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「アン、話を聞いてくれ」
「もう話すことはないわ」
 パソコンを片付ける。書類も揃え、机の上はすっかり平らになった。
「クイールカントとサラバイラで交わされた誓約。賠償は過失のある国から王女を差し出すこと。私は王位継承権を放棄したけど、私じゃなくてもキャサリンがいるわ。それでいいじゃない!」
「いいわけないだろう!」
 睨み合って数秒。ルーカスが苦しげに喘いだ。「……アン、頼むから」
 アンは答えない。聞けば許してしまうからだ。どれくらい傷付いたのだと訴えることもしたくなかった。黙る以外に、そして荷物を空虚な気持ちで詰める以外に、何ができただろう。

「ルーカス殿下? あなたは、アンに話していないことがおありよね?」

 それまで黙っていたマリアンヌが、両手を組み合わせてにっこりとし、アンとルーカスを見た。彼が何か言う前に、彼女はその笑みを、有無を言わさぬ強い眼差しにして
「いいえ。陛下も、マクシミリアンも……女には分からぬと思って、真実を告げようとしないわ」
「どういうこと?」
 マリアンヌはルーカスを見た。彼は顎を引き、これから断罪されるのを待つ表情をしていた。それほどの構えをする必要が、どこにあるのか分からない。けれど「覚悟した人は好きよ」と王妃は彼に微笑み、言った。

「国連加盟にあたって、味方は多い方がいい。一人で群れの中にいるより、仲間がいた方が。アン、あなたは、クイールカントとサラバイラの結び付きのために結婚させられるのよ。耳飾りも、本当に盗まれたのか怪しいところ」
 アンは言葉を失った。「それって……」声にならない。
 父の声が聞こえてくるようだった。『この結婚は、国王の目からみても利益につながると思う』などと……。近代化が進むサラバイラに援助が受けられれば、クイールカントの先進化が行われる。二国が結びつくには、結婚が必要だ。王家の結婚が。すべてクイールカント国王と皇太子が、隣国の皇太子と画策したことだとするなら、彼らは何をするだろう。二国が結ばれなければならない状況が必要ではないか。

「全部、嘘だったってこと?」

 だから、耳飾りの遺失は捏造だったというのか!
「それは違う。銀星の耳飾りは確かになくなりました」ルーカスが声を上げると、マリアンヌはにっこりした。

「そうね。確かになくなった。でもそれは、本当にあの日なくなった(・・・・・・・・)のかしら?」

 アンもルーカスも動きを止めた。

「アン、私、あなたに誕生日の贈り物をしたわね? 何をプレゼントしたのだったかしら」
「指輪……深海の指輪の、レプリカを」
 とても綺麗な指輪だった。よく見ても、聖装身具に馴染みのないアンでは、多分本物と偽物を並べられても区別がつかない(・・・・・・・)

 母の顔を見た。氷水を浴びせかけられたような驚きに襲われる。頭の中が掻き回されている気がした。今までの、母の行動のすべてがよみがえる。少女のような無垢な微笑みを浮かべているが、この人は――すべてを知っている。

 電話が鳴る。

 それぞれの顔色を伺い、電話を取ったのは真っ先に立ち直ったルーカスだ。彼は告げられた言葉を聞いて、眉を寄せ、アンたちを見た。
「リカード公爵がいらっしゃったらしい。僕を呼んでいるそうだ。それから、アン、君にも面会が」
「どなた」
「店の前を貸した者だと」
 店の前、と聞いて、しばらく考えて思い出した。キャサリンを送っていこうとした時、気分を悪くして休ませてもらったあのお店。聖装身具のレプリカを売っていた店主。何か、大きな流れを感じる。すべてが動き出しているのだ、とてつもない流れで。だから、アンは答えた。
「会います。応接間にお通しして」
 アンの言葉を伝え、自分はすぐに行く、と返答して、ルーカスは電話を置いた。そして強い目で、懇願するように言う。
「いいかい、何を言われても一人で動くんじゃない。絶対一人で行動しないで。いいね?」
 アンが頷かないことを、ルーカスは気にした。
「アン」
「……我が国に責任があるとしたら、私は」
 責任を負わなければならない。逃げたくないと思う自分に従えば、身が竦んでも、駆けていくつもりだった。きつく握りしめるアンの手を、ルーカスは己のそれで包んだ。
「いつも、君の小さな手は傷だらけになることを選ぶ。それを愛おしく思うよ」でもどうか、と彼は拳にキスをして言った。「その傷が自分だけのものとは思わないでくれ」
「あなたは私の夫じゃないわ」だから背負う必要はないと首を振った。
「愚かな望みが君を傷付けた。償わなくてはならないと思う。すべてが終わったら、どうか、君の本当の心を聞かせてほしい」
 彼はさきほどと同じ、覚悟の表情をしていた。考えたのだろう。心から拒否される可能性と、幸せになれないかもしれない未来を。お互いを傷付けあい、取り返しのつかない、それぞれの道を歩むかもしれない運命を。そう思うのは、アンもそんな想像をめぐらせるからだった。許せない、けれど、許したい。でもなにか。まだ、なにか。決定的な証を、アンは胸に焼き付けられていなかった。
 彼はそれぞれが呼ばれたところに向かう途中、キニアスを置いていった。「ユミルに聞いたことが正しければ、公爵が来たのは、おそらく耳飾りの件だろう」と言い、キニアスには、側にいて見聞きしたことを伝えるように厳命していく。強い背中を見送り、アンは息を吐いて、その場に臨んだ。

 ミュータス城でも、ほんの一歩足を踏み入れた程度の応接専用の広間に落ち着かなさそうに座っていた宝石店の店主は、アンの姿を見てほっと息を吐き、突然の訪問を詫びた。一般人を招き入れることは異例に等しい。「何かあったのですか」と威厳を持って尋ねると、店主は深々と頭を下げた。

「告白いたします。一ヶ月と半月前、とある御方が、当店で聖装身具の模造品をお買い求めになられました」

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