Chapter 2
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 はっきりと覚醒していない意識でベッドの上に座っていた。空気は朝を過ぎて、昼近い太陽を感じる。閉じたカーテンからは光が漏れ、それを通して部屋は淡い橙色に染まっていた。頭痛がした。だんだん意識がはっきりしてくる。吐き出した息には、少しだけアルコールが残っているようだった。ワイン一杯なのに。

 あれは夢だったのだろうか。本当は、私はワインを飲んだ後、すぐに寝たのではないの? そうなれば、その後のことはすべて夢のはず。ルイに襲われそうになったことも、夜に浜辺を逃げ回ったことも……見知らぬ男にキスされたことも。

 まとめたままで乱れっぱなしの髪を降ろして手櫛で梳いてから、もう一度適当に結わえ、着替えて一階に下りた。イグレン語ではない声が聞こえてくるが、テレビから聞こえてくるトゥイ人の声だと思うにははっきりと実体を持っていたし、応じるようにノイの声もしていた。ノイ以外の誰かがいるのは間違いない
 リビングにそっと顔をのぞかせると、真っ先に気付いたのはやはりノイだった。
「おはようございます、イリス!=v
 めずらしくトゥイ語でそう言ってソファからぴょんと立ち上がると、こちらにやってくる。ノイの頭を引き寄せ挨拶を返したが、イリスの意識はつい、先ほどまで彼が座っていたところに向いてしまうのだった。何故ならそこに、まったく見知らぬ男性が座っているので。
 やっぱり昨夜のことは現実だったようだ。「おはよう、ミスター……」イリスが当惑がないまぜになった微笑を浮かべて言うと、彼は立ち上がって微笑んだ。
「フラムです、ミス」
「イリス・カナリーです」
 彼の目がきらっと輝いた。「金糸雀(カナリー)?」そして微笑んだ。「どうぞよろしくお願いいたします、ミス・カナリー(金糸雀嬢)」
 差し出された手は、ゆうべ触れた最初の印象のまま、力強くイリスの手を握り、太陽の光を受けた表情は紳士的であり柔らかで、魅力的に映った。夜の初対面の印象から、推測した彼の年齢がぐっと下がる。少し年上か同じくらいかと思ったが、もしかしたら年下なのかもしれない。全体が黒く濃いだけではなく、洗練してまろやかになった顔立ちだった。エキゾチックでハンサムな人だわ、とイリスは少々気後れする。金糸雀嬢とからかう声に胸が高鳴る。そしてその目。瞳の色は黒いのに、なんて澄んでいることだろう。
 フラムという名前は本名なのか、少々頭を悩ませる。トゥイ人の名前には姓がなく、親の名前が姓の代わりをしていることが多い。また多くの名乗りは通称で、ノイだって実は長い名前があった。イリスでは正しく発音できないが。
「ミスター・フラム。昨夜はありがとうございました」この言い方で礼儀は欠いていないはずと信じて、イリスは微笑みを浮かべた。「でも、もしかして私、あなたに失礼をしたのではないでしょうか?」
 そうとしか考えられない。どうして彼が我が家にいたままなのかという説明がつかないからだ。
「こちらに戻ると、安心されたのか、あなたは眠ってしまわれたんです」とフラムは責めるのではなく言った。続くのは、笑いを含んだ謙遜の言葉。
「戸締まりをしては私が出て行けなくなってしまうので、ご迷惑だとは思ったのですが、ここで一晩過ごさせていただきました。生きたセキュリティだと思ってくださればいいのですが」
 イリスは赤面するしかなかった。
「こちらこそ、大変なご迷惑をおかけしました。助けていただいたのに、無礼な振る舞いで、本当にごめんなさい」
「その内ノイが起きてきたので相手をしてもらっていました。申し訳ないですが朝食をごちそうになりました」
 イリスは時計を見た。目を見開く。「十一時! ノイ、ちゃんとご飯は食べた? 私を待って食べ損なっていない?」早口で聞くと、フラムがくすくすと上品に笑った。
「私が説得して、八時頃に二人で食べました。あなたを待つと彼は言ったのですが、私が限界だったんです。もしルールに反してしまったなら、彼は叱らないであげてください」
「叱るなんて! ありがとう、ミスター。あなたがいてくれてよかった。ノイに空腹を感じさせずに済んだわ」自分が限界だというのは多分嘘だろう。彼はきっと落ち着かないノイを見かねて、食事をしようと言ったに違いない。「本当に、ありがとう」もう一度、心から言った。ノイにひもじい思いをさせるのだけは、絶対に嫌だったのだ。
「レディ、食事はちゃんと冷蔵庫にとってありますから!」少年はこちらを見上げて言う。
「ありがとう。少しお腹がすいたわ。でも、もう少し待って昼食にしてしまうっていうのはどうかしら? ミスター、よかったらご一緒に昼食はいかがですか? 私、お礼のひとつもしていないって気付いてしまったの」
 そう言ったのは、彼がひどく紳士的に思え、ノイに対する態度に好感を持ったからだった。ノイが嫌がっていない。彼は、本当に紳士なのだわ。
「ありがとうございます。ごちそうになります」とフラムは柔らかに微笑した。

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