なのに自信を持てずに小さくなっている彼女。子猫のようなシルバーブルーの瞳はきらきらと感情を映し、よくルーカスを困惑の目で見ていた。敵なのか味方なのか判断がつかず、少し近付いてはまた離れていく様は、好奇心の強い小さな猫と同じだ。彼女が安堵できる場所を、腕の中に作りたかった。もう何も怖いものはないと、胸に抱いていつまでも可愛がっていたい。

「僕はアンを愛している」ルーカスは呟いた。鏡の向こうの彼は、ルーカスが思ったよりも真剣な表情で口を動かした。「弱くあってもいいんだと教えてやりたい。守られてもいいんだと。一人で生きる必要はないと言ってやりたいんだ」

 姫君に恋をした。そのアン・ミシュアはあくまで普通に憧れる女性で、愛の言葉を最初からばっさりと切り捨てて、ロマンスを拒否した。彼女の前では、ルーカスは王子ではなくなる。これは普通の恋。どこにでもあるロマンスの、他愛ないひとつだ。永遠になんてならないし、だからこそ、美しい。思いひとつで、どちらとも、守る立場にも守られる立場にもなれるのだから。
 今は僕が彼女を守る……ルーカスはキニアスを振り向いた。

「それじゃあ、僕の心に聞こう。アンは僕を許してくれると思うか」
「許しても、許さなくとも、ルーカス様はアン様を愛していらっしゃいます」キニアスは答え、その通りだ、とルーカスは笑った。
「では、行くよ。あとは言った通りに頼む。キャサリン嬢がお待ちかねだ」
 心は決まっていた。耳飾りを見つける――アンのために。



 陽気と、水のにおいが混ざりあい、日差しは初夏のようにまろやかさを帯びていた。アンの気持ちも、春先なのに初夏というどっちともつかないところをふらふらさまよっている。しかし、そうは許さないのが、アンを訪れる人々だった。パソコンの置いてあるテーブルだけは絶対に触らないローリーが、その惨状に片付け心を疼かせながら、アンが何もせず、窓辺の椅子に座り、何を見ているか分からない目をじっと凝らしているのを見て、口を開いた。
「ルーカス様、今日はいらっしゃらないですわね」
 彫像になりたがったアンの心が動き、本人の意思とは無関係に指先を動かした。アンは手を持ち上げ、何を掴めばいいのか分からない、行き場のないそれを、自分の手と組み合わせた
「ずっと飛び回っていらっしゃったアン様も、今日はおやすみですか?」
「……そうね」そういえばそうだ。時間が惜しい。アンは立ち上がり、電話をかけた。相手はリカード家で、アン・ミシュアを名乗り、取り次ぎの男性にリカード公爵を出してくれるよう頼むと、出掛けているという答えが返ってきた。昨日の今日で、叔父は気になる点を様々アンの疑いに残していった。一体、彼はアンが何を知っていると思ったのだろう。
 続いて、アンは父にかけた。国王相手なのだから、正規の方法で連絡を付けるべきだという理性が働き、時間があれば話がしたいと伝えた。
「どういうご用件でしょうか?」
 迷った。アンの中で一度容疑者から外れた父だ。叔父のことを出せば警戒されるのは目に見えているが、しかし面と向かったときに、うまく事実を伏せて話せる自信はなかった。結局、するすると聞き出されているからだ。
 結局、「昨日、リカード公爵邸のパーティに呼ばれたので、そのご報告に」と言った。取り次ぎは「分かりました。お伝えします。また後ほど、ご連絡を差し上げますので」と言い、アンは礼を言って受話器を置いた。しくじったな、と失敗を覚えた。多分、国王側近が国王に取り次ぐ要件の中で、アンの件の優先順位は低くなってしまっただろう。国王に対して娘がパーティの報告、と言ったなら、ただの世間話と思われても仕方がない。父は国王なのだ、もっと急を要する件がたくさんある。その方が、娘としても父に誇りを持てて嬉しいけれど。
 連絡が来る、ということなら、出掛けられなくなった。腕を組んで電話を睨み、ここで出来ることはなんだろうと考えた。外に出るならルーカスを通さねばならないだろう。意識しなければならないのは、自分は一応狙われている身ということだ。外出せず城にいて、狙われずにすむということは素晴らしいはずなのに、どうしてこうも落ち着かないのか。

 彼のせいだわ。アンは突然腑に落ちた。ルーカスが来ないから。一日に一度顔を見るような生活をしていたから、今日はもうこんな時間だし、リズムが狂ったんだ。かと言って自分が会いにいくような振舞いはできない。まだ彼を愛しているとは言えないから。キャサリンのことも無視できない。もし彼女を気にしないでいられる強さがあったなら、十六歳であんな風に傷付いたりしない。

 ため息をつき、電話を取った。兄の公邸に、ルーカスを呼び出した。まるで初めて電話をかけるみたいにどきどきした。もし、怒っていたらどうしよう。取り次ぎにキニアスが出たとき、彼を呼び出す声は落ち着かなかった。
『殿下は本日出掛けております』
「そうなの?」拍子抜けしてしまった。しかし吐き出されたのは安堵の息だ。でも心配が急にもたげる。「お国で、何か?」
『いいえ。私用だと申しておりましたので、ご心配されるようなことはございません。それよりも、アン様がお出掛けになるのなら、わたくしがお供をするよう仰せつかっております。お出掛けになられますか?』
 会いたくないと思われているのかしら、と想像がめぐった。
『それから、明日お伺いする約束を取り付けるよう申しつかったのですが、ルーカス様とお会いになっていただけますでしょうか?』
 受話器に息を呑んだ音が聞こえたにちがいない。キニアスはアンの思考を読めるのだろうか。驚きのせいで返事を口籠ってしまった。
「え、ええ……構わないけれど。いつも約束なんてなかったじゃない?」
『だとしたらようやく礼儀を思い出されたのでしょう。わたくしとしては嬉しい限りです。それでは、すぐにお迎えにあがります』
「ええと……お願いできる? 耳飾りがあったサンの聖堂の様子を見に行こうと思うの」
 出掛ける用意を始めると、ローリーは楽しげな様子で覗き込んだ。アンは先攻した。「ルーカスとじゃないわよ?」世話焼きな侍女頭はがっくり肩を落とした。

 すぐに迎えに来たキニアスが車を回してくれ、サンの聖堂へ向かう。彼は道を知り尽くしているかのように、スムーズに車を運ぶ。ティタスの方では雨のようだ。蒼い峰に雲がかかっている。
「午後から雨になりそうね」
「傘をご用意してございます」キニアスは特別誇る風でもなく淡々と答えた。アンにちょっと悪戯心が沸き起こる。
「日傘を忘れてしまったけれど、雨傘は代わりにならないわね」
「日傘もございます」ジョークのつもりだったのに、すんなりと彼は答えた。その上「手袋もございますが、お出ししますか」完璧だ。完璧すぎて、アンは「ごめんなさい、冗談よ」と頭を下げた。キニアスは全部を分かっていて「はい」と答え、微笑していた。

 銀星の耳飾りを管理していたサンの聖堂は、星を建築のモチーフに扱っている。ミシア女神の星は、十二芒星。その鋭角が光の線に近く、神の光とはちがい、人に近く照らすため、ミシアの数ある意匠のうち、最も人間に身近な光だと言われていた。十二芒星を掲げた聖堂は、時計台も抱いている。比較的高い建物がないこの辺りで、その鐘楼の音はミューダの街によく響き渡る。城にいても、夜などはよく時を知らせる音は届いてきていた。
「どなたかいらっしゃるようですね」キニアスの視線のさきには、停められた車が一台ある。そのナンバーが、アンには見覚えがあった。
「叔父さまだわ」

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